共犯者メアリー・アン・ニコルズより、親愛なるエミリー・ネリー・ホランドへ
粗末なモーテルの一室。そこは彼の聖域である。帽子を玄関に掛ける。補正下着を、ズボンを脱ぐ。それを工程を経て、彼・女・の聖域は完成される。
「ごはん用意できてるよぉ」
湯で体を清めた彼女を迎えたのは、嗅ぎ慣れた、しかし香ばしいフィッシュアンドチップスに始まる質素な夕食の香りとアン――メアリー・アン・ニコルズの、柔らかな気の抜けた笑顔。
「いつもありがとう。アン」
「えへへ、先にいただいてるよぉ」
食事のことではないのは、彼女の手を見ればすぐに分かる。中身の幾らか残ったグラスが当然のように収まり、そしてテーブルには三分の一ほど中身の減った酒瓶が落ち着かない様子で座っているのだから。
アルコール依存症の人間など、この街には文字通り、死ぬほどいる。アンもその一人だった。
正しく、医者の立場からすれば、止めるべきなのだ。しかし彼女にはそれが出来なかった。
「僕も少しもらっていい?」
「はいはぁ~い」
彼女の正気を蝕む酒が、彼女の理性を繋ぎ止めているのだ。
医者として一度、禁酒をさせたことがあった。そして彼女の、決して癒えることのない傷を抉ってようやく、彼女は気付けた。
誰も彼もがそうだ。不安と恐怖と、痛み。現実を生きるために、現実から逃れるために、酒に、薬に縋る。縋って、溺れる。
「…………」
口に少量含んで、甘みと苦みが個々に舌の上で存在を主張し、独特の香りが鼻から抜ける。
「…………うん」
こういうものだと思えば、そう悪くもない。上手いか不味いかで言えば、きっと、美味い。
だが、彼女にとって酒は、その程度の域を出なかった。
アンは酒で身を持ち崩した。しかし彼女は、彼女の主観で言えば、そ・れ・さ・え・出・来・な・か・っ・た・。
「まだ、だめみたいだ」
震える手を抑え込み、彼女はゆっくりグラスを置く。
今はあのときとは違う。ここには外の寒さは入ってこない。悪臭も、男も。それでもまだ、傷は疼く。
不意に、温かく、柔らかな感触が、彼女の首を、顔を優しく包み込んだ。アンがいつの間にか、後ろへ回り、抱きしめてくれていた。
「えらいねぇ。ネル」
優しい、優しい声。耳に頬に触れる吐息には、酒の匂いが微かに漂っている。でもこれは、アンが齎すそれは、彼女は恐いとは思わない。トラウマに触れない。
「ありがとう。アン――」
食事はまだ残っている。グラスにはまだ、酒が琥珀色に輝いている。そんな中で、二人は唇を重ねる。
「今」は「あのとき」とは違うと、互いに証明するように。
……………………
………………
…………
女でいられない。男になりたい、わけがない、町医者。壊れそうな心を酒で繋ぎ止め、その日一日を食い繋ぐために、体を売る中年の娼婦。
社会が食い潰した二人が身を寄せ合う、粗末なモーテルの一室には、それでも確かに愛はあり、幸福があった。
地獄よりは幾らもマシだと、生きていて良かったと、そう思える程度には。
ここはイーストエンド。ホワイトチャペル教区。――悪徳の巣窟。
――否。世界の何処であろうとも、この時代は、社会は、男の庇護下にない女にとっては、地獄でしかない。
「…………」
彼・の顔にはいつもの、人の良い笑顔が浮かべられている。浮かべられていたものが、今は貼り付いて固まっている。
言葉が出ない。声が出ない。呼吸さえ儘ならない。
「――先生?」
彼の前にはアンがいる。患者として。彼女も人間なのだ。まして娼婦であれば。病院を利用しなくてはならないこともあるだろう。
しかし、彼女に目立つ傷は見られない。朝、出掛ける時に見たときのままの、綺麗な顔のまま。ただその顔が、今は曇っている。
ただそれだけ。
「――――、あの……」
尋ねたくない。聞きたくない。診たくない。アンの表情から、これまでの経験から、考え得る最悪の想像が頭に浮かび、拭えない。吐き気さえ込み上げてくる。
「今日は、どうなさられたのですか?」
上擦り、震える声。男の声さえ、まともに作れてはいない。看護師が怪訝そうにこちらを見ている。気付かれればお終いだというのに、取り繕うことが出来ない。
