ソロ

とじまちひろ

消えたい。誰の記憶からもいなくなりたい。



 海辺で伊佐木さんが俯いている。

鎖骨の間にのめりこもうとしてるんじゃないかってくらい一心に下を向いて、浜で拾った流木を、同じくその辺で拾った石で削っていた。目の冴えるような晴天で、海から吹く風が手荒く髪を引っ掴む。平日の正午に近い時間で、あたしたち以外に人はいない。

いつものように家にいたあたしを、伊佐木さんはいつものように連れ出した。

ただ、ちょっと出かけようで海まで連れて来られるとは予測出来なかったけれど。

五月の初旬とは言え、スウェットにジーパンだけではあまりに寒い。自然と肩がすぼまって、首を引っ込める。目に見えない煙のように磯の匂いがそこらじゅうを漂っている。腕を組んで脇の下に手を差し込んだ。

「かおるちゃん」

 五メートル近く離れているせいもあるだろうが、伊佐木さんの声は籠っていて聞き取りづらい。水中で喋ろうとしているみたいに、雑音に紛れてしまう。先ほど削っていた流木を小脇に抱えて、新たに拾ったらしい、白い枯れ枝を手にしている。

あたしは「なあに」と大きな声で返事をした。怒っているように聞こえたかもしれない。

「寒いなら、車に戻っておいで。僕、もう少しかかるから」

「いいの。あたしのことは気にしないで。ほっといていいよ」

 背中に伊佐木さんの視線を感じながら歩きだす。

あたしが適当な枝を拾い上げて振り返った時には、浜にしゃがみこんで流木探しを再開していた。背中を丸めて、紺色のダウンを着た後ろ姿は大きなダンゴムシみたいだった。はじめから海に来るつもりだったのだろうか。オレンジ色のニット帽子をかぶって、肩に掛けたビニール製の鞄からは枯れ木が何本か突き出ている。砂や濡れた葉っぱを払い、拾った流木を片っ端から鞄に入れていた。

 今は干潮なのだろう。海際の砂浜は広く濡れていて、顔を寄せるとアリの巣のような細かな穴がたくさん開いている。浜に寄せる春の海水は透き通って冷たそうだった。素手の指先はすぐにかじかんだ。強張った手を握ったり開いたりしながら、波打ち際をぼんやりと歩く。

 ここに着いた時にはどこかで工事をしていたのか、金属のぶつかり合う音がずっと聞こえていたけれど今は止んでいる。風が強く、陸から少し離れた場所で波はそこそこ荒れていた。

波がぶつかり合う、断続的な水音を聞いているといつのまにか無心になって水面の形が変わるのを眺めていた。それでも自分の体の内側からくう、と鳴る音はごまかせなかった。お腹が減ったし、それにやっぱり寒い。

 伊佐木さんはまだ砂浜にかがみ込んでいた。あたしから何か言い出すのは嫌だった。その場に立ち尽くしていてもじりじりと空腹感を気にしてしまいそうだったから、伊佐木さんが気づくまで先を歩き続けることにした。

そして足元を見降ろしてようやく、あたしは通学用のコンバースの靴を履いてきてしまったことに気がついた。底が厚いから重たい、白い丈夫な生地のコンバース。湿った砂は靴の底にも表面にもこびりつくし、何より生臭くなってしまう。靴の先には乾いた海藻が張りついていた。

だけどもう、しょうがない。どうせしばらく通学用には使われていなかった。


 あたしが学校へ行かなくなったのは、中学へ上がった去年の暮れ頃。

 といってもまるきり通っていないわけじゃない。試験は保健室で受けているし、時々は教室まで行く。授業に出ないことを心配する友だちがいなかったわけではないけれど「どうしてクラスに来ないの?」という問いかけを適当に流していたら、そのうち何も聞かれなくなった。

やがて春休みに入って、中学二年生になった。

クラス替えで一年生の時に同じクラスだった友だちとも離れてしまってやがて保健室にもやって来なくなった。いじめられているのかと両親に聞かれたこともあったけれど、それっぽいことはされていない。二年のクラス替え後はほとんど教室へは行っていないのだから、あたしと同じクラスだということを知らない子もいるかもしれない。もうずいぶん学校行事をさぼっているから、いじめられるとしたら多分これからだ。

だけど三人で顔を突き合わせて食事をしている時に、そっと尋ねてくる二人にそんな意地が悪いこと言えない。本当に、思っていることだけど。

誰も『本当のこと』なんか聞いていない。

聞きたいのは、自分の『予想の範囲内にある答え』だ。それに、思ったそのまま口にすることは、思いやりがないとも言えるだろう。

現にあたしが保健室へ行くといつだっている、同級生の西村鈴子さんは思ったことや見たままをすべて口に出してクラスじゅうにいじめられた。

クラス全員が彼女をいじめようと思ったわけではないだろうけれど、誰にもかばわれたりしなかった。同じクラスじゃないあたしでさえ彼女のことは知っていた。

西村さんは良いように言えばマイペースで、悪く言えばぼんやりしていてどんくさい。そのくせのっそりと口にする言葉は辛辣で、雰囲気に似合わない言動にあたしもはじめのうちは呆気にとられた。

彼女は真っ黒で毛量のある髪を一つ結びにしていておくれ毛が多く、見かける度その妙に気迫のある髪型にあたしはちょっとどきっとする。

西村さんとは何度も保健室で顔を合わせているのに「先生はいる?」と尋ねても、たっぷり時間をかけて「いない」としか答えてくれない。

どこそこに行くって言ってたよ、とか今日はまだ見てないね、とか一言添えてもいいものなのにそういう気遣いがまるでない。親しくなる気はしなかったし、構わないのだけれどなぜわざわざ事態を面倒にさせるのだろうと思った。

ちょっとはにかんでみせるとか、辺りを見回す素振りを見せるとか、たったそれだけで聞いた誰かは納得するし、西村さん自身も煩うことなく過ごせただろうに。

 または保健室で給食を食べていた時。その時はあたしと、西村さんと、保健室の先生の三人がいた。片づけや衛生管理がこまごまして面倒だからと、一か所にかたまって食事をとる決まりになっていた。

「……それから、もうすぐ試験だけど範囲はわかってる?」と保健室の先生が言った。『保健室の先生』は、校長や教頭と同じような名称なのであって、あたしが保健室で過ごすようになってそろそろ半年近く経つけれど、保健室の先生の名前は未だ覚えられない。名前を呼ばれるところなどなかなか出くわさないから、機会がないのだ。

「だいたい。でもどうせ全部は勉強出来ないじゃない?」

あたしは保健室に入り浸って授業に出ないかわりに、大量の宿題を出されていた。

それで間違った箇所を各科目の先生に解説してもらうのだ。先生によっては忙しいか予定があるかで、解説もされないまま終わってしまったところもあったが、試験範囲といったって前回の試験の続きから今やっているところの間で出題されるのは間違いないだろう。わかっているところだけでどうにかするのは授業を受けていようがいまいが一緒だ。

先生は屁理屈言わないのと優しすぎる声音で諭した。

まるでそばで寝かしつけられているみたいにひそひそして、全然声を張らない。西村さんは黙って先生の顔を見ている。あたしと先生が喋っている間に彼女は黙々と食べ続けるので、いつも一人先に食べ終えている。

「明日の四時間目の時間に石塚先生が試験範囲を教えに来てくださるから、二人とも忘れないでね」

「石塚先生? 古典の?」

石塚先生は茶道部の顧問をやっていて、だからというわけではないだろうが彼女が通り過ぎた後は甘く饐えた花の匂いがする。嫌味なほど間延びした話し方をするが昔日本語教師をやっていた名残なのだそうだ。

「そう。明日のその時間授業がないから都合がいいみたいでね」

「ええ、いやだ」西村さんが、がぱっと口を開く。

表情が乏しく口元だけが動くのが、まるでくるみ割り人形みたいだった。目の形が変わることなく、唇だけが定められた形に動く人形。喋るだけの最低限の動きと、一音一音聞き取れるはっきりして平坦な声。彼女は文字通り区切って喋る。ええ。いやだ。

「あらま、どうして?」先生が西村さんに質問したので、あたしは食べるのを再開した。

「石塚先生が嫌いなんです。授業を進めるのは遅いし、無駄話が多くて。しかも脱線して話すことが一つも面白くないんです」

この空間にいるのがあたしたちだけだから、まだそれほどでもないけれど、それでも空気が痺れたように強張った。

石塚先生はどちらかといえば生徒に人気がある先生だ。理由はそれこそ無駄話が多いから。生徒と話したがる人のようで、授業から脱線し生徒たちと質問大会(もちろん授業とは関係がないもの)になることが常だった。先生昨日のドラマ見た? とか、そのカーディガンどこで買ったんですか? とか。

石塚先生のことは好きでも嫌いでもなかった。先生先生と寄りつかなければ指名されることはないし、授業時間が自習になるようなものでそれほど不便には思っていない。確かに試験期間になると、これまでの遅れを取り戻すべくハイスピードで授業を進めることには閉口するけれど。

「まあ。話がつまらないの?」保健室の先生は訊き返した。

「はい。みんな授業をしたくないから、おだてて、つまらない話の先を促しているのに、石塚先生てば、ちやほやされてすごく嬉しそうで。見ていられません」

あたしはチンゲン菜とシイタケのスープを啜りながら、西村さんの印象を改めていた。口数が少ない不愛想な印象で、他人に関心がないタイプの人なのだと思っていた。黙ってしっかり人を見ていたのだ。けどなんだかそれっていやらしいと思う。噂好きだったり、それなりに人と関わっていこうとする人なら、他人に興味があって観察しているのもわかる。

だけど西村さんみたいに積極的に周囲から孤立するような人が、恐らく直接的な会話はほぼなかったであろう石塚先生を、一方的に目の敵にしていることはなぜかあたしを居心地悪くさせた。

単にそれほど関わりのない西村さんが、思っていたような人ではなかったというだけなのに。彼女とは同じクラスでもなければ友人でもなかった。保健室にいつもいる同級生。西村さんは聞かれないから言わないだけで、同じように保健室に入り浸るあたしにも何か思うところがあるかもしれない。口にしなければ無いのと同じだけど、彼女の頭のなかにあるかもしれないということをあたしはもう知ってしまった。

