第5話 興味
ジャンヌ・ダルクは現代のフランスに住むことになった。彼女は何故それを選んだか、それは今のフランス人について知るためだ。千四百三十年で若くして亡くなり、おそらく二百年、三百年以上の間は天界にいた為、現代のことについてはあまり詳しくなかった。
「キュリオちゃあん!リタさあん!大変ですぅ!!スマホの変なマークを押したら、スマホが急に喋り始めたのですがぁ!!?」
「ただの音声機能だよそれ!」
このように、スマホの操作にも慣れていなかった。
ドス黒い謎の建造物、赤黒く禍々しい空、そしてその空を飛ぶ悪魔たちの影。この狂気に満ちた場所の名は、アンダーワールド。
それは、悪魔の巣窟と言われており、ガブリエルを含む四大天使すらも危険と認める場所だった。
そのアンダーワールドの建造物の中でも、異質な存在を放つ城が建てられていた。
カツン…カツン…と、何者かが城の廊下を歩く。その廊下には赤いカーペットが敷かれており、両壁にはサタンの軍勢を意味するマークが描かれた旗が掛けられていた。
廊下を歩いていた者はグレモリーだ。ギガスを後ろ手に持ち、鼻歌を歌っていながら長い廊下を歩き続ける。
「ん?」
廊下の終着点である赤いドアの中から、何か声がする。グレモリーはスキップをし、歩くスペースを早めた。
やがて彼女はドアに着き、取っ手に手を掛け開ける。
その中には、赤い鎧を着た屈強な体の悪魔が別の悪魔を殺していた。先程の声の正体は、悪魔の悲鳴だろう。部屋はとても暗く、部屋の奥の壁には魔法陣が描かれていた。
「おーい!何してんのー?」
「この愚か者に罰を与えたところだ。どうやら小生の首を取るつもりだったらしい。」
鎧を着た悪魔はそう言うと、殺した悪魔の死体を蹴り飛ばした。
「それより、例の物は見つかったか?」
「あ、ごめんごめん。私メルカバーのとこに行ってたから忘れちゃってた。マクスウェルもやられちゃったよ。」
「お前らしい言い訳だな。だが、探すのは出来るだけ早くしろ。」
「わかったよ。それよりさ、ホントにこの方法で成功するの?」
鎧を着た悪魔はグレモリーの方へ振り返る。
「成功させるのだ。必ずな。」
鎧を着た悪魔が取り出したのは、悪魔の絵が描かれた聖書。それはグレモリーと同じものだ。
もう一冊の禁聖書ギガスだ。
鎧を着た悪魔は手に持っているギガスのページを捲る。捲る手は謎の挿絵が描かれたページで止まる。
「サタン様直筆のギガスだ。このギガスには悪魔を天使の封印から解放するための供物が書いてあ…」
「それ前にも聞いたよ私。ホントに好きなんだね。サタン様のこと。」
「あの方は全ての悪魔の頂点に立つ者。三百年前の戦争では、あのガブリエルという天使がサタン様を打破した。だが、あの方を解放し、あの厄介なガブリエル含む四大天使を全て葬れば、我々悪魔は神をも殺せる。」
その時だった。二人の背後に謎の悪魔が現れる。
「“イフリート”様。グレモリー様。」
「む…。もうそんな時間か。」
鎧を着た悪魔であるイフリートとグレモリーは配下の悪魔に付いていく。行き先は心臓の絵が描かれた扉だ。
配下の悪魔は扉の前で足を止め、開ける。二人はその部屋の中に入室した。
その部屋には、大きな円卓が置かれていて、壁には奇妙な絵画が大量に飾られていた。円卓の奥には何者かが両手を組み、座っていた。
「マモン様。お二人をお連れしました。」
それは、額に一本の角を生やし、カラスのロープのような者を羽織った細身の悪魔だった。その名はマモン。
三百年前に、サタンを解き放った悪魔だ。
「やぁ。二人とも。そうだグレモリー。私が書いたギガスを使いこなしているそうじゃないか。中々やるようだな。」
「相変わらず偉そうだねぇ。」
グレモリーが揶揄うように言った。
