第5話
野菊音江はこの一月後に亡くなった。
次の集まりからあの人は顔を出さなくなり、誰に訊いても答えてくれず、なくなった恋文の行方も分からず、盗人のいるような所にはもう来たくないのだろうなと、俺ももうサロンに来るのはやめようかと考え出した頃に、その訃報を聞いた。
川に流れた、いや風呂に沈んでいた、違う首を、なんて会話が耳に入ったが、確実なのはあの人が、自らの意思で死んだということだけ。
「きっと嫁に会いに行ったんだ」
喜劇小説の王には嫁がいる。二人もだ。
同時に娶ったわけではなく、作家になるまでの苦楽を共にしてきた前妻が亡くなった後、紹介されて後妻を娶ったとのこと。その後妻との間には小さな一人息子がいるのだとも。
なくした恋文は、どちらに宛てたものだったのか。
「……」
たった一度交わした会話を、何度も思い出した。
頭の中で──紙の中で。
暇があればその前後を書き殴り、捨てて、また書き殴る。
その内子供が生まれ、金に困った嫁が本にできないかと、出版社に勤める親戚に見せたことがきっかけで、俺は職業作家になった。
──悲劇作家・織口潮。
俺はそうして、あの人のいない世に出ることとなった。
「織口さんの文体は心地好いのです。是非とも貴方に学びたい」
時は過ぎ、一人目の弟子ができた。枕が変わると寝られないからと、通いで来ることになった。
「貴方は私を、子供をちっとも見てくれない。知らない誰かを見るばかり。……腹の子はけして貴方との子供じゃありません。上の子共々面倒を看てくれるそうです」
時は過ぎ、妻子が出ていった。覚えもないのに腹が膨れていることにも気付かなかった。
「是非、貴方の物語を」
時は過ぎ、大きくなった野菊さんの息子が来てくれた。
野菊さんに似ているのにまるで似ていない。
それでも、きちんともてなすべきだったと、少し後悔している。
「織口さんの小説を愛しています。是非とも作品作りのお手伝いをさせてください!」
時は過ぎ、二人目の弟子ができた。一人目と違い家に居着き、快適な暮らしをさせてもらった。
「師匠」
「師匠!」
そうして最終的に、若造の泣きっ面しかここにはない。
美丈夫は間に合わなかった。
「どうか諦めないでください、師匠」
「きっと来ますから、まだ、待って!」
「……つた、え」
なら、言っておかないと。
いつかの返事を、伝えておいてもらわねぇと。
「……ご、ど」
「……っ!」
あいつは分かってくれた。
すぐに筆と紙を用意してくれた。
残す言葉はただ一つ。
残す相手もただ一人。
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