第6話
◆◆◆
我が師、織口潮は悲劇作家と呼ばれていたが、晩年は少しだけ悲劇に終わらぬ話も書いていた。
悲劇は飽きたのだ、それがいつからか口癖に。
世間の反応はそんなに良くなかったけれど、我が師の書いたものだ、愛さずにはいられない。
師の物語を思い出しながら、会場の受付業務に励む。今日は師の旅立ちの日、籍を抜き忘れていた婦人が喪主だ。師の子と共に会場にいることだろう。
「……っ!」
「貴様ぁ!」
この乱闘を、できれば目にしないでほしい。
「何で今になって来た!」
「……思いの外、時間が掛かって」
「だろうとも! 今をときめく野菊音矢様だ! 会う時間を作るなんざ難しいことだろうさ! ならば何故来た! 死んだ今になって、何故!」
「……最高の仲間と、最高の舞台を用意して、許可をもらいたかった」
「ふざけるな! 許可を得てから用意しろ!」
美しき俳優の顔は、弟弟子の拳によって歪んでいく。
周りの人が止めに入るが、僕は見ているばかり。
気持ちは分かる。
師の淋しげな背中を、僕は忘れない。
焼香を終えた慰問客によって弟弟子が連れていかれたその後で、ご婦人に介抱されている彼の元に近寄った。
「うちの
「貴方は……?」
「失礼、
「織口さんの」
師の名を口にすると、野菊さんの目から一筋、涙が零れる。
「信頼できる仲間に出会え、芝居をするにふさわしい劇場を押さえる為の金も工面できそうで、そろそろ、そろそろ会いに行けると思っていたのですが」
「何もかも、遅かったのですよ」
「……ですね。お焼香だけでもと来ましたが、今さら迷惑でしょう。帰ります」
ご婦人に礼をし、立ち去ろうとするその背中は、柳のように折れ曲がっている。
我が師が生涯囚われていた作家の息子。
その子が、師の葬式をあんな姿で帰っていくのは、師を敬愛する弟子としては許せない。
「もし、野菊さん」
僕は魔法の言葉を一つ知っている。
あの背中を真っ直ぐにする一言を。
「今でも、師の物語を演じたいと思いますか?」
「……それは、もちろん……許されていたなら、是非」
「──許す」
野菊さんの足が止まる。
「それが師の最期の言葉です。何のことかは分かるでしょう? ……意地っ張りな方で、そんな所も好ましかった」
「……本当に、良いのでしょうか」
返事はしなかった。
その背中を、じっと見つめる。
「僕は、遅れてしまった。それでも、許されるものでしょうか」
「……それが、師の望みです」
曲がった背が震える。悪寒ではきっとないはずだ。
「必ず、期待に応えてみせます!」
折れ曲がった背中は真っ直ぐに伸び、袖で目元を拭うと、一度も振り返ることなく野菊さんは帰っていった。
「伝えましたよ、師匠」
受付に戻りながら、呟いた。
「それと伝え忘れていました」
誰に聞かれても構わない。
聞かせたいのはただ一人。
「あれは恋文じゃないです。ただひたすら、死した嫁を責め立てていただけのものです」
惚れ込んでいた相手の、本当に汚い部分なんて、貴方に知らせたくはなかった。
「ほんの、出来心だったそうです。死に際に父はそう懺悔していました。野菊氏が席を立った時、机の上に放置されていたから、ついと」
びっしりと書かれた恨み辛みに驚いて、無意識に懐に仕舞っていたと。返そうにも書いた本人が死に、遺族は後妻とその息子のみで返せなくなり、自責の念と共に灰となった。
そんなものを託された僕の身にもなってほしい。
いっそ、一番野菊氏を好きだった相手に渡そうと、師匠に弟子入りしたけれど、共に過ごしていく内に、この人には見せない方がいいと思えてきて、伝えなかった。
あれは駄目だ。
喜劇小説の王のあんな文章、汚ならしい言葉の数々を、神聖化し囚われ続けていたあの人に見せてしまったら、きっと死期が早まっていた。
最期まで綺麗な思い出のまま、我が師は逝った。
これで良かったのだ。
「さようなら、師匠」
どうか、安らかにお眠りください。
会に合わぬ花 黒本聖南 @black_book
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