「おいおい。そのギガスを渡したのはどこの誰だ?お前にはもう少し、感謝の気持ちを知って欲しいのだがな。」
マモンは気怠いようにため息を吐くと、二人に話しかけるように喋り始めた。
「サタン様の解放に必要な供物はあと一つだ。揃っているのは、強欲、傲慢、色欲、怠惰、嫉妬、暴食、憤怒の七つのギガス。天使の翼十三枚。そして、自害した人間の死体から抜き取った心臓六十六個だ。まず各ギガスは、グレモリー、イフリート、そしてあとの五人の悪魔に所持させている。天使の羽、心臓は私の知り合いが取ってきてくれた。そして残るは“宝玉”と言われる代物だ。」
「私たちにその宝玉を探せって言ってるから協力してあげてるけど、本当にそんなのあるの?」
マモンはニヤリと笑い、その問いを返す。
「お前からそれを何十回聞いただろうなぁ。必ずあるさ。サタン様によると、それはどんな生命も生き返らせることが出来る光を放つが、それを使用すると、宝玉は消滅する。だが完全に消滅したわけではない。誰にも見つけられない領域へと移動すると。希望はまだあるのさ。」
マモンが椅子から立ち上がると、彼の側にカラスの頭が現れる。そしてカラスの目に何かが映った。何者かが悪魔と戦っている光景だ。グレモリーはそれを見ると嬉しそうに笑う。
「ジャンヌ・ダルクじゃん!」
「お前、こいつを気に入ってるんだろう?仲間にしたいならお前のどのタイミングでも構わない。だが宝玉を探すという真の目的も忘れるな。」
「わかってるよぉ♪」
クククと笑うマモンは指をパチンと鳴らすと、カラスの頭は四つに増え、それぞれの目にジャンヌ以外の何者かが映る。
「お前たち七人には言っていたか忘れたが、心臓を集めた知り合いを含め、宝玉を探す協力者の悪魔を数人雇った。下界の国それぞれに奴らはいる。人間たちを好き放題痛めつけたりしていて、遊んでいるようにも見えるが、至って真面目だ。イフリートはともかく。グレモリー。さっきも言ったが、真の目的を忘れるな。お前たちには、引き続き宝玉の捜索を続けてもらう。」
「それは良いんだけどさ、私たちを呼んだ理由ってなんなの?」
マモンは再び指をパチンと鳴らす。今度はカラスたちがポットのようなものを運んできた。
「まぁ、あとの五人が後でここに集まる。お先にお茶でもしようか?」
「自殺した人間の続出…。」
「はい。情報によると心身の疲れではなく、体が突然動き出し、無意識に自決を図った魂もいるそうです。」
ケルヴィとド・ミニオはヤハウェ像の間にて、
どうやら下界では、無意識に自殺してしまう人間が増殖しているらしい。自殺というのは酷く、凄惨な死だとケルヴィは捉えている。自殺した人間の魂は、その死場所に永遠に留まることになる。度々天使たちに救出されるケースが多いが、天使に気づかず、そのまま留まることも少なくはない。
「魂はどうなっている。」
「それが、自殺した魂がその場から消えるという出来事が起きています。私も今日、自殺した魂を救出するために向かったのですが、その場に魂はいなかったんです。他の騎士天使も同じことがあったらしいと。」
すると、ド・ミニオがこう言う。
「悪魔の仕業…なのです?」
「かもしれないが、何か引っ掛かる。魂が消える…か。魂は消えると、白い煙のようなものが残るが、何もなかったんだろ?」
騎士天使は頷く。
その時だった。ヤハウェ像の上空に、一人の騎士天使の姿が見えた。その天使はゆっくりと滑空し、床に着地する。その天使は、オールバック、青い肌をしていて、目の下には稲妻のような紋章が描かれていた。そしてその天使は自身に満ち溢れたような爽やかな顔で上位天使の二人に敬礼する。
「ただいま戻りました!シアトルにて問題を起こしていた悪魔は僕が浄化しました!」
「お、おう。“ヴァーチ”。ご苦労様だったな。報酬はあと…」