どれ程辛くとも、それだけは徹底出来ていた筈なのに。
アンがふと、小さく息を吐いた。観念したように。決心したように。曇った顔に困ったような苦笑が貼り付けられる。いたずらを謝るように、彼女は囁いた。
「妊娠、してしまったみたいで」
降ろしたいんです。そう告げられ、彼はそこで感情を切った。
それからは、これまで通り。彼は、アンは、また一人、生を受ける筈だった命を奪った。この世界で子どもの命と、女の命と尊厳が、どれ程までに軽いかを証明するように、いとも呆気なく。
昨日までは。ささやかな幸せが、ここには満ちていた。
「…………」
何も変わらない。橙の明かりも、外界を閉め出す、他の何処にも似ていないこの部屋独特の匂いも。
その筈なのに。
今はその全てが昏く、曇って彼には感じられた。
先に帰宅している筈の彼女は、今日は迎えに来てはくれない。
『彼』が彼女へ戻るための、戻っていいと思えるようになるための、「おまじない」が出来ない。
彼は奥へ駆け出す。嫌な予感がしてならなかった。
「…………!」
数十歩分の距離は、こんなにも長く、しんどい。彼女が居る筈の部屋に向かって、足音さえ気に掛けることなく、ただ夢中で進んでいく。
「――アン!」
嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。それら全てを追い出すように、彼は勢いそのままにリビングの扉を開いた。
「――あ、おかえりぃ~」
そこにはいつもと変わらないアンが居た。僅かな明かりで照らされる部屋で、勢い良く開かれた扉さえまるで気にする素振りも無く、彼女は内職を熟していた。床には無造作に撒き散らされた成・果・が咲き誇っていた。
「…………アン」
それはある種、異様な光景だった。確かにこの家に、酒の買い置きは無い。そしてアンの日の稼ぎでは、溺れるのに十分なだけの酒を買い込むことは難しい。
それでも彼女が、悲痛な現実から逃れるために、酒を飲まないなんて。
彼の漏らした声には、拭い切れない不安が滲んでいた。
「ごめんねぇ、もうちょっとできりのいいところまでいくからぁ」
それが何でもないことのように、彼女は手を動かし続ける。膨らむ不安を少しでも減らしたくて、彼は出来上がっているものを箱に詰めていく。
沈黙は、そう長くは続かなかった。
「手がね、震えるの」
それが疾患を指してのことではないと、彼はすぐに察した。
「何かしてないと、だめなの」
今更なのにねぇ。穏やかな声で、アンは自嘲した。
「よし、できたぁ」
最後の一つが手渡される。彼はその手をそっと握る。荒れた華奢な手は、目には見えずとも確かに震えていた。まるで寒さに凍えるように。
「――分かる?僕もだよ。震えが止まらないんだ」
何を言い訳に、どれ程の命みらいを奪ってきたか。数えることなど恐ろしくて出来ない。今更被害者面をする資格などありはしない。故に彼女もまた、なんでもないことのように同意した。
「うん。どっちが震えてるのか、分かんないね」
困ったように笑い合う二人。男達のように、病む心が無ければ、もっと楽に生きていられるだろうか。でも、この病む心が無くなってしまえば、自分はきっと、女でも、人間でさえいられなくなる。
縋ったところでどうしようもないものを、捨てられなかった。そうなってしまうことが、何よりも、或いは死ぬことよりも恐ろしく思えてならなかった。
「ねぇ、ネル」
ため息を吐くように囁かれる声。一度は伏せた目を、アンは今度はまっすぐに彼女へ向ける。
「わたしを、あなただけのものにして」
焦がれるような熱を、その静かな声に感じた。ねだるような悪戯っぽさを感じた。微睡んでいるような疲労を感じた。
メアリー・アン・ニコルズから、エミリー・ネリー・ホランドへの、告白じみた願いには、ただ愛の一文字で片付けるには、あまりに多くの感情、想いが渦巻いていた。
どうしてこうなってしまうんだろう。彼女が子どものようにそう、霞んだ空を見上げ、誰にでもなくそう問いを投げ掛けたことを、彼女は今でも鮮明に覚えている。