保健室の先生はふふふと笑った。西村さんと同じ一定のトーンだけど優しいやわらかい声だから、愛想が悪いようには聞こえない。

「そうなのね」と宥めるような相槌をうった。やはりと言うべきか西村さんは返事をしなかった。



「かおるさん、ちょっといい?」

午後、帰りの支度をしていると、保健室の先生に声を掛けられた。

衝立のある奥のソファー席に呼ばれる。やがて昼休みがはじまって、教室から出た生徒で廊下や校庭はにわかに騒がしくなった。昼休みになる前に、学校を出たかったのに。

ごめんね、帰り際に。と先生は言った。ですね、とあたしは思っていたけれど黙っていた。

「ちょっとしたことを聞きたいだけなの。まだ教室で授業を受けるのは難しい?」

「……えっと」唾が喉元でつっかえて、思っていたよりずっと小さくて低い声が出た。こんな「ちょっとしたこと」を聞かれたくらいで、あからさまに動揺する自分が恥ずかしかった。

「嫌なら嫌でいいの。一時間だけ、とか午後からでもいいのよ」

「そう、ですね。あのでも、まだ。駄目かなって……」

「そっか、わかったわ。ありがとう」

顔をあげたあたしと目が合うと、保健室の先生は微笑みを浮かべかすかに頷いた。

そんなにあたしは悲壮な顔をしていたのだろうか。痛がる子どもを宥める医者のような、同情めいた眼差し。さあ終わったわ、もう行っていいのよ。

居心地が悪くて、慌てて保健室を出てしまう。昼休みの終わり際に出ていけば良かった。人いきれのする廊下でたちまち後悔する。

日陰でも明るい、昼休みの昇降口。話し声や、嬌声が入り乱れて単語一つ聞き取れない音の振動になる。寄り集まった生徒たちが、絶え間なく話続けている。

あたしはただ一点を見つめる。歩む自分の足、そのつま先、下を見ながらでは歩きにくくて歩幅は狭くなる。下足入れの番号、かかとが少し剥げた白のコンバースの靴。何とも目を合わせないようにする。

昇降口を出て、学校から急いで遠ざかった。校庭の脇の緩い傾斜を上る。

膝が固くて、足が思うように上がらない。コンクリートで舗装された道の割れて盛り上がった地面に靴底をぞぞ、と引き摺り足をとられてしまう。

ほんの一瞬あたしは気が狂いかける。地面を踏み抜き、重たい足を苛めるみたいにして黙々と歩いた。横断歩道を渡ったところで、ようやく立ち止まる。学校は遠のいて、校庭にいる生徒たちも学校のジャージを着た塊にしか見えない。

少しの間その場に立ち尽くしていると、やがて間延びしたチャイムが鳴った。

校庭にいたジャージの塊も校舎へ吸い込まれていく。強張っていた足の力が憑き物が落ちたかのように抜けていく。それであたしはようやく家へ帰る道を、ゆっくりと歩きだすことが出来た。

やがて春休みを経て一日中学校に行かないということにも慣れてしまった。

保健室に行く頻度さえ減って、両親は共働きで出掛けていくので家にはあたし一人になる。一人きりの時間がもう少し長ければ悪いことでもはじめたかもしれないけれど、間もなくして伊佐木さんが顔を見せるようになった。

伊佐木さんは、父の兄にあたる人で、芸術家だ。

展示会にも何度か足を運んだことがあるけれどあたしは美術に関心がないし、伊佐木さんの作品は抽象絵画や見ていて不安な気持ちになる、何が元かもわからない歪な形をした彫刻が主だった。例えば写実的な絵ならば一目で上手だとか下手だとか感想が思いつくけれど、何を描いているのかもわからない作品にはなんの感想も抱きようがない。つやつやしているね、とかここは剣山みたいだね、とか。見たままを口にすること以外に何が出来るだろう。中学生に抽象絵画は早すぎる。両親は言葉少なに作品を眺めていたが、きっとわかっていないと思う。

以前にも伊佐木さんは自分が暇な時にうちに来ることがあったけれど、平日の昼間とか休日の夜中で、やってくる時間には脈絡がなかった。

来訪はいつも突然で、事前に連絡をくれることなど一度もないから夕飯を食べている最中だったり、大掃除をしている途中のかなりちらかったときにもやってきた。「来るなら電話を寄越せばいいのに」と母はよく零していた。

あたしは一人っ子なので、兄弟の距離感というものはわからないけれど伊佐木さんは父とはよく喋る。

二人とも低い声のまま喋るから不機嫌そうで、ぽつりぽつりと間があくのだけどなぜか話が途切れる様子がない。そのくせ母が間に入ると、二人とも声がちょっと高くなった。

伊佐木さんはあまり口数が多いほうじゃない。さすがに二人きりになると何かしら話しかけてきたり、会話をしようとする姿を見せるのだけど、両親や第三者がいるとなると黙り込んでしまう。機嫌を損ねているというわけでもなさそうだった。他にも人はいるのだから、喋るのは自分の役目じゃないとでも思っているみたいだった。

ただ彼は背が高く、猫背なのだがそれでも父より大きい。だから人の輪から離れてぼんやりと立っているだけでも目に付いた。会話をしていても聞いているのかいないのか変な相槌をうったり、半端に愛想があるから、どっちともつかない返事ばかりしていた。

ようは適当な性格なんだと思う。

かなり小さい時からあたしの面倒を見て、遊んでくれたりしていたみたいだけど、幼い時のことで覚えているのは彼が目を離して、あたしがブランコから落ちたときのことだ。遊具に座り損ねてお尻から地面に落ちて、漕いでいたブランコがごん、と鐘をつくみたいに後頭部にぶつかった。

伊佐木さんはそれを見てひいひい泣きながら笑っていて、頭に来たからあたしはしつこく泣き喚いた。伊佐木さんがようやくあたしを宥めはじめて、呆れた両親が引き取りに来るまで。

 でも、言い方が良くないかもしれないけれど、最近伊佐木さんはあたしにとって都合が良かった。

彼は荷物を回収するみたいにあたしを家から連れ出して、ただ自分の行きたいところに出掛けていく。移動は車だから、同級生たちと会うことはめったにないし、伊佐木さんは何も聞かない。両親のように、あたしに気づかれないよう熱心に見つめてきたりしない。それに、学校のある時間帯に一人で家にいるのはかなり退屈だった。

はじめのうちは本を読んだりテレビを見たり何かと時間を潰してはいたのだけれど、何日もその繰り返しでは飽きてしまう。熱中するような趣味もないし、一人遊びは得意じゃなかった。ふとしたとき三十分は経ったろうと思って時計を見るとたった三分しか時間は経過していなくて、そのたび頭が端っこから焼け焦げるような心地がした。

時計から目を離せばいいのに、外へ行けばいいのに、そんなことはわかっているのに、あたしは時々何も選べなくなる。

 家の呼び鈴が鳴って、音の余韻も消える頃に続く間延びした彼の呼び声。

さっさと立ち上がって玄関に行きたい気持ちを抑えて一つ一つ動作を確認するみたいにして起き上がる。都度そうやってゆっくりやってくるあたしを、毎回初めてみたいに「ああ、いた」って顔で伊佐木さんは出迎える。それがどんなにありがたいか、ほっとしているか、あたし以外にはわからない。


 浜辺を歩いていると、波打ち際に鴎が翼を翻して降り立った。

波が押し引きする浅瀬でやりづらそうに羽毛を整えている。真っ白な体毛に濃い黄色の瞳は鮮やかで、くり抜いたように浮かび上がって見えた。

「かおるちゃん、ちょっと、どこまで行くの」

 ようやく伊佐木さんに呼び止められて、手足共がかじかんでうんざりしていたあたしはすぐ振り返る。思っていたより距離が開けていなくて、数歩で伊佐木さんにたどり着いた。

「何を見てたの」

「カモメ」背の高い人に見下ろされると威圧感を感じる。伊佐木さんはにこりともしないから尚更だ。

「ああ、鴎ね」そう言って視線を海の方へ投げかける。

鷲鼻っぽい鼻の形と、重たげな目蓋のせいで思慮深く見えるが、だからって小難しいことを考えているわけではないことをあたしは知っている。

「鴎って、いつ見ても想像してたより大きくみえることない?」

普段表情の変化に乏しいから、ちょっと力を抜くだけで伊佐木さんはやわらかい雰囲気になる。以前虫の居所が悪かった父に「親を睨むな」と叱り飛ばされるほどあたしは目つきがよくないのでその点は伊佐木さんが少し羨ましい。そうだね、と頷いた。

「カラスくらいの身丈はあるしね。目なんかまん丸だけど、妙に表情が怖いんだよね。ずうっと目を合わせてたら、いつか嘴でついばまれそうっていうか」

「かおるちゃん、鴎に襲われたことでもあるの」

「ない」あたしが即座に否定するとなぜか伊佐木さんはおかしそうに笑った。くすぐったさを堪えるみたいに肩を竦めて、背格好に似合わない子供じみた仕草だった。

「なに。何か、面白かった?」どうしてあたしはいつも不機嫌なんだろう。

「だって、全然謂われもない印象だから、おかしくて」

 伊佐木さんはあたしが不機嫌でもちっとも怯んだりしない。だから思う存分、むくれた面をしていられる。


それからあたしたちは海の入り口に駐車したライトバンまで戻った。

歩きながら何度も木の枝を取り落とすので数本持ってあげた。そうはいっても、伊佐木さんはなかなか真っすぐには歩かない。道を逸れて(砂浜だから別に道もないのだが)また枝を拾いだしたり、歩くスピードが徐々に遅くなってついに立ち止まり、どこか彼方を見つめていたりする。

だからあたしは時々立ち止まり追いつくのを待って、同じように伊佐木さんの視線の先を眺めたり、あるいはしばらく先を歩いてから声をかけて促したりしなくちゃならなかった。

もう少しほうっておいてあげたっていいんだけれど、今日は寒いしお腹も空いているから早く歩いてほしい。かといってあんまり何度も急かすと煩わしそうにさえするのだ。車で待っていなよ、と言うけれど運転なんてしないのだから、鍵の開け方なんかわからないのに。