ヴァーチという天使は目を輝かせていた。何故なら、彼は上位天使四人衆、そしてガブリエル含む四大天使に強い憧れを持っていた。その憧れは少し崇拝にも似ているが。
「オホン!ヴァーチ。少し良いか?」
ケルヴィはヴァーチに先ほどの自殺者が増えている件について話した。
「なるほど。自殺した人間の魂が消える…ですか。」
「あぁ。この件、任せていいか?他の騎士天使たちにも調査をさせる。」
「っ!はい!!このヴァーチにお任せを!」
ヴァーチは再び敬礼したあと、すぐに飛翔した。彼の身体中から青い稲妻がバチバチと音を立てる。
「張り切ってるのです…。」
「いつも通りだ。」
ジャンヌ・ダルクはキュリオ、リタと共にショッピングモールにて買い物に出掛けていた。ジャンヌにとってそれは非常に興味深いもの。天界では少ししか現代の情報を知らなかったため、彼女が見たことのないもの、触れたことのないものがたくさんあった。
キュリオはゲームショップに向かい、ジャンヌはリタと共に服屋に向かっていた。
「ジャンヌちゃん。どう?今のフランスは。」
「とても賑やかです。なんだか、別世界に来たような…。色々な物ばかりで好奇心が昂るというか。」
「天国にはこういうのはないの?」
「天国…そうですね。この場所に似た大きな建物はたくさんありましたが…。」
その時、ジャンヌは不意に横を見る。フードコートで働いている人々が彼女の目に映る。
彼女は、下界の仕事にも少し興味が湧いていた。
「興味ある?現代のお仕事。」
「え?そう、ですね。」
ジャンヌがそう答えると、リタは「にしし」と不適な笑みを浮かべる。
「な、なんですか?」
「いやぁ、私はこの近くの“ルポ”っていうパン屋で働いてるんだけどさ。今人手不足で困ってるんだ。どう?興味あるならやってみない?」
「パン屋、ですか。私で大丈夫でしょうか…。」
「大丈夫!作り方とかは教えるし、結構早く覚えられるよ。」
「うーん…。やって、みようかな。」
「そら来た!」
「ほう。下界でお仕事ですか。」
その夜、ジャンヌはソファに座り、鎧越しでセラフたちと話していた。ジャンヌの横にはキュリオが座っていた。
「はい!現代のお仕事の勉強になると思いまして。リタさんに誘われてパン屋さんで働くことにしようと思います。」
セラフの他にガルガーリンとド・ミニオもいたようだ。ガルガーリンはティーカップを手に持ち、グッと中の液体を飲み干す。
「パン屋か。良いのだね!よかったらまた写真を見せてくれないのだね?」
「写真?」
キュリオは首を傾げる。
「そうか。まだ君たちには言ってなかったのだね。」
話し手はガルガーリンからセラフに変わる。
「実は、私たち四人衆はそれぞれ下界のあるものを研究しています。私は下界の生き物について研究していて、ケルヴィさんは下界の歴史について研究しています。」
「私は下界の食べ物の研究をしているのだね!写真を見せて欲しいと言ったのは研究のためなのだね!」
天使たちも下界に興味があったようだ。ジャンヌは少し微笑ましいと思った。
「良いですね!ド・ミニオさんはどんな研究を…」
「よくぞ聞いてくれたのです!私は下界の“芸術と娯楽”の研究をしているのです!特に漫画と小説というもの!BLでもGLでもバッチこいなのです!えへへへ…。そういえば来週は新刊発売なのですぅ…。」
「びー…える?じーえる?」
ジャンヌとキュリオには見えなかったが、セラフとガルガーリンにはド・ミニオは息を荒げながら少し気味が悪い笑みを浮かべていた。
おそらくド・ミニオはその研究をしているうちにオタクとなったのだろう。
「あ、はは。その研究は趣味でやってたりするんですか?」