年齢よりもずっと若く、或いは幼く見える、「少女」という印象を最初に抱いた、自分よりも年上の娼婦だった。
病に心身を蝕まれ、暴力に苛まれ、刻に置き去りにされ、常識に蔑ろにされ、理不尽に翻弄され、そして、自分自身に見放されて、
それでも、そんな彼女を、美しいと思った。
「…………アン」
伸ばし掛けた手を彼女は止める。握る手に力を入れることさえ躊躇われた。
アンの囁いたその言葉は、薬よりも、酒よりも、彼女の心を掴み、毒のように芯へ染み込んで来る。
胸の内に湧き上がってきたものに、身を委ねてしまえたなら、そう彼女は思う。
酒に酔えない彼女には、それが出来なかった。甘美な囁きの裏に感じ取った危うさは、酒を体に入れたときと、何処か似通っていた。
どうすればいいのか、どうして欲しいのかさえ分からない。彼女はどうしようもない心持ちで、縋るように想い人の名を口にする。
……………………
………………
…………
「――あと何回、同じことを繰り返すんだろうって、思ったの」
腹部を撫で、アンは呟く。愛おしむかのような、柔らかな優しい手。しかし、そ・こ・には今は、誰も居ない。
アンが、彼女が、二人が殺した。
「分からないなって」
何度も、あるかもしれない。体を売っている限りは、きっと何度でも。そも、どれ程の春が残っているのかさえも。
別の仕事をすればいい。などというのは、結局のところは、富める者の詭弁でしかない。仕事を探せる、選べるだけの余裕、知識、技術、あるいは意欲のある者。
今日、飢えている者は、今日を食い繋ぐために、罵られようと痛めつけられようと、端金であろうと、犯罪行為であろうと、どれ程先がなかろうと、目の前の金に、仕事に手を付けるしかないのだ。
この国が女こどもに、自力で生きることを許さないのだから。
「あとどれだけ、ネル、あなたにそんな顔をさせなきゃいけないんだろう」
ここが地獄ならよかった。子どもの頃脅かされた、『悪い人』が堕ちる地獄なら。
だってそうだったら、償いが終わるまで、ただ耐えていればいいだけだから。
アンは笑みを湛えている。今にもくしゃくしゃになって、泣き出してしまいそうな顔を、笑顔の形で懸命に押し留めている。
「ネルとの今を、大切に思えば思う程、これからのことが、怖くて仕方のないことにしか思えなくなっていくの」
ここは地獄よりもずっと地獄めいている。死んでしまえばそれで済むのに、死にたいと願う自分は、どうしようもなく生きることを望む。端金を宝物のように握り締める毎に、自分を嫌いになっていく。浅ましく生に縋る自分に、死ねばいいのにと思わずにはいられない。
そうまでして、まともに相手に向き合えなくなって、それでも、一緒に居たいと願う。望んでしまう。
どこまでも独善的で、誠実でいることさえ出来ない。
「あと一回だけ。最後に一回だけ。ネル、わたしの全部になって」
『今』だけで全てが完結してしまえば、それはどれ程の幸福だろう。
「それで、わたしをネルの全部にして」
「…………」
思考が定まらない。言葉を紡げない。分かっていることは一つだけ。『アンは死を望んでいる』他でもない、彼女に殺されることによって迎える『死』を、望んでいる。
「――――ネル」
「わ……たしも、い、一緒に……っ!」
ようやく、ようやく彼女は、絞められているかのように詰まる喉から、か細い声を上げた。どれほどの時間を要したか、彼女のそれを考えている余裕はない。目の前にあるのは、いつもと変わらないアンの顔だけ。
「だめ」
アンは笑った。
「ネル、あなたがいなくなったら、誰がみんなを診るの?ち・ゃ・ん・と・し・た・お・医・者・は、娼婦わたしたちのことなんて診てくれないわ」
この街の医者は、大きく二種類に分けられる。一つ目は正確な知識と技術を持たない、自称医者、または薬屋。たとえその心根に、人を助けたい意思があろうと、その能力を持たない者。
そしてもう一つは、正確な知識と技術だ・け・は持っている、金持ち、少なくとも中流階級以上しか相手にしない、助ける命に値段をつけている者。