そうして普通に歩くよりずっと時間をかけて車にたどり着いた。

日に焼けた白いライトバンは、扉の端っこや車体の下がところどころ銅色に錆びている。伊佐木さんは流木の詰まったビニール鞄を車の後ろに積んだ。普段からこの車で画材や作品を運ぶので扉を開けた瞬間は、独特の油っぽい匂いがする。

澄んだ黄土色の液体の入った瓶が座席の足元に転がっている。あたしは持っていた木の枝を積んだ。手に着いた砂を払う。

「これ、何に使うの?」

 伊佐木さんはンン、と喉を鳴らした。

「削って使うかもしれない。まだ考えてない」

 あたしは呆れた。だって浜で二時間近く流木を集めていたのだ。

「何か目的があって、拾ってたんじゃないの? すごく悩んで選び抜いてたじゃん」

「まあ、とっておいていつか使うこともあるかもしれないし。それよかそろそろお昼だよね。何食べる?」牛丼でいい? と伊佐木さんは言った。あたしは車に乗り込みながら、今日は牛丼なのだな、と思った。

 伊佐木さんが住んでいた自宅兼アトリエの平屋は、二年前の津波で流されてしまった。

それで今は市外のアパートに住んでいて、アトリエは町の公共施設でときどき美術教室なんかをやったりする部屋を借りているらしい。

震災が起こった日、伊佐木さんは打ち合わせで東京にいた。あたしは当時まだ小学生で、春休みだったから自宅で被災した。たまたま有給をとっていた母が家にいて、一度はとまった水も電気も三日ほどで復旧した。

多少混乱したり、買い出しに行ったスーパーで食べ物が何もなくてびっくりしたりしたけれど、あたしが住んでいた地域の被害は大したものではなかった。

ほんの数日、不便だっただけだ。


「かおるちゃんどう、やってそう?」

 車は海岸から近くの市街を走っている。

わき見運転出来ないから見てと伊佐木さんに言われて、あたしは車の中から店が開いていそうか確認する。信号で停まるとき以外、本当に一切横を見ることがないので真剣に探さなくちゃならなかった。道沿いに看板が建っている牛丼屋のチェーン店をいくつか通り過ぎた。駐車場に車はなく、人のいそうな気配はない。

「店内の電気ついていなかった」交差点の信号が赤になり、停車する。

「やっぱこの辺はまだやってないか」

「当たり前でしょ」あたしは顔を顰め、必要以上に詰ってしまう。まるで自分はちゃんと知っているかのように振舞っている。

「……そうなのか。ここも、被害が大きかったんだっけ」

「だって、防波堤の工事していたじゃない」

 当時、震災状況を伝えるものはなるべく見ないようにしていた。

ラジオも、テレビも、新聞も、SNSも。これまでにない大きな地震で、特に津波の被害は凄惨たるものだったらしい。家にいた両親はずっとラジオを聞いていたし、誰もがその話をしていた。

知らないでいようとすることは大変だったし、知らないでいることは不便だった。会話をしているとボロがでる。その日の朝のニュースを聞いていないことや、被害の大きな地域をまるでわかっていないことがばれてしまう。

今あたしが伊佐木さんに対してしたように、被災状況をまるで知らないでいると皆嫌な顔をした。当たり前だ。渦中にいる人たちは目を背けたくたって、出来ないんだから。 

母がラジオを聞いていてくれなくちゃ、電気やガスの復旧がいつになるか、近所のスーパーが開店になるかどうかだって、わからなかったんだから。

 両親がいたから、家があったから、一人きりではなかったから、あたしは聞きたくない、見たくない、知りたくないものから、目を背けていられた。なんとかしてくれた。何も考えていなかった。なんにも。

どこまでもどんなものからもあたしは逃げていた。

「そうだよなあ。今は沿岸を工事しているところが見えてるけど、海までの道なんかここから見えなかったもんね」

「……」あたしは黙り込んだ。

窓の外を見る。道を歩く人は滅多に見かけないけれど、スーパーもコンビニも近くにない海際の地域ではいつものことなのかもしれない。

 ここに住んでいたのは伊佐木さんだ。そもそもあたしは元の景色なんか覚えてもいない。

 信号が青に変わる。観光用の乗り物かと思うほど、車はゆっくりと加速する。砂利を積んだ大きなトラックが轟音をあげて追い越していった。白く明るい曇り空だったから、まっすぐ陽ざしが差し込んで車内はうっすらと暑かった。頬が熱くてぼんやりとする。

「伊佐木さん、窓を開けてもいい?」

「いいけど、ちょっとだけね。全開にしないで」

 窓を少しだけ開けると磯の匂いのする埃っぽい風が入ってきた。座席のサイドレバーを引いて椅子の背中を後ろへ傾ける。海には独特のパワーがあると思う。大したことをしていなくとも、疲れるのだ。潮の匂いがする冷たい風が、遮るものが何もない強く濃い日差しが、いちいち足をとられる粘るような砂浜が、時間と共に確実にあたしを削いでいく。

「かおるちゃん、酔っちゃった?」運転席でまっすぐに前を向いたままの伊佐木さんの肩が、そっとあたしに問いかけた。速度は遅いけど丁寧で、荒れた道で時々揺れる以外は快適な、良い運転手だった。

 ううん、大丈夫。

 即座にそう答えたつもりだった。けれど伊佐木さんは何の反応もしなかった。頭の中で答えただけで、口には出せていなかったのかもしれない。かおるちゃん。

「どうして、学校へ行かないの?」

 無防備に寝そべったまま深々と突き刺されて、鳩尾が割れるかと思うほどするどく脈打った。「お」の形に口をすぼめたまま、からっぽの呼吸を繰り返した。何も今聞くことはないのに。黙って海岸を歩いている間にも聞くことは出来ただろうに、意地が悪くさえ思えた。

「……言いたくない。伊佐木さんに関係ないでしょ」それで苦し紛れにそう言った。

 言いたくないんじゃない。言いようがないのだ。あたしに、学校へ行かなくなるほどの辛い出来事なんてなかった。

「そっかあ。……」

 尋ねておいて、いつもの伊佐木さんらしい気のない相槌。

ただ何かを言いかけて、飲み込む気配があった。振り向きかけたが、結局前を見る。

正しいことを言いたいだけ言って、あたしをずたずたにしたらいいのに。それで伊佐木さんも、あたしもちょっとは気分が良くなるはずだ。ラジオもつけない車内は静かで日の差し込む場所がぽっぽと熱かった。目を瞑る。日に焼けたのかもしれない。



 あれは震災が起こってからひと月ほど経った時だった。両親は出掛けていて、家にいたのはあたし一人だけだった。

「こんにちは。お父さん、いるかな」

 その人は毛玉だらけのジャージを着た、父より一回りほど年上の男の人で、人見知りの子どもみたいに、体の前でせわしなく両手を擦り合わせていた。

「……いいえ、父はいま出掛けています」

 あたしは滅多にならない呼び鈴に驚き慌てて出てしまったが、すでにちょっぴり後悔していた。

配達員でもなければ、回覧板を持ってくる近所の人でもなさそうだ。顔を見て数秒で、その人に嫌な感じを受けていた。子どものあたしと会話する気がまるでない、猫なで声だったから。首を伸ばして、応対したあたしの背後を見透かそうとするように無遠慮に部屋を覗き見ていた。

けれどこれまで一人で留守番することなんてなかったから、どうしたらいいかわからなかった。

「あ、そう。そうか。いないのか。困ったな、どうしようかな……」

「あの、父は、今日は仕事なんです。母は買い物に出ていて、もう少ししたら戻ると思いますけど」そう口にしてから、じゃあ家の中で待たせてくれと言い出したらどうようと思った。

「ああ、そうか。じゃあさ、あの、卵くれない」

「え」まるで、店員と顔見知りの馴れ馴れしい客のようだった。

「卵だよ。卵。あるでしょ? おうちに」

勢いづいて捲し立てる男の声に押されて、あたしの足は台所へ向かった。

冷蔵庫の中には使いかけの油あげ、半分のキャベツ、白っぽくなった野菜の切れ端があった。卵は八個入りだったものの、先日親子丼の、鶏肉を油あげに置き換えたものに使われた。それで、今は四つが残っている。

あたしは、まるで取り返しがつかないことの真っ最中であるかのように、体の後ろ側がすうすう冷えるのを感じながら四つだけ卵が入ったパックを持ち出した。必死になって暴れたらぱっと振り払えてしまえそうな、弱い催眠にかかっているみたいだった。

そして、男に卵のパックを手渡した。あ、と男は口走った。あ。あ。あ。それが口癖みたいだった。受け取りながらすでに片手を扉にかけていた。

男が「どうもね」と言ったのだと気づいたのは、風のように出ていった少し後だった。


 先に家に帰ってきたのは母だった。あたしは男が出ていってからずっと置物みたいに床に座っていた。何かから隠れるようにじっとして息をひそめている間、あたしはこの世のどんなものよりも鈍い生き物だった。

けれど母が「かおる、ただいま」という声と共に帰ってきて、玄関でがさがさとビニール袋の擦れる音が耳にした途端、現実に引き戻された。

「かおる? なんだ、いるじゃない。どうしたの、そんな静かに座って」

自分のしたことが、ろくでもないことだったと気がついてしまった。

 おかえりなさい、と言ったはずだ。別のことを考えていて、たぶん気のない声ではあったと思う。ただあたしを見て、いつも通りみたいな恰好をした母の目だけがさっと強張った。

 一度台所に引っ込むと、すぐ居間に戻ってきた。そしてそばに腰を下ろして「何かあった?」と尋ねた。何かを強く抑えつけて絞りだされた優しげな声。子どもの頃、母はいつも一声であたしの不安を言い当てた。母からは夕方の焦げた陽ざしと埃っぽい外の匂いがして、悲しいと思うより先に目頭が熱く滲んだ。

あたしは、見知らぬ男がやってきて家にあった卵を渡してしまったことを伝えた。

しゃくり上げながら喋っている間、母は緊張した眼差しのまま細かく相槌をうっていた。そして揉みこむように力強く、あたしの肩を擦っていた。「びっくりしたね」と母は言った。ごめんね、一人にして。何も言うことが出来なくて、母の白い手の甲にぽっちりと浮かんだ黒子をじっと見つめていた。