「まぁ、半分正解ですね。しかし、本来の目的は“神々”に研究の成果を見せ、現代の状況。そして私たちの研究を基に展開に新たな物、建造物などを作る許可をもらう。現代でいうプレゼンですね。」
『神々!?』
天界にも神はいる。ジャンヌ・ダルクは生前、神の声を聞きフランスを守るために旅立った。あれからジャンヌは神を信じていた。しかし、実際に会ったことは無かった。
「天界では不定期で神々の会議が行われます。様々な国の神に我々の研究の成果を見せるんですよ。」
「様々な神様っていうと、どんな神様が出てくるの?」
キュリオは問う。
「そうですね。まず、天界というのは地球とほぼ同じ形状となっています。エデンも地球と同じで、例えば、日本人の魂が行き着くエデンは日本列島と同じ形状をしています。日本のエデンは“高天原”《たかまがはら》と呼ばれています。神々についてですが、前回は日本からは“天照”《あまてらす》氏。ギリシャからは“ゼウス”氏もいらしてくれました。」
「へぇ!ゲームにも出てきたから全部知ってる!みんな大物じゃん!ゲームでの性能も強いし。」
「とまぁ。こう言う訳で、私たちも現代の勉強、研究をしています。ジャンヌ・ダルク。下界での仕事を通じて現代を勉強することは良いことです。お互い、頑張りましょう。」
「は、はい!ありがとうございます!」
その時、ド・ミニオが何かを思い出したように「あっ!」と声を上げる。
「セラフさん!あの件を…。」
「おや。確かに。重要な事でしたね。」
重要な事というのを聞き、ジャンヌの頭に疑問が浮かぶ。
「どうかしたのですか?」
「ジャンヌ・ダルク。貴女に協力して欲しいことがあります。」
ジャンヌは家の二階に続く階段を登った。セラフから聞いた話を思い出しながら。
“自殺した魂が突然消える事態が増えている。”それも悪魔の仕業なのかもしれないということだ。
しかし、彼女がもっと深刻に思ったのは、自殺した魂の末路だ。彼女はこの現代に来てから、自殺をした人間に関するニュースを度々見てきた。皆、イジメや仕事の辛さ、パワハラ、虐待などが原因で自ら命を絶ったと。
(どうして、苦しみを味わってやっとの逃げ道が、それ以上の苦しみなんだろう。天界にも行けないなんて。)
永遠に死場所から離れなくなってしまう。稀に天使から救出されるとは聞いたが、ジャンヌは自殺した人々の苦しさを今、味わった。
「ジャンヌちゃん。」
リタがジャンヌに呼びかけた。ジャンヌは振り返る。呼んだ彼女の顔は、少し心配そうな顔をしていた。
「さっきの、セラフさんたちと話してたの、聞いてたんだ。また、悪魔と戦うかもしれないんだよね。」
「…はい。」
「その、絶対生きて帰ってきてね。」
「…ありがとうございます。その、ごめんなさい。少しお話ししても良いですか?」
ジャンヌはリタに、自殺した人間の魂のことを話した。
「…なるほど。それは可哀そうね…。」
「はい。天使はあくまで、悪魔から人々を守ること、そして展開につれて行く事が仕事だそうで。神々も、大昔は人々を助けることができたそうですが、人間にそれぞれの生きる道を邪魔するのは禁止とされ、今は重罪とされているらしいです。」
ふと、ジャンヌはセラフがさっき言っていたことを思い出した。
「私たち天使も、人間が大好きです。自殺した人間の魂がいた場合、一秒でも早く駆けつけて、助けてあげたいぐらいです。その魂が我々に気づくことがない時もありますが。私たちは人間皆苦しい道には行かせたくありません。しかし、人間というのは運命には逆らえない。かつて神々の中でも頂点に立つお方がいました。その方は、人間というのは運命に沿って生きていく生物。その為、我々天界の住人の手助けは不要だと。」
ジャンヌの心臓がキュッとなる。酷い。惨すぎる。苦しみの先がそれ以上の苦しみだなんて。
「…ジャンヌちゃん。」
