遭遇

尾八原ジュージ

遭遇

 時は世界統一歴二〇三年七月十八日、宇宙飛行士ベン・W・フンデルゼ氏は宇宙船リキーム号船内にてエイリアンに遭遇した。

 フンデルゼ氏はそのとき、船外作業を行う部下一名を船内のモニターにて監視していた。作業を終えた両名がカメラの死角に姿を消す。おそらく惨劇はそのとき起こった。一仕事を終えてほっと一息をつきモニターの前を離れた三十秒後、何者かに顔の前面をむしり取られた部下が悲鳴を上げながら、彼の前に転がり込んできたのである。驚くのもつかの間、その背後から姿を現したのは身長およそ二メートル、筋骨隆々たる体躯を返り血に染めた異形の者であった。

 原始より生物に備わるおそれがフンデルゼ氏の全身を駆け抜けた。それは死への予感そのものであった。赤いのっぺらぼうと化した部下は断末魔を上げながらフンデルゼ氏の横を駆け抜け、後方一メートルほどのところに倒れ伏した。

 その時咄嗟にフンデルゼ氏の脳裏をよぎったのは、二日ほど前、当の部下から受けた報告のことであった。近辺を航行していた宇宙船の乗組員が全滅したという。船内には鮮血と肉片が飛び散り、阿鼻叫喚の地獄絵図であったと聞く。いわゆるエイリアンの仕業でしょうと部下は言った。すでに他の船からいくつかの証言が寄せられているらしい。情報はまだ少ないが、それは鋭い鉤爪を持ち、暗闇をものともせずに人を襲うらしい。

 さてはこれがそのエイリアンであろう。フンデルゼ氏はそう考えた。しかしそんなことはどうでもいいとも思った。エイリアンの鉤爪には部下のものらしい宇宙服の切れ端がこれも血に濡れてへばりついており、このことは無論フンデルゼ氏を激昂させた。が、やはりそれも一番重要な問題ではないと彼は思った。

 エイリアンはまさに今、彼が向かおうとしていた小部屋の前に立ちはだかっていた。これが大問題であった。フンデルゼ氏は唇を噛み、

(うんこしたい)

 心の中で呟いた。真剣そのものであった。


 さて、フンデルゼ氏が心中で欲望を吐露する間もエイリアンとの睨み合いは続いていた。とにかく攻撃せねばなるまい。フンデルゼ氏は銃を手にするべく、腰のホルスターに手を伸ばした。が、そこにホルスターはなかった。排便に邪魔だったからモニター監視中に外したのである。つまり銃もそこにあるということで、今彼が握っているのは地球から持ち込まれたスポーツ新聞ひとつであった。

 両者の身長差はおよそニ十センチ、体格でいえばエイリアンの方が圧倒的に有利であり、フンデルゼ氏は逆境に立たされている。が、彼の太い眉はぎりぎりとつり上がり、目は爛々と輝いていた。今倒れている部下がまだ彼の顔を見ることがあったのならば、上司の見たこともない凛々しい表情を見てハッと息を飲んだかもしれない。排便を我慢しているとき、人は最も引き締まった顔つきをする。少なくとも、フンデルゼ氏はその類の人間であった。

(もうすっごいうんこしたい)

 だがトイレの前にはエイリアンが立ちはだかっているのである。鋭い爪を鮮血に染め、醜い顔に凶悪な笑みを浮かべている。対するフンデルゼ氏は丸腰である。スポーツ新聞を持ってはいるがまぁ大体丸腰と言ってよい状態である。

(すっごいトイレ行きたい)

 フンデルゼ氏の脳裏に、今度は懐かしい祖母の顔が浮かんだ。(ベンや、おトイレはきれいに使うのですよ)それが彼女の口癖であった。幼くして両親を亡くしたフンデルゼ氏にとって、祖母は親代わりであり、世界で最も尊敬すべき人間であり、そして大変な綺麗好きであった。今はもう彼女も天の国の住人であるが、手塩にかけて育てた孫がいい年してうんこ漏らしたと知ったら何と言うか。そのことを思うとフンデルゼ氏の胸は痛み、そして表情はますます凛々しくなるのであった。

(体当たりとか効くかな)

 氏は考えた。敵が一瞬倒れれば、いや怯めばそれでよい。その隙にさっとトイレに入れはしまいか。フンデルゼ氏はかつてレスリングを極めた男であった。オリンピックで表彰台に上がったこともあった。しかしこの状態でタックルなどかませばどうか。中身が出てしまうのではないか。