父の知り合いだと言った男は、やはり父が知らない人だった。

それからしばらくの間、留守番を任されることはなく、母が家を空ける時にはあたしも必ず一緒だった。いくら震災の被害が少なかったと言ってもスーパーの店内は限られた場所しか照明が点されておらず、商品の品数がかなり少ないことを知った。食料品は特に品薄で、卵の売り場はからっぽだった。母は何度かの買い出しに一度、あたしに好きなものを買ってくれた。

それから数日が経ったある時、あたしたちは家族で買い出しに来ていた。

一人につき一つ、という制限があって、父も休みだったので全員で出掛けたのだ。大きな野菜や、トイレットペーパーを父は積極的に持ってくれた。

手ぶらになった母があたしの背中に手を添え「かおるが一緒だから、かっこつけてる」と言った。人聞きが悪いことを言うな、とむつけたように言う父が、同じクラスの男の子みたいに幼く見えて可笑しかった。

その後母は、サービスカウンターに用があると言って離れ、あたしは父と壁際のベンチに腰かけた。普段から仕事で出掛けており、父と二人きりでいることはあまりなくてかすかな気詰まりのようなものがあったけれど、それ以上にめったにないことに高揚してもいた。

 あたしは母と二人で家にいる間、お好み焼きを作ったことや、祖母の家にお米を貰いにいったことを話した。話の切れ目が見当たらなくて、なぜか声にも異様な熱が入った。まるでとてつもなく良いことがあったみたいに。ふと口を閉ざした時にはいくらかくたびれていた。

 父は穏やかな表情で聞いていたが、終いにはあたしの顔をじっと見つめた。そして、

「……何か、あったわけじゃないんだろ?」と言った。

 少し困惑した様子の父は、口元に笑みらしきものを浮かべた。

何かがふつりと破れるように全身の力が抜け、気づくと追従するようにはにかんでいた。それは反射的な動きだった。あたしは、恥ずかしかった。

小学校高学年にもなって、留守番もさせられないどころか、余計なことをする。母は、あの見知らぬ男が家に来て以降、あたしをけして一人で家には置いておかなかった。小さな子どものように目を離すことが出来ず、だから連れて歩かなくちゃならない。

あたしの反応に、父は安心したようだった。

家に帰る途中、母が買い物袋から当時あたしが好きだった、紙パック入りのいちごオレを取り出した。「どうぞ」と差し出されたそれを、いらないと突っ返した。

あたしを子ども扱いする、母がほんの少しだけ憎らしかった。そして口にしてから途端に惜しくなった。

「あ、そ」

母は数歩前を歩く父から荷物を一つ受け取った。あたしは二人に追いつくために足早になる。間違いのほうばかり選んでしまう。手を繋いで、甘えたかった。



「かおるちゃん、かおるちゃん起きて」

「……起きてるよ」

伊佐木さんに肩を叩かれる。わずらわしさに思わず顔を顰めた。眠ってはいなかった。だけど目を瞑っている間に、ずいぶん移動していたらしい。

海に近い町をすでに通り抜け、市内に戻ってきていた。ずっと日に当たっていたせいか、顔の表面ばかりが熱を持ってうっすらと肌寒い。道路沿いにある牛丼のチェーン店にあたしたちは入った。

「僕買ってくるから、適当なところに座っていて」

そう言うと伊佐木さんは券売機のほうへ歩いて行く。二人掛けの席に座って、ようやく一息つくことが出来た。

あたりを見まわすと十三時を過ぎたばかりの店内に人はまばらで、各々壁を向いた席について食べている。あたしと一番年が近そうな子は、額に冷えピタシートを貼った小さな子どもだった。隣に座った母親らしき人が時々口を拭ってあげている。店員も一人しかいないようだった。

伊佐木さんが戻ってきて、あたしの前に牛丼の乗ったトレイを置いた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 食べ始めるのを待ってから、口をつける。

震災のすぐ後は、お肉を食べるたびに嬉しかった。普段の生活みたいな食事だったから。今はもう、スーパーは薄暗くないし、卵の棚も満杯で、何かが足りなくて困るようなことはもうない。

いつもの生活が壊れてしまったのだから、いつもの通りではなくなったのだから、だから、いつかすべて元に戻るのだと思っていた。

ただ、震災が起こったそれ以後の生活が続いている。

しばらくの間、あたしたちは黙々と牛丼を食べていた。

器のふちについた米粒を箸で摘まんだとき、「お父さん、変わりない?」とだけ伊佐木さんは尋ねた。言語外にもっと言いたいことがあるはずの、くり抜いたみたいに半端な声で。

 なぜか緊張した母の顔を思い出した。

目を伏せたままで、その表情を伺うことはしなかったけど。喋りながらすでに怯むような響きがあって、はっきりと伊佐木さんの顔を見て質問の意図を察してしまうことが怖かった。

「さあ、普通じゃない。わかんないけど」

 普通か。伊佐木さんの声が少し低くなった。あたしはいつだって間違ったほうを選んでしまう。

「……そっか。最近よく、僕に電話がかかってくるからさ。お父さんから、かおるちゃんのことで。だからなんというか。その、気掛かりだったんだ」

伊佐木さんの口調はいくらか投げやりだった。負けとわかった手札を机の上に振り捨てるみたいに。体が揺すられるほど、嫌な感じに胸が強く震えた。困りきっていたし、裏切られたようにも感じた。その負け込んだ手札を見せられて、どうしたらいいんだろう。

確かにすげない、心無い言い方をした。だけど本当に、父は家では何とも思わない様子だった。とりとめもない話。腫れ物を扱うような会話。ふいに触れて起こる静電気みたいなせわしなさであたしを叱ることはあった。お前、一体どういうつもりなんだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

「……だから、なんなの?」

いくら低い声を出したところで、震えるからみっともなかった。

周りの人たちは、静かにご飯を食べていられるのに。どうして、あたしばっかり。そう思った。伊佐木さんは、よけいなことをしない人なのだと思っていた。あたしをかき乱すことはしないと勝手にそう思い込んでいた。だって、こんなことは彼らしくない。何にも選びたくない。なにも負いたくない。

「人の顔色伺いながらこそこそ連絡とりあって、ばっかみたい。急に出てきて、保護者面して。あんたに関係ないでしょ」

大した声量じゃない。誰もあたしたちなんか気にも留めてない。恥ずかしかった。みじめだった。いつだって自分のことだけ。

 自分が発した強い言葉で頭が茹だりそうだった。伊佐木さんだって、父に言われなければあたしの面倒なんてみたくなかっただろう。喉元を掴まれたみたいに声が塞がっていく。

「かおるちゃん」指先から血の気が引いて、真っ白になっていた。全身で彼を睨んだ。

伊佐木さんは眉を顰め、変化に乏しい瞳が今は歪んで濃く光っていた。

叱るつもりなのか、宥めようとしているのかもよくわからない。鳴き声みたいな無意味な呼びかけが、宙に浮かんだ。

「言えばいいでしょ、学校に行けって。情けない、普通のことがどうして」

父の言葉をあたしは反復していた。つい昨日のことみたいに淀みなく覚えている、自分の執念深さが嫌になる。なんともないと思い込もうとしていたのだ。でもこびりついていた。忘れていたのではなく、考えないようにしていただけ。

「違う。待ってよ」伊佐木さんはまるで身悶えするようにそう言った。癇癪を起こした子どもみたいな仕草に思わず、言おうとした言葉を忘れた。

 強く手首を掴まれる。

「かおるちゃん、ちがう、ごめん。そんなこと誰も言ってない。誰も言ってないんだよ」

 握る力が強くて怯んだが、あたしと目が合うと伊佐木さんはすぐに手を離した。そのときふと画材を積んだワゴン車の匂いがした。絵具の匂い。あたしのなかで、ぽきりとかすかでどうでもいいものが折れた。

何かがあればよかったのに。あたしが他の人と違っていても、性格がみっともなくて姑息だとしても、そんなことはどうでもよくなるような特別な何かを持っていればよかったのに。何も決めないことを選び続けて、こうなってしまった。

何かが起こると、あたしは自分の情けなさやみっともなさをまともに見つめていなくちゃいけなくなる。喉がひくつくのを抑えきれない。俯くと、重くなった滴が、ついにぼたっと机の上に落ちてしまった。雨垂れみたいに涙が伝い、頬が濡れる。泣くのを堪えようとすると、やたら鼻水が出る。子どものときからそう。仕方がなくて机の端の紙ナプキンでぬぐった。

あたしはまだ喉を震わせたまま、ぼんやりと冷え切った米粒を口に運んだ。それはもう乾いていて味もなく、米の形をした物体だった。噛むと粉っぽい芯を感じた。

伊佐木さんと連絡をとっていた父は、どうしてあたしが学校へ行かなくなったのか、聞きだしたかったのかもしれない。時間通り学校へ行くだとか、夜になれば眠るとか、他の人たちが当たり前にしていることが、日に日に出来なくなっていくあたしを怖がっていたから。

諦めて箸を置いた。それを眺めていた伊佐木さんは固い声のまま「出よっか」と言った。あたしたちは席を立つ。固い紙ナプキンで拭った鼻がヒリヒリする。


車に戻ると、伊佐木さんは黄色いパッケージが目を引くロング缶のコーヒーをあたしに手渡した。さっき、車に枯れ枝を積んだときこのコーヒーの段ボールを見かけた。

「……この缶コーヒー、ずっと車に積んでるやつ?」あたしは思わず聞く。

「そう。大丈夫だよ。缶入りのものはそうそう悪くならないから。保存がきいて、甘くてカロリーがあるからちょうどいいんだ」

 手の平に冷たく、ずしりと重いロング缶を飲み切れる自信がなかった。このコーヒーはとても甘くて、コーヒー風味の乳製品といったほうが近い気がする。

「ちょうどいい?」缶の底を眺める。消費期限は二年ほど先だった。

「震災みたいに、万が一のことがあったときにさ」

 あたしは缶のプルタブを持ち上げ封を切った。飲み干せないことはわかりきっていた。

車に戻ってすぐ、伊佐木さんはエンジンをかけていたけれどなぜかまだ発車しない。ゆっくり、手持無沙汰にラジオの局を変えている。少し早いけれど、家へ帰ってもいい時間になっていた。彼も帰りたそうに見えた。

 帰りたい。今日は解散。もうお開きにしない。

どちらかがそう言ったほうが良いのだろうけど、億劫だ。缶入りのコーヒーを口に含む。コーヒー味のお菓子みたいにあまい。あんまり甘ったるいから鳥がついばむみたいに、ちびりちびりと口にする。