リタは優しい笑みを浮かべ、ジャンヌの頭を撫でた。
「本当に、優しいね。なら…。上手くいえないなぁ。そうだね。もし、魂が見えるとして、自殺した魂を見かけたら、声をかけてあげて。たくさん慰めて、どうか天界に行かせてあげて。心配している人や、死んで悲しいと思っている人たちがいるのも、幸せになってほしいって思ってる人がいることも、伝えてあげてね。それから、生きるのが辛いって思った人がいた時には、こうやって言ってあげるんだ。」
リタの優しい笑みは、いつもの明るい笑みへと変わった。リタらしい、頼り甲斐と母性を感じるその表情に。
「生きるって、すごく楽しいってこと!それに必ず助けてくれる人が身近にいることも。身近な存在…例えば、私も、キュリオもジャンヌちゃんも同じ!魂で言うと、天使や、ジャンヌちゃんのようなメルカバーとかかな。だから、ジャンヌちゃんは優しいから、勇気を出して困っている人や魂を助けてあげて。私も、悪魔とは戦えないけど、ジャンヌちゃんに何かあったら、私やキュリオがそばにいるから!お互い、手と手を取り合って生きていこ!」
ジャンヌの顔にも笑みが溢れる。
「え、えっと、ごめんね!私、なんか上手くいえなくて!」
「いえ!ありがとうございます。リタさん。おかげで、少し気分が明るくなりました。」
「そ、そう?良かった!そうだね…なんか、気分転換に映画かネットサービスで日本のバラエティでも見る?キュリオは寝ちゃったけど…」
ソファの横に置かれた鎧が微かに光る。何者かが彼女たちの会話を見ているように。
「人間っていうのは、暖かい生き物だな。」
ケルヴィが言うと、他の上位天使たちが頷いた。天使たちはまた、人間のことが好きになった。
翌日。ジャンヌは靴を履き、玄関にある鏡を見ながら自身の髪を整える。そして、玄関のドアの取手に手をかけた。
「準備できた?」
外には、車のロックを解除したばかりなのか、車のドアを開けたばかりのリタがいた。
「はい!バッチリです!」
すると、ジャンヌの背後からドタドタと足音が聞こえてくる。おそらくキュリオだ。
「ジャンヌさーん!お仕事頑張ってねー!」
リュックサックを背負ったキュリオが手を振って見送ってくれた。ジャンヌも笑みを浮かべ、手を振り返した。
「キュリオちゃんも学校頑張ってね。」
「うん!」
やがてジャンヌはリタの車の助手席に座った。リタは車のエンジンを掛けた。キュリオが手を振る姿が遠ざかっていくのが見えた。
ルポの店内には、バターの優しい香りと、焼きたてのパンの匂いで溢れていた。オレンジ色の壁に掛けられた額縁の中は絵が飾られていて、可愛らしいハチやクマ、猫の絵など、ルポの意味である癒しを象徴するような穏やかで明るい空間だった。
厨房では、一人の男がオーブンからパンを出していた。少し垂れ目で、長身の男だった。長身の男は焼き上がったパンをカゴに入れ、厨房を出る。
焼き上がったパンは商品にするらしい。男は焼き上がったパンをレジの近くにある様々なパンが置かれたカゴに乗せ、そのカゴの下に、本日限定品と書かれた紙を貼った。
「ん?」
外から車の音が聞こえた。この音に彼は聞き覚えがあった。更に窓から車が写り、車内にはポニーテールの女性が乗っているのが見える。
「リタさんか。今日はいつもより早いな。」
リタが車から降りる所が見えるのはいつも通りだが、今日は少し違った。何故なら、リタ以外にもう一人の女性が乗っているのだから。
「誰だ?あの人。」
二人はルポに近づき、ドアを開ける。リンリンとドアに掛かったベルが鳴る。
「おはよう!“エンゾ”!」
リタは陽気に挨拶し、ジャンヌを連れて入ってきた。
「あぁ。おはようございます。失礼ですが、その女性は?」
「聞いて喜べエンゾくん。彼女、ここで働きたいんだって!」
