第4話
野菊
誰とも絡まず、黙々と酒を口に含み、手紙や小説を書くばかりの野菊さん。
文学サロンなんて洒落たものとは名ばかりの、文学を嗜む輩が集まって、酒や飯を飲み食いして騒ぐその場所は、野菊さんみたいな物静かな色男には不似合いだと思ったが、俺が行くといつも野菊さんはそこにいて、静かに、筆を動かしていた。
野菊さんは文芸誌に連載を二本抱える職業作家で、本もいくつか出しており、彼の文章をたまたま読んじまったばかりに、俺も真似て筆を取り、噂を聞きつけサロンにまで潜り込んだ。
単純な話、惚れたのだ。
嫁の時も強烈な一目惚れをしたもんだが、あれ以上に感情を書き乱される物語があるなんて、俺は知らなかった。
この人は誰だ、どんな奴なんだと調べていくのと比例して、腹を大きくした嫁の目が険しくなってきたが、それは放っておいていいだろう。これは浮気じゃないのだから。
まさかあんな色男が書いていると思わなかった。いや、端々に美しさが宿っていた。どんなに愉快なものを書こうと、品の良さまで隠しきれねぇ。
──喜劇小説の王・野菊音江。
惚れた作家はそう呼ばれていた。
その肩書きだって物怖じしてしまう。俺は真逆の悲劇小説しか書けないから。
それに何より、下品な人間たる俺が、あんな綺麗な人に近寄ったりしたら、汚してしまうんじゃないかと怖くていけない。
誰かに影響を与えられるような大層な人間ではないけれど、それでもそんな危惧をしてしまう。野菊さんは、野菊さんの纏う空気は、それだけ綺麗なんだ。
他の奴らと騒ぎながら、こっそりと見るだけに留めておいた。
語りたければ、あの人の書いた小説を読めばいい。俺ならどうするかと考え答えを出すのが、俺なりの会話だ。
独り善がりの逢瀬は、ある日終わった。
終わらされた。
「──話そうや織口」
やれ宴は終いだ、次はどこで飲むと話している最中、首根っこを掴まれ転がされた。
反転した視界。無表情の野菊さんが俺を見下ろす。
「お前とナシつけたいんだわ」
「……あ、はい」
こんな話し方をする人なのか、それが初めて会話した感想だった。
騒いでいた奴らは全て消え、後に残るは見下ろす野菊さんと横たわる俺。
「織口で合っているよな?」
「合って、います」
返事をすると、荒々しく吐息を溢して腰を下ろし、野菊さんは胡座をかいた。
胡座とかかく人だったんだ。いつも正座なのに。
「何の話か、分かるよな?」
「……えっと」
見ていたことだろうか、ちらちらと。
けっこうな頻度で見ていたのかもしれない。バレないよう気をつけて、他の奴らからも突っ込まれたことはなかったというのに、本人にはバレていたのか。
「……不快な思いを、させてしまったようで」
「ちゃんと心当たりはあったようだな。じゃあ、返せ」
……ん?
「返す、とは?」
「嫁に宛てた手紙だよ。どうせ作品だと思ったんだろ? 違うからな? 嫁に宛てた恋文だっつの」
手紙を書いているなとは思っていたけれど、こんな所で恋文を書いていたのかこの人。
「それは、俺じゃないです」
「不快な思い云々は何だよ」
「その……」
「いつもちらちら見てきたことか?」
バレていたようだ。
「だから犯人、お前だと思ったんだが?」
「誓って盗みはしてないです」
「そうか」
それで興味がなくなったように視線は離れていき、野菊さんは俺を残してサロンを出ようとする。
「……あ、あの!」
急いで身体を起こし呼び止めたが、何を言うかは考えていなかった。
──貴方の作品に心底惚れています?
尻の心配をされたらどうする。俺にも野菊さんにも嫁がいるのに。
「……なぁ、織口」
背中を向けられたまま、声だけが返ってくる。
「俺の小説が好きか?」
「……はい」
愚問だ。
だから俺はここにいる。
俺の返事を、野菊さんは笑った。
嗤った。
「どいつもこいつも口を揃える。俺は天才だ、王だ、素晴らしいってな。俺はただ文字を書き連ねているだけだってのに、持ち上げて離さない。そのせいで……」
いつの間にか、野菊さんの拳は丸まっていた。
「いや、その時にお前はいなかったんだ、関係ねぇか」
「あの」
俺が呼び掛けたからか、タイミングが合っただけか、野菊さんが振り返る。
また、あの無表情を向けられると思ったけれど、違う。
笑みだ。
嘲りと、色気に満ちた笑みを、俺に向けている。
「あんなものを何故、ありがたがる。あれはただの紙だ。文字が記された汚れた紙。あとは虫に犯されるだけの、汚い紙じゃないか。だというのに、どいつもこいつも何故、あんなもの……」
「俺には宝です!」
声を張り上げていた。
麗しき野菊さんの声とは比べ物にならない、ガチョウの
それでも言わなければいけない。
「人生を変えた、宝物なんですよ! 貴方の作品はどれもこれも!」
「……」
笑みは急速に消えていき、また、背中を向けられる。
「あっそ」
やけに子供じみたその声が、いつまでも耳に残っている。
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