 あっ、と伊佐木さんが言った。思わず顔を見る。

「僕、アトリエに寄りたい。いいかな」



母の電話に出てしまったとき、あたしは駅と駅を繋ぐ通路から、電車の屋根を見下ろしていた。

震え続ける携帯電話をずっと無視していたのに、たまたま携帯を手にした時に発信中の画面が目に入ってしまい反射的にとっていたのだ。あたしは辺りを見回す。住宅地が主だった駅の校内には塾帰りの学生らしき姿も見えたが人はまばらだった。

「…………かおる?」

 母の割れた声が、かすかな粘度をもった液体みたいに携帯から滴り落ちる。なんの抵抗も出来ず、鳩尾より深いところから熱い塊が引き摺り出されて喉が震えた。一時強烈に、自分がこの世で一番まぬけで最悪な人間になった気がした。

はい、とからっぽの力ない声で答えた。

 建物を繋ぐ渡り廊下の真下を、銀色の車体が駅を滑り出ていく。白っぽい傷の見える古めかしい外装も陽が落ちきった暗がりのなかではさして目立たない。滑らかな加速は車体の重さを感じさせないが、発車の振動で廊下は震えあたしの心臓の底のあたりが、みっともないくらい無様に上滑りした。

 数十分後、母は駅の駐車場まであたしを迎えに来てくれた。

 車に寄りかかって携帯を見つめていた母は、あたしの姿に気が付くと遠くから見ていてもわかるほど大きく息を吐いた。その途端、丸い肩が一段下がったように見えた。

「ああ、びっくりした。……びっくりしたの本当に。よかったわ、あんたが電話に出てくれて。お父さんに連絡をするから、車の中で待っていてくれる? すぐに済むから」

 母は出勤したときと同じ格好をしていて、首から名札を下げたままだった。あたしは頷いて助手席に座る。車内の時計を見ると、午前零時を過ぎたところだった。もう何日も外にいた気分で、家を飛び出てから四時間ほどしか経っていないとはとても思えなかった。母の電話は一分もかからなかった。すぐ車に乗り込んでくる。

 出発して、一つ目の信号に停まったとき母が口を開いた。

「できれば教えてほしいの。何があったの?」

「……お父さんから聞いているでしょう?」

つい、卑屈っぽい甘えた声が出て自分のことながら虫唾が走った。

母は真っ直ぐ前を見たまま「聞いてないわよ。電話を貰っただけで会ってないの。お父さんも、かおるを探して外にいたから」と言った。

 そう、と答えてあたしはサイドミラーに映る、遠ざかっていく駅を見つめた。駅から出るつもりも、家へ帰るつもりもなかったはずなのに今こうして確実に、あの場所から離れていく。


 今日、あたしはいつものように学校へ行かず家にいた。

母はその日の昼間に出掛けていって、帰りが遅くなる日だった。米を研いでタイマーをセットしておくのは家にいるあたしの役目で、父が帰ってくる午後八時の少し前に炊けるように設定していた。

父が帰ってきたのは、普段よりも早い時間だった。扉の前でごそごそと物音がして、あたしは自然とリビングから見える、玄関へと繋がる細い通路をじっと見つめた。

忙しない音が聞こえてきたのに、家へ入ってきた父の気配は静かだった。帰ってきたのが父だとわかったので、あたしは目を離した。低くかすかなため息。石でも降ろしたみたいな固く重たい鞄の置かれる音。父は当然真っ直ぐリビングへ向かってきた。

「お帰り」二人しかいないのに知らんふりをするのもおかしいからそう言った。

「ああ、かおる。いたのか」

あたしを見て父はぎくりと笑う。

顔半分だけで笑って、もう片方は明らかに緊張していた。その表情を見る度、自分がまるで病気の動物にでもなったような気分になる。足を引き摺って出てきた犬を見るような、そんな顔。父の反応を当然だと思う反面、理不尽なくらいむかむかすることもあった。

 口のなかで舌が膨らんだり、萎んだりする。母がいないとき、もしくはあたしがいるところに父が遭遇するのはあまりないことだった。

「お母さんは今日は何時に戻るんだっけ?」

冷蔵庫のホワイトボードを見ればわかることを父は尋ねた。脱いだ上着をソファーに掛けた。脱いでそのままにしないでよ、と母は嫌がっていた。

「九時」

短くそう答えた。話題がなんにもない。

 台所へ向かっていく父に思わずあたしは言った。

「ご飯? まだ炊けてないよ」

釜の蓋を開けられては困る。八時過ぎにタイマーをセットしたから、と続けようとした。

 父が、声の混じったわざとらしいため息をついた。

「……そんなことも出来ないのか?」

 どっしりした低い声は、ひどく神経質に聞こえた。胸を殴られたかのように怯んだが、突然のことに驚くばかりで何を言われたかまではわからなかった。

「は? …なに?」

 どうにか意地をかき集めて父を睨む。それくらいしかやり返すことが思いつかなかった。あたしと目があってもいつもみたいに怯んだりしなかった。今この瞬間は痛めつけることしか頭にない据わった目をしていた。

「一日中家にいるんだ。家のことくらいやれるだろう。学校へもいかない、ただ籠っていて勉強するでもない、何かをやっている様子もない。お前、どういうつもりなんだ?」

 うっすらとわかっていたことだけれど、父はずっと本音を隠していた。言いたいことも疎ましく思っていることもあったくせに、まるで鷹揚みたいに振る舞っていたのだ。

「……」

あたしは頭に来て口を聞けなかった。怒り狂っていないと、赤ん坊みたいに泣き喚きたい気持ちで膨れ上がって破裂しそうだった。父の言い分が正しいことくらいわかっていた。

何も言わないあたしに痺れをきらし、父は台所の椅子を引いて荒々しく座る。不機嫌だということを全身から発し、自分を見ろと言わんばかりにこちらを睨む。その仕草は、普段のあたしそっくりだった。顔を背け、ベランダに続く窓のサッシに視線を落とした。

「情けない」父は呟いた。

どこからか、ふつ、ふつ、という音が絶え間なく聞こえた。水が沸騰するのに似た、だけどそれよりずっと重くて鈍い音。

 空吐きをするときみたいに、喉の奥のほうがぽっかりと乾いて息苦しい。突発的に声が出なくなったのかと思ったけれど、そんなふうには出来ていなかった。言葉が思いついていないのに呼吸だけが先走って、小さなうめき声は出たから。何も言えないのは、ここのところずっとろくに会話らしいものをしていないせいだ。

 何かあったんなら、相談してくれと父は念を押した。

乾いた布を力任せに絞るみたいに、からっぽだとわかっているのにどうにか、何かを、引き出そうとする虚しさがあった。学校に行くことが辛いなら、教えてくれ。

 あたしは嘔吐きそうになりながら答えた。

「……なんにも、ないよ。…」

 どんな気持ちだろうと差し出されたものを台無しにした自覚はあった。目は乾いたままなのに、泣きだしてしまう寸前のように喉が塞がる。なにもない。あたしには何もなかったのだ。なのに、毎日毎日だめになっていく。

「じゃあ、一体なんなんだ。どうしてほしい? かおる、どうして。どうして、普通のことが出来ない?」

父の後ろの流し台で炊飯器がふつふつ言う。米が炊ける音だと気づいた。今この状態になるきっかけが、ご飯が用意されていなかったこと、というのはどうしようもなくくだらなかった。

「わかりません」そう答えた。

父の振舞いは子どものようだった。思った通りにならないことに癇癪を起こしている子ども。苛立ちで小さく凝り固まっていた。

悪いと思う気持ちはなかった。父はもうずっとあたしから離れていて、時々どうにかする会話も二人して当たり障りがない。関心がないのだと思っていた。それが突然、感情的に「相談してくれ」と訴えかけられても言うべきことが思いつかない。

かわいそうだと思うのは、今よりもっと幼い時の父との記憶を覚えているから。あたしに振り回され、引き摺られて。こんな目に合わされる謂れはどこにもない。当たり前に何不自由なく育てられたのに、普通のことが出来る子にはならなかった。とにかく父の望むようにはなれなかった。

「無駄な、ことだったんだな。全部が」

 麻酔がかかったように、体の芯が痺れ鈍くなるのを感じた。呼吸が浅くなり、視界が狭まった。怒りを覚えるより早く父の言葉が頭を巡る。そうか。無駄なんだ。

消えたい。誰の記憶からもいなくなりたい。


 あたしは駅にいた。

 父がリビングから引き上げると、着の身着のまま家を飛び出していた。

体全部が心臓になったみたいに脈打っていた。その震えはなぜか頭にだけは届かなくて、芯に鋼でも通ったようだった。だからあたしは一度も立ち止まることなく歩き続けることが出来た。

駅に到着した時、普段はバスに乗っていく距離を黙々と歩いてきたから足が痺れるほどに張っていた。改札から出てくるスーツや制服姿の人の流れに逆らって、構内へ入る。

 ここは住宅地に近くて、乗り場も二つしかない小さな駅だ。一つは都心へ向かう上りの電車、渡り廊下を挟んで向かい側のもう一つは終点の車庫へと近づいていく下りの電車。ラッシュの時間を過ぎると快速のうち何本かは停まらず走り抜けていく。小さな駅だからか、飛び込み防止の扉もなかった。

 きっと一瞬で済むだろうから、電車が良いと思ったのだ。

 あたしの人生はここでおしまいで、この駅から出ることはないのだ。明日の朝自分の部屋で疲れきって目を覚まさなくていいし、床にぺったりと座ってテレビの下の電子時計見るともなしに眺め続けることももうない。何にもない日々がこれ以上積み重なることはない。そのことはあたしの心を、思いがけないほど軽くした。助かったと、そう感じる明日もない。今日で終わり。

 駅に着いた時点で、快速はもう二本しかなかった。

監視カメラはそこらじゅうにあるが、駅員はあたしの対極線上、乗り場の一番奥に立っていて100メートル以上離れていた。

 残り二本の快速の内一本が入ってくることを、アナウンスが告げる。あたしは黄色い線の内側に靴の先端をつけて立った。線路の奥に車体が見えたら近づいてくるのはあっという間だった。先頭の電灯は黄みを帯びて眩く光り、直視することが出来ない。運転士の姿さえまともに見えず、快速電車はスピードを落とさず駅に入ってくる。銀の塊にしか見えない車体は速度を纏っているが、風を断ち切ることなく波のようにうねって空間をのたうち、あたしは思わず後ろへよろけた。