(我慢すればいけるかな)

 いける、かもしれぬ。何しろトイレに入ってしまいさえすれば鋼鉄のドアは固い。破られる前にうんこを済ませてしまえばよい。いやよくない。いずれ扉は破られるだろうし、そうなれば再び生命の危機である。しかしフンデルゼ氏の頭の中は今、いかにしてトイレで排便するかということで一杯であり、その他のことは些事であった。それが自分の命に関することであっても。


 一方、エイリアンも動かずにいた。彼とて好きで膠着状態に入ったわけではなかった。正面に立つ人間からただならぬ覇気を感じて戸惑っていたのである。これまで自分の姿を見た地球人の慌てふためくことと言ったら他愛のないことこの上なかった。彼らを殺すのは爪楊枝の頭をへし折るようなものであった。ところが今目の前に立つ男はどうであろう。自分を前にして一歩も後に退かないどころか、殺気を込めた目で睨みつけてくるではないか。全身から闘気が湧き上がっているではないか。

 エイリアンは躊躇した。相手は、何かおそるべき攻撃手段を隠しているのではないか。そのような気がした。しかしそんなことはなかった。フンデルゼ氏はただただうんこを我慢しているだけなのだ。だが、そのようなときにこそ人は火事場の馬鹿力、否クソ力を発揮するものである。少なくともフンデルゼ氏はそのような類の人間であった。

 フンデルゼ氏は考えた。なぜかくもトイレを邪魔されねばならないのか? スポーツ新聞を読みながら一発かましたいというささやかで人道的な願いをなぜ叶えることができないのか? 一重にこの全く空気が読めないエイリアンのせいである。彼は今、色々通り越して怒りに満ちていた。こいつが悪い。何もかも悪い。

「おおおおおおおおお!! おっ」

 フンデルゼ氏は雄叫びを上げた。最後の「おっ」はちょっと出そうになったがための一声であったが、ともかく野太い声をあげてエイリアンに突進した。エイリアンは躊躇した。なまじ知能があっただけに瞬間、竦んだ。その刹那、フンデルゼ氏はエイリアンに飛び付いた。

 首にがっちりと腕が絡んだ。渾身のヘッドロックであった。(うんこしたい)その一念は最早理性を超え宇宙と繋がっていた。この便意はおそらく昨夜食べたカレーの香辛料が合わなかったせいであろう。彼は悔いた。脳内にカレーの幻が満ちた。サフランライスを掻き分けて祖母が顔を出した。まぁベン、そんな年になってうんこを漏らすなんてなんて恥ずかしいの。おばあさまは恥ずかしくて死んでしまうわ。

「もう死んでんだよおおおぉ!!!」

 フンデルゼ氏はそう叫びながら祖母の首を捻り上げた。何かが折れる手応えがあった。グラグラと揺れているのは祖母の首ではない、エイリアンのそれである。何たることか、体格に勝る敵を、フンデルゼ氏はその便意でもって弊したのであった。

 これには呆然としかけたフンデルゼ氏であったが、括約筋の緩みを感じてハッと意識を取り戻した。トイレに入らねば。彼はエイリアンの死骸をボトリと宇宙船の床に落とした。約束の地は目前である。

 が、その時床に倒れていた部下の死体がムクリと起き上がった。その肉体を食い破って、小柄な体躯のエイリアンが現れ、鋭い爪を振りかざして俊敏にとびかかってきた。

「ひゃっ」不意を突かれたフンデルゼ氏は女子のような声を上げた。力が緩んだのはまさにその瞬間であった。プピィ〜〜〜〜〜と笛のような音を立てて門は決壊し、液体に近い状態の便がパンツの中に噴出した。

「ギャアアアアアアア」

 悲鳴を上げたのはエイリアンであった。彼らの強みである優れた嗅覚を、スパイシーな異臭が襲ったのである。

 床を転がり回るエイリアンを、フンデルゼ氏は泣きながら踏みつけた。何度も何度も何度も何度も動かなくなるまで踏んだ。やがてそれが動かなくなってもなお踏んだ。遠き日、少年の頃同じ気持ちで地団駄を踏んだことがあったような気がした。下腹がずっと温かかった。

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遭遇 尾八原ジュージ @zi-yon

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