三人はルポの裏にある準備室で向かい合って話し合っていた。
「紹介するよジャンヌちゃん。彼は“エンゾ・フォーレ”。ちょっと鈍臭いところもあるけど、パンを作る上手さはピカイチなんだ!」
エンゾは頭を下げた。
「よろしくお願いします。エンゾ・フォーレです。ちょうどうちは人手不足なので、助かりますよ。」
「ジャ、ジャンヌです!その、まだパンも作ったことなくて…」
「大丈夫ですよ。俺が教えるんで。結構覚えるの簡単ですよ。」
そう言ってエンゾは微笑み返した。
「そう言えば、店長たちは?」
リタがそう言うと、
「店長はもう少しで来ると思います。もう一人は、体調不良で…。」
「そっか。まぁ、新人が入ってきたことを知ったら店長も嬉しいだろうし!」
「ですね。まずジャンヌさんに、このルポに来てくれたお礼として、あ、ちょっと待ってくださいね!」
エンゾは椅子から立ち上がり、厨房の中へと入っていった。彼は数十秒後、皿に乗せた四角いパンを持ってやってきた。
「これは俺からのお祝いです。焼きたてですよ!」
「あ、ありがとうございます。」
ジャンヌはパンを受け取る。パンは少し熱く、手触り良く、ほんのり甘い匂いは彼女の食欲を煽る、「いただきます」と言い、パンを一口齧る。
「っ!」
ジャンヌはガツガツとそのパンを頬張り続け、やがて最後の一口を飲み込んだ。
「美味しい!すごく美味しいです!中に入ってるチョコレートが凄く良いですね!」
「良かった。そんなに喜んでくれると俺も嬉しいですよ。」
「凄いなぁ。こんなに美味しいパンを作れるなんて…。私、できるかな。」
「大丈夫ですよ。すぐに慣れますから。それじゃあ…」
エンゾは時計を見る。現在は朝の八時半だ。
「開店までまだ時間があるので、十分後にパンの作り方を教えても良いですか?」
「はい!よろしくお願いします!」
ジャンヌがそう言った途端、リタは椅子から立ち上がった。
「よし!じゃあエンゾくんはジャンヌちゃんを任せて良い?私は今のうちに残りのパンを焼き上げとくね。」
「ありがとうございます。それじゃ、また十分後に。」
そう言って、エンゾは準備室から退出した。エンゾはポケットからスマホを取り出し、電源をつける。
彼のスマホの待ち受け画面には、二人の男が写っていた。
おそらく、片方はエンゾ自身。もう一人は、エンゾの知り合いなのかもしれない。その写真を見た彼の顔は少し曇った。
「あいつ、連絡の一つくれたら良いのに。」
「はぁ…はぁ…はぁ…」
真っ暗な空間の中、一人の男が苦しそうに息を荒げる。彼の頭の中には一つ一つの言葉が走馬灯の如く思い出す。
「役立たず」
「お前なんか消えればいい」
「ここにアンタの居場所は無い」
「死ねば良いのに」
「あぁ…!あああ…!」
男は何故か右手に大きな包丁を持ち、それを自身の胸に近づける。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
そして男は両手で包丁を持ち、
「うあああああああああああああああああああ!!!」
発狂し、自身の胸に突き刺そうとした。しかし、
「はぁっ!!?」
包丁は胸を貫く寸前で止まった。男の息はまだ荒かった。首から滴る大量の汗、やがてそこには、涙も混ざった。
「…やっぱり…俺は…死にたく…ねぇよぉ…」
男は両手で涙を拭くが、涙は収まることはなかった。
「やり直そう…きっと…死んで楽になるなんてのは…俺には似合わないかもしれな…」
「…」
何者かが男に囁くと、男の瞳孔は開き、涙も止まり、そして、
『グジュッ』
男は自身の胸に、包丁を突き刺していた。
男の背後には、大きな棺桶が置かれていた。
続く
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