素早い蛇のように電車の最後尾が構内を抜け出てしまった。駅の端に立っている駅員は遠くて表情がわからないが、顔がまっすぐこちらを見ている気がした。瞬きをして、ふうっと息を吐く。まるで寄り目にでもなっていたみたいに、目が左右に離れ視界が若干広くなった。

『線の、内側に、立って、お並びください』くどい区切りの入ったアナウンスが聞こえた。

 あたしは備え付けのベンチの一つに腰かけた。携帯電話が鳴っている。多分、父だ。

すべきことに集中したかった。余計なことで気を削がれたくない。快速電車はあと一本しかなくなってしまった。その前に、各駅停車の電車が来るはずだ。あたしが今座っているベンチから、向こう側の乗り場の下、線路内の壁が見えた。

詳細に想像する必要なんかなくて、もっと単純に考えたほうがやりやすいはずだ。

快速電車は思っていたよりもずっと、早かった。勢いがあった。だから電車が近づいてくるのが見えたらすぐ線路に降りたらいい。駅の端が見えていないみたいに、真っ直ぐ歩き続けて、すとん、と線路に真っ直ぐに落ちてしまえばいいのだ。

ここからは赤茶けたレールがよく見えた。足の甲なんか平気で挟まる幅がある。乗り場から落ちたあたしは、あそこでぐしゃぐしゃに転んでしまうだろう。体重を支え切れなくてあらぬ方向に足をひねる。荒いコンクリートの地面から突き出た砂利に膝を削がれ、錆びついた線路に手をつく。両膝を擦りむいている。手も膝も痛い。血が出ている。一瞬で電車が来る。一瞬で電車が。

線路に倒れたあたしをぎりぎり轢いて各駅停まりの電車が停止した。

乗客は電車から降りると一様に改札へ上がるエスカレーターへ向かう。あたしに少しも意識を向ける様子はない。今日最後の快速電車が来るまで、あと三十分もない。

また携帯電話が震えだした。せめて、電源を切りたい。両手を腿に乗せ、背もたれに全身で寄りかかったまま、あたしは動かなかった。


電車で、家出しようと思ったの。迎えに来た母にはそう言う他なかった。

頭より、体が先に理解した。電車の前に飛び降りようと思ったときには一度も思い出さなかったのに。どんな反応をするかそれを想像するだけであまりにも明快に『怖く』なった。怒るにしろ、泣くにしろ、母が痛めつけられることを思うと体が竦んだ。

あたしが家から持ち出したものは、財布と携帯電話だけ。車のミラー越しに視線を感じた。納得した様子にも見えなかったけれど、奥歯でかみ砕くように「そう」と答えた。

父はあたしが家を出たことに気づいて、母に連絡したらしい。やはり職場から直接ここへ来たようだった。

母の隣は、まるで火のそばに座っているような心地がした。

後ろめたさからそう感じたのかもしれない。車に乗ってから一度も、怒鳴りつけたり癇癪を起こされたりはしなかった。あたしの体の運転席側が、ピリピリと過敏になって隣の気配を伺っていた。

そしてふと、この空間になんの音もないことに気づく。普段仕事終わりの母の車は、好きなアーティストの曲か、ラジオが低いボリュームで流れている。暗い車内で、力がこもってわずかに見開かれている母の瞳が妙に生々しく浮き上がっていた。

「ごめんなさい」

耐えきれなくてそう言った。刻一刻と、今この瞬間にも母が擦り切れていくように見えた。

「何が?」突き倒されて咄嗟に掴むような素早さだった。

あたしは正しく罰せられる期待と怯えで体を強張らせた。母は大袈裟に、肩が上下するほど息を吸って長く吐き出した。

「あなたが家を飛び出したって聞いて、びっくりしたの。電話が繋がらない間ずっと、ずっと怖かった。繫華街で名前を叫んでまわろうかと思った。かおるに、何かあったら、こうしてる今だって、何か……勝手なことを言ってるのはわかってるけど、もう、もうこんな目にあわさないで。お願い」

 あたしは泣いていた。一度にたくさんのことが起こって、何で涙が出るのかもわからなかった。

母の心配をまるで自分のもののように感じた。底抜けに怖かった。こんなに怖い目に母をあわせてしまって、けれどこんなことしか思いつかなくて、あたしは駅まで歩いたのだ。

車の外の街灯が、膝の上に橙色の明かりを投げかける。体じゅうの水分が抜けるんじゃないかってくらい、涙が垂れつづけている。

あたしじゃない、別の誰かにあたしをやってほしかった。

ごめんねと言った母の声はひずんでいたけれど、泣いてはいなかった。信号で停まると、ハンドルから手を離してあたしの背中を強く擦った。

 家に帰ると、父がリビングで待ち構えていた。母に連れられて帰ってきたあたしを見て、はっとした様子だったけれど、すぐ視線を逸らして「おかえり。……」と呟いた。

 なんだか全身の力が抜けてしまって、ただ頷くことしかしなかった。

父もそれ以上は何も言わなかった。ベッドに横たわったのは夜も遅く、とても疲れていた。翌朝、目覚めたのは正午過ぎだった。そしていつものようにあたしは学校へ行かなかった。父は以前よりも、話しかけてくることはなくなった。それからしばらくして、伊佐木さんが家にやってくるようになったのだ。



 しゃかしゃかしゃかっと歯ブラシで擦るような軽快な音が、二人しかいない静かな教室に響く。伊佐木さんは拾ってきた白い流木に丹念にやすりをかけている。

「これは理屈になるって思ったの」

父に無駄なことだったと言われたとき、自分でもずっとそうかもしれないと思っていたことを肯定された気がした。いなくなりたいと思った時、とてもしっくりした。

ニュースや新聞で見る『自殺』と、あたしがやろうとしたことは別のものだ。死にたいなんて思ってない。ただ、あたしをいなかったことにしたい。あっという間で、出来ればなんの痛みもなく。

そうすれば両親はもうあたしに思い煩うことはない。できないことがあるたびに、自分にがっかりしなくて済む。朝目覚めて、布団のなかで両親が仕事に出ていくまでじっと待っていなくていい。皆が寝静まって家の外から物音もなくなる夜更け、一分が一時間ほどに感じられ、今日だけは朝が来ない予感がする。もう二度とそんな目に思いをしなくていい。

死ぬことを何も思わなかったわけじゃない。けれど、今みたいな毎日がこの先も続いていくかもしれない、そのことの方がずっと身近で具体的な怖いことだった。

あたしは、ようやく中身が半分くらいになった缶コーヒーを机に置いた。

伊佐木さんのアトリエに来るのは久しぶりだった。

机の上は、点々と絵の具が固まっていて、落書きや彫刻で削ったような跡があって、小学校の図工室の机みたいだ。アトリエと言っても、あたしたちのいる部屋は時々団体に貸し切って美術教室をしたりすることもあって四人掛けの机が何台か設置されている。美術準備室のようなバックヤードが別室にあって、作業は専らその部屋でするらしい。

斜め向かいに座った伊佐木さんは、あたしが話している間もずっとやすりをかけていた。触って感触を確かめて、その作業は十分、二十分では足りない。だからって、時折手をとめてはあたしの顔をじっと見て先を促すから、話すことをやめられなかった。

もとからすべらかな木だったけれど、長い間丁寧にやすりがけされて、ここからでは木目もあまり見えないほどだ。伊佐木さんは表面を撫でながら手の中の流木に話しかけるみたいにそっと、

「こういうとき、何か言うべきなんだろうけど。正直に言うとなんにも思いつかない」

情けないけど、と続けた。

「かおるちゃんも、君の父親も。……お母さんも、理不尽でひどい目にあって、かわいそうだと思う。かおるちゃんたちが、お互いに無関心で、それでも幸せだったら良かったのにね。…」

あたしは細い針の先で、胸の内側をかよわく引っ掻かれた気がした。伊佐木さんはもう顔を上げていたけれど、正面から向き合ったその目は妙に白々しく彼の背後の流し台が透けて見えそうだった。

「知っていると思うけど、雄太は僕のことが苦手でね」

 ぼんやりと伊佐木さんを見つめているあたしに、何を思ったか「雄太。君のお父さんね」と付け加えた。さすがに、父親の名前は忘れることはないが黙っていた。

「兄らしいこと一つもしてこなかった。面倒なことはすべて弟任せだった。君のお父さんは真面目だったし、すべきことを僕みたいに屁理屈こねたり、疑問を持たずに出来る人だったから。そんなに、連絡を取り合っていたわけでもないんだよ。雄太が連絡を寄越すようになったのは、君が家出してからだ」

 今してくれた話は、お父さんに全部聞かせた訳じゃないんでしょう、と二股に分かれた幹を撫でながら伊佐木さんは言った。あたしは頷く。

「あの日かおるちゃんが……やりとげなくて本当に良かった。雄太は死ぬより辛い目に合うところだった。あいつは、命拾いした」

「……そう?」

「うん、そうだと思うよ。この通り、僕は結婚をしたことがないから子どももいたことがない。だから、自分の行動のせいで子どもが死のうとしたってことがどんな気持ちかなんて、想像をすることしか出来ないけれど。何を言うのも怖くなったから、犬みたいに黙って、目で君を追っかけてる」

 ここに父がいたら、顔を赤くして反論していただろう。

いつものように、苛立つ気持ちがあたしを奮い立たせることはなかった。父が弱っているかもしれない、なんて考えたことがなかった。だけど、伊佐木さんは父を『弟』として喋る。

 あたしは思わず訊いた。

「伊佐木さん、怒ってるの?」

 伊佐木さんはいつもぼんやりして、いい加減で、父の兄だけれど、大概そうは見えなかった。あたしには姉弟がいないのに。

 素早く瞬きをして、笑うみたいな形で口元が引き攣った。

「ああ、そうだよ。けど、もちろん、かおるちゃんだって怒っていいんだ。わかっていると思うけど。大の大人が寄ってたかって、自分の気持ちにばっかり一生懸命なんだからさ」

 自嘲することで感情を押し殺そうとする姿はあたしに似ていた。ふいに、ムキになったみたいに俯いたままの伊佐木さんが大人の皮を被った子どもに見えた。

あたしは妙にくっきりした、目が覚めるような錯覚に陥った。伊佐木さんは続ける。

「俺は何をしても間違えるって、お父さんは怖がっていた。なにもしないから、だから僕をあてにしたんだ。ただ見ていることしかしないって知っているから」

「そんなことないよ、伊佐木さん」

たぶん、とあたしは付け足した。そんなことないんじゃないかな。

 父が何を考えていたかなんて、まして兄をどう思っているかなんて見当もつかなかった。それよりも伊佐木さんが何て言ってほしいのか、そのことのほうが今はずっと分かりやすかった。だからあたしはすぐできる、正しそうなことに飛びついた。

「……」

 伊佐木さんは、かすかに眉をあげた。瞬きのあと、喉元が動く。そして立ち上がると、ホワイトボードの脇の扉から普段作業をしている部屋に入っていった。あたしは缶の中身を一口飲んで、コーヒーの味がする唇を舐めた。

 すぐに戻ってきた彼が席に着くと、油絵具の匂いがふわっと辺りに散った。フック状の金具を持ってきたみたいで、そのまま手で流木にいくつかねじ込んでいく。

「さっきから何、作ってんの」

側面にも二つ金具を取り付けて、タコ糸を通すと吊るせるようにした。「記念品」と伊佐木さんは言った。かおるちゃん。

「自分のことを、粗末にしないでくれる。もうこれしかないって、君が、駅まで行ったことは本当だし、そのときはもうそれしかなかったんだってわかるけど。僕の家族が大事にしているものを、自棄になって扱わないでほしいんだ」

 伊佐木さんは父とどんな話をしたのだろう。想像もつかなかった。彼にとってあたしは弟の子どもで、そして恐らく、弟を痛めつける存在でもあった。

「……出来るときは、そうします」自分の体を、感情を、強烈に自分のものだと感じた。

 さびしいような、けれどやたら心強いことだった。

例えばあたしが本当に死ぬと決めた時は、誰にも手出しできないのだと、全身で理解した。だから懇願する。だからみんな、火で炙られたみたいに悶えている。

伊佐木さんは、壁に掛けられるようにした流木のキーフックをあたしにくれた。

表面はずっとやすりをかけていたからすべすべしていて、細い小さな棘もなかった。ほんの少しだけ磯の匂いがするそれは、白く軽やかで一度も肉を纏ったことのない骨のようだった。

「もうすぐ展示会があるんだ。会場も日時も決まった。だからしばらく、かおるちゃんの家には行けない。君から、お父さんにも言っておいてよ」

 あたしが黙っていても、伊佐木さんはいつまでも待っている気がした。

それを意地悪だとは思わなかった。ゆっくりした瞬きをするのを見つめているうちに、返事をした気になっていた。

「うん。……わかった」

 帰り際に、展示会のチケットを二枚貰った。一人でも構わないけど、友だちとか連れておいで、と言った。


 あたしがお風呂から出ると、玄関にすでに皮の鞄があった。父が帰ってきていた。

 お風呂場から出た廊下の突き当りに台所へ続く扉があって、父も母も帰ってくると、なぜかそこを開け放ったままにする。テレビの音と、時々二人の声が聞こえた。二人で話しているのだから、当然声は小さくて何を話しているのかまでは聞き取れない。

 母が何か乱暴な口ぶりで言った。それに父が何か答えると、母が短く笑う。声が途切れ、またテレビの音だけがする。あたしは風呂上りのふやけた素足でぺたぺたと、リビングへ向かった。

テレビを見ている、両親の背中に向かって、

「上がったよ」母が振り返る。

「あ、かおる。早かったね」

「うん」

 父の白くよれたシャツの背中は丸くて無言だ。だけどなぜか、動物みたいに耳だけがこちらを向いている気がした。「お父さん」と呼ぶと、ちょっとぎこちない仕草であたしを見た。唇の両端に力が入っていて、笑っているのか真顔でいようとしているのかよく分からない。

「伊佐木さん、展示会があるからしばらく家には来ないって」

「そうか」

「展示会のチケットを貰ったから、見に行くつもり」

 あたしの声も言葉尻が変につっぱってぎこちなかった。けれど約束をしたし、これだけは伝えておきたかった。

「……ああ、そうだな。世話になってるしな」

 今の言葉をそのまま、伊佐木さんに言ってくれればいいのに。

いきなり何かが目まぐるしく良くなる訳ではないし、それはあたしの望みじゃない。何よりバツが悪かった。けれど母が嬉しそうな顔をしていたことに、少しだけ励まされる。あたしは自分の部屋に戻り、伊佐木さんから貰った流木のキーフックを壁に飾った。



数週間後、保健室で中間試験を受けた。

解けない箇所が多くて、さすがに焦りを感じた。結果がよくないことは、今からだってわかる。いつだって、真っ最中は次こそ今よりは要領よく、まともに勉強すると、もうこんな思いはしたくないって本気で思っているのに、喉元過ぎればなんとやらで、あっという間に別のことに押しやられ忘れてしまう。

 伊佐木さんの展示会は、今週末に開催されることになっていた。友だちがいないあたしは、保健室の先生を展示会に誘った。ありがとう、と先生は言った。

「気持ちだけ受け取っておくわ。土日は、先生休みだから行けないの」

「休みなんでしょ? 行けるじゃん」

 答案用紙を片づけた先生は、あたしに机の上の消しカスを捨てるように言う。

「そうよ、お休みなのよ。お休みの日まで生徒とは会いません」

 あたしはつい反射的にむっとした顔をしたはずだ。先生は、ふふふと笑った。

「あのね、かおるさん。いじわるしてるんじゃ、ないからね。あなたが特別嫌いなわけでももちろんない。今回は気分じゃないだけ。あなたが学校にいる間も、ゆくゆくは卒業していった後も、私は学校の先生でいたいから休みをとるの。仕事に熱中しすぎて、先生でいることを嫌にならないようにね」

だから、ごめんねと言った。先生は友だちじゃない。確かになんの非もなかった。

「そういうの西村さんが好きだったはずよ」

「えっ、いいよ。あたし、全然あの人のこと知らないし。それに断るって」

 先生はあたしが引き留めるのを気にも留めず、妙な強引さで奥のベッドが並んだ部屋へ行ってしまう。今日は見かけないと思っていたら、奥の部屋にいたようだ。それに、昼間でもほの暗い奥の部屋は体調が悪かったりして横になるための場所だ。西村さんも具合が悪くて寝ているのではないのだろうか。

 先生がこういうことをするタイプだとは思わなかった。呆然とし、困惑するしかない。間もなく戻ってきた先生の後ろから、若干ふらついた西村さんがついてきた。

「せ、先生、西村さん大丈夫なんですか? 具合、悪いんじゃないの?」

「西村さんは、今日の試験のために徹夜で勉強したみたいでね。眠くて寝ていただけだからいいのよ」悪びれもなくそう言った。

 言葉の通りか、普段の勢いも削がれた様子で頷く西村さんの顔はむくんでいた。

「……西村さん、展示会行く?」

 保健室の先生は、あたしと西村さんを引き合わせるとさっさと机に戻ってしまった。

 腫れぼったい目蓋は重そうで、白目に囲われた小さくも真っ黒な瞳が、瞬きも少なく見つめ返してきた。



 週末、あたしたちは律儀に展示会の行われる施設の前で待ち合わせをした。

 何も真面目に二人で来なくとも、券だけ渡して個々で見に行くことにしたって良かったはずだ。隙あらば気持ちが塞ごうとする。遅刻しないように少し早めに家を出てきて正解だった。普段と変わらない速度で歩いているつもりなのに、どうにも前へ進むのに時間がかかっている。伊佐木さんの展示は期間限定の個人展であり、待ち合わせている西村さん以外に同級生と出会う可能性は低かったが、一応つば付のキャップを深く被り、マスクをして出てきた。

 他人と外で待ち合わせをするのだって、一体いつぶりだろう。待ち合わせの相手が友だちでもなく、そもそも学校外で会うことが初めてだなんて、ぎくしゃくしないはずがなかった。まともに会話をしたことがないから、共通の話題だってない。展示を見ていさえすれば、気まずさを感じることもないだろうけれど。あまりに未知数だった。

 向かう途中、すでに西村さんから先に着いているとの連絡を貰っていた。

待ち合わせをするから、学校で連絡先を交換した。これきり使うこともないだろうにと思わないでもなかったけれど、抵抗するほどのことでもなし、念のため知っておいたほうが良いには違いなかった。

目的の場所が見えた時、あたしはすぐ西村さんがわかった。ど派手な赤いワンピースを着ていたから。黒髪も合わせて目印には申し分ない。その恰好は目に付くというだけで、けして似合っていないわけではなかったけれど、通り過ぎる時あからさまに見ていく人もいた。

「待たせてごめんね。西村さん」

 近づいていっても、顔をあげないから目を合わせることが出来ない。

いつもは一つ結びにしている髪は下ろされて垂れ幕のように顔の側面を覆っていたから、そばに行って覗きこまなければならなかった。

「……あ、かおるさん」

 ふいに距離を詰められて不審そうな顔つきになった西村さんは、相手があたしだということに気づくと目を見開いて気持ち表情を緩めた。その素直な反応に、いくらかこわばっていた気持ちが楽になる。意外と早く来たんですね、と西村さんは言った。

「かおるさんが時間通りに来るタイプなのかわからなかったから、早めに家を出たの。だから本当に連絡したときに着いて……大して待ってません」

 あたしはなんと返事をしたものかちょっと迷って、

「……ああ、そうなの。私服珍しいね、て当たり前だけど」と言った。

「変?」率直に聞かれたので、つい同じように答えてしまう。

「え? ううん、いいんじゃない。孔雀の羽みたいな模様が入ってるんだね」

 さほどお世辞のつもりはなかった。目を引く色だし、民族衣装のような風変わりのワンピースは自分で着るタイプの恰好ではないが、体の線が薄い西村さんには不思議と似合っていた。レース地にうっすらと同色の糸で模様が縫われていて、揺れるたびにちらちらと輝いて浮かび上がる。

「……あなたは、シンプルだね」

 言葉を選んでくれたのかもしれない、という間があった。

 見つかりたくなくて、キャップとマスクをしているがそれ以外は普段の恰好とさほど変わらない。薄手のグレーのコートと着古されてやわらかくなったジーンズ。外出なんてほとんどしないし、伊佐木さんとは部屋着でうろつくことが多かったから出掛けるために着ていけそうな服があまりなかった。

 人目を気にするのに恰好には頓着してこなかったと気づく。あたしだからと目の敵にするほどの知り合いも思い当たらなかった。

 誰のことも知らないから、知らない人しかいないから、何を考えているかもわからなかった。知り合いだからって、わかっているわけじゃなかったけど。

「そうかもね。時間早いけど、もう中に入ろっか?」

 西村さんは伏せた瞼でせわしなく瞬きをした。「はい」と答えた彼女は行く先にさっと白い鼻を向けた。


 伊佐木さんの作品のことは正直よくわからない。

絵具が脈絡なく叩きつけられたキャンバスを見ても、気持ちが揺り動かされたことなどないし、これが上手いのかどうかも判断できない。作品にはタイトルがつけられていないことが多くて、一体それが何なのか見当もつかなくなる。

以前、家族で展示会を回っている最中に、伊佐木さんが会いに来てくれたことがあった。感想を求められたのはその一度きり。わからない、とあたしはむっつりと答えた。だって、まだ誰にも教わっていないのに、わかるはずがないと思った。なんでも、見当違いでもいいから、せめて思いついたことでも口にしたらよかった。今はそう思う。

 あたしは何回か西村さんに置いていかれ、何回か追い抜かした。誰かが立ち止まって眺めている作品で、留まって少しの間見つめたりした。

いくらか時間をかけて見て歩いたつもりだったけれど、それほど広くない展示室はあっという間にまわりきれてしまった。展示室のつくりはどこもよく似ている。濃く間延びした絵具の匂い、毛足の短い絨毯の床、しぼられた照明、出口を示した扉とその脇に踵を揃えて控えるスタッフ。あたしは来た道を引き返した。


 作品の間を歩む西村さんは、すいすい先へ進んだり、かと思えば一つの絵画の前で数分立ち止まって見入ったりしていた。

部屋の至る所に作品は飾られていて、西村さんは進んだり戻ってきたり、進路は縦横無尽だ。そのくせ行く先がはっきりしているみたいに、脚は細かく弾むように地面を蹴る。

 あたしは彫刻作品を見つめる西村さんにそっと近づいた。侵入を防ぐための線ぎりぎりに立って、まるで噛みつこうとするみたいに前屈みになっている。意志的に見開かれた目の端にはうっすらと肉色のふちがのぞいていた。

そばに立っても、周囲を気に掛けることなく、呼吸の音さえほとんど聞こえなかった。これほど鋭利な熱中に立ち会う機会があるはずもなく、あたしはあっけにとられてしまう。

彼女の肩越しに彫刻作品を覗き見た。

指の先から肘ほどの大きさで、ちょっとしたトロフィーみたいな形をしている。全体的に炭を削ったような木目がうっすら透けて見える黒色で、西村さんの正面になっている部分は下部に向かってくびれていて滑らかそうな見た目をしている。弾力のあるものが固い地面にふれてもっちりとたゆむ感じ。

ただ左斜め後ろから見ているあたしには、彫刻の後ろ側が千切りとったみたいに、ざらついて繊維のような木片を覗かせているのが見えた。角の無い曲線的な正面と相対するように、直線の辺で構成されている。直線的なのに床と平行にはなれず、上向いている底を、先端を尖らせた針金が支えていた。正面と比べると裏側は何か特異なバランスで立っている。

西村さん、とそれなりにタイミングを見計らって声をかけた。

「これ、何かすごいの?」

 彼女は数度瞬きして振り返った。

「わからない」

「こういうのが、好きなの」と続けて尋ねた。

「好きかもしれない。もしかしたら、気味が悪いのかも。とにかくこれが気になって」

 だから、見てたの。それだけ言うと西村さんはさっさと別の作品の方へ行ってしまった。

 あたしは彼女が立ち去った後の彫刻と向き合った。近くで見ようと亀のように首を伸ばして、白く太い筋が浮かび上がっていた。あれほど夢中で見つめていられるものをすぐに思いつくことが出来ない。

彫刻の片方は曲線的で、その裏側は角が多く、細く尖ったものがいくつも飛び出ている。何かになる途中で固まったもののように見えた。まだ完成していないのに、展示されている。

伊佐木さんの作品は相変わらず理解できない物体でしかなかった。

けれどあたしには半端に見える、この状態で展示することが、伊佐木さんにとって意味があることらしかった。そして彼女を惹きつけた。

ほとんどの作品と同じようにその彫刻には題がなかった。

西村さんのようにここへ縫い留められる人はいない。流し目で、あるいはタイトルと作品とを見比べて、去っていく。あたしもようやくそこを離れた。一度はここを通り過ぎているのに、なぜか奇妙に息づいて見えた。



 出口へ向かう途中にある大きな絵の前に、伊佐木さんが座っていた。

 黒いポロシャツにスラックスを履いて、海へ行ったときと同じくたびれた運動靴で散歩のついでみたいな身軽さでそこにいた。作品の脇に作者の顔写真が提示されている訳でもないけれど、気づかれないものなのだろうか。スタッフの人たちが首から下げている身分証も身に着けていなかった。

 あたしが軽く手をあげると、すぐ気づいた。伊佐木さんが座っている三人掛けのソファーの端に腰かける。

「来てくれてありがとう」家族で来るたびに掛けられる言葉だ。

「いや、あたしにまで言わなくていいから」

 思わずそう言うと、伊佐木さんはどうして? はにかみながら軽く首を傾げた。

「僕があげたチケットで、かおるちゃんが来てくれたのはありがたいことだし、来てくれてありがとうなんていかにも主催者ぽいでしょ。言わせてよ、君が気にするようなことじゃないよ」

 伊佐木さんの目元には疲労の脂みたいなものがこびりついていた。今、何かをさぼっている真っ最中なのかもしれない。展示会の主催がどれほど忙しいか知らないが、体を後ろへ傾けて座っている姿は、まるでそうしようと意識しているみたいに緊張感がなかった。

「……お父さんから連絡あった?」

「うん、もらってない」

 そお、と答えながらしょっぱい気持ちになって唇の端をうっすらと噛む。確かに誰も、そうしてくれなんて頼んでないんだけれども。我ながら都合がいい。

「あのさあ、海で散々拾った流木ひとつも使われてないね」

「ああ、うまくいかなかったし、間に合わす気もなかった。これを仕上げるのにいっぱいいっぱいで」

 そう言って、あたしたちの目の前の大きなキャンバスを指さした。高さが床と天井まである大きなキャンバスには黒みがかった群青色を背景に、明暗入り混じる苔めいた緑が叩きつけられていた。ところどころに白にも鼠色にも見える一片が虫ピンのように刺さっている。踏まれたように捩れた箇所をみつけた時、なぜかあたしは、これが海を描いているように見えた。

 ふと何かを隔てて携帯が震えている音が聞こえた。

「伊佐木さん、携帯鳴ってる」

 あっ、ほんとだ、とスラックスから携帯を取り出した。周囲が咎めるようにあたしたちを見る。

「もう行くよ」立ち上がった伊佐木さんを見上げると、頷いて言った。

「チケットをありがとう」

 人の目をきちんと見るのは少し緊張した。伊佐木さんは前に出たつま先をあたしの方へ揃えた。いいんだ、と言ってつられたようなぎこちない顔で面映ゆそうに笑った。



 西村さんは、すでに展示会場を出たグッズ売り場にいた。

「誰かと話してたみたいだったから、先に出ちゃった。知り合い?」

「うん。チケットをくれた人。父方の兄弟なんだ」

 へえ、と興味があるのかないのか彼女らしい相槌をうった。時計を見ると、十五時を過ぎていた。二時間近く見ていたらしい。

「ええと、この後どうしようか? お茶でもする?」

「いや、ここで解散で。今日はもう疲れたから」

 あまりにきっぱりと言うので立場がないが、正直に言うとここで解散のほうがあたしも都合がいい。じゃあ、と言いかけたが、なぜか西村さんは地面に視線を向けたまま、数秒固まっている。じりじりと言うか言うまいか反復しているように見えたから、彼女がどちらか選ぶのを、黙って待った。

変わらず声に感情は乏しかったが、緊張しきった仕草は別だった。鞄からぎこちなく白い紙封筒を取り出し、あたしに差し出した。

「誘ってくれて、どうもありがとう。こういうところに、誰かと一緒に行く発想がなかったの。でも、思ったより楽しかった」

 お茶はまた今度、と続ける西村さんの、ぐらつくほど強張った瞳を安心させたいのに、突然沸いた湯のような放心から戻ってこれずにいた。あたしが紙封筒を受け取ると、力んでいたのか爪先が白んだ彼女の親指が、ぱりと剥がれる音がした。

気力をかき集めて「ありがとね」と言った。そして待ち合わせをした場所で、西村さんと別れた。


家へ帰ると、両親は出掛けていた。冷蔵庫のホワイトボードには二人で伊佐木さんの展示会に行ったことが記されていた。入れ違いになったのかもしれない。

もうだいぶ日が傾きかけていた。あたしは、リビングのソファーに座って西村さんから貰った紙封筒を開いた。それは展示会のグッズ売り場で販売されていた、展示作品が印刷されたはがきだった。彼女が見ていた黒色の彫刻作品と、伊佐木さんと二人で眺めた群青色と緑の海の絵のはがきが入っていた。

慣れないことをしたせいで、たっぷりと疲れていた。

真っ直ぐ帰ってきてよかった。着替えなくちゃ、と思いながら横になる。まだ外は十分に明るかった。低くなった視界に遠くリビングの椅子が、机が、同じ高さで見える。表の光を受けて水面のように光っていた。一時ここで眠るだけ。両親が帰ってきたら、もしくはそれより早く目が覚めるかもしれない。

使い古した毛布のように、重く馴れ馴れしい気だるさがのしかかる。次に目が覚めたら、何もかもわかっていればいいのに。面倒なことを理解したかった。また誰かに、自分で、台無しにするかもしれないけれど、今はたくさんのことをわかりたい気分だった。



                                    

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