どれ程清廉、高潔に在りたいと望もうと、この街では欲こそが最優先に動き、力を奮う。
後者にとって、下流階級と、移民や娼婦は、金にならない命であり、故に救うに値しない命だ。
彼のような、患者の財布に見合った診察料で、まっとうな医療を施してくれる医者など、彼女の他には何人も居ない。
アンはそれを知っている。だから彼女は、心中を選べない。結果として選べたのは、最も残酷な道。
「アンも……アンも生きてよ……っ!アンが居ないと、わたし、は、私でいられない」
私にも『あなただけ』を選ばせてよ。重ねた手には知らず、力が籠る。悲鳴じみた訴えを、アンは困ったような笑顔でただ受け止める。
「ごめんね?」
「…………っ」
なんて我儘。何もかもが彼女の内に詰まる。言葉も。想いも、呼吸さえ。彼女はただ、想い人の手に縋る。
優しさではなく、命がけの我儘。
彼女が承諾し応えることで完成する、或いは愛と称される我儘。
大切なものを失う。それは残された者の心に、一生消えない傷として残り続ける。
この地獄には、終わりも未来もありはしない。
歪んでいるだろうか。しかしそれを、誰が糾弾出来ようか。
永遠と呼べるものがあるとするならば、それはきっと、人の心、魂にこそ宿る。
思い出す度に甦る痛みに、遺された者はどうしようもなく、喪った者のことを夢想する。
見えもしない、形だって分からない、その心、魂の存在に、人はどうしようもなく偏執する。
ただの良い思い出ならば、上書きされることも、忘れられることもあるのだろう。しかし痛みを伴う、良い思い出は、忘却するにはあまりに甘く、切なく、名残惜しい。
一生想われ続けるということが、どれ程の幸福か。ヒトは本能的にそれを知っている。
アンの決意は、願いは、きっと変わらない。彼女はどうしよもなく、それを理解する。
それに応えたいと思ってしまうのは、やはり恋人だからか。
止まってほしい、考え直してほしいと思うのは、人としての常識か、医者としての使命感か、家族としてのエゴか。
――すべては、『永遠』に偏執する彼女の心、魂が故に。
「…………アン」
消え入りそうなか細い声を、彼女は、どれ程かの静寂の後に零した。寂しい悪夢にうなされているかのような、そんな、ひどく弱々しい声。
「うん」
今にも泣き出しそうなその目は、ただ想い人を真っ直ぐに見詰めている。そして想われ人は答えを待つ。どのような答えであっても、彼女が答えを出すことを、待っている。
「――――――」
……………………
………………
…………
離さない。もう絶対に。何があっても。あなたがくれたココロ。
私が持ってるだけじゃ、きっと意味がないから、あなたにも持っていてほしい。
傷がついてない、綺麗な部分だけ、それだけでいい。持っていてほしい。
残りは全部私が持っているから。あなたがくれたものと、傷がついている部分。残り全部。
ここではきっと、その方が生き易いだろうから。
さようなら、はきっと違うよね。ココロできっと、私達は繋がっているから。
愛してる。
何があっても、それだけは変わらない。
変わらないから。
私だけが、なんて言わない。
知ってる。皆がみんな、不幸だ。生まれが、環境が。そうでなければ。そうでさえなければ。
ここだけじゃない。ぜんぶだ。この世界が、地獄そのものなんだ。
忘れているようなら、思い出させてあげる。知らないなら、教えてあげる。
特に、自分だけは、なんて思ってる、お前達には。
私達はここに居る《From Hell》と。
「思いっ切り痛くして」彼女は言った。それは悪戯をたくらんでいるような笑顔で、今から何をしようとしているのか、これから自分の身に何が起こるのかなど、知る由もないようだった。
「何があっても忘れられないように」とも囁いた。
「うん。まかせて」彼女もまた微笑む。繋いだ手に、ほんの少しだけ力を籠めて。
互いの息が掛かる程に近付いた顔を、ガス灯の明かりだけがぼんやりと照らしている。
口づけを交わす。どちらからともなく。決して溶け合い一つになることはない体を、それでも混ぜ合わせるように。それが叶わぬならばせめて、心だけでもと、祈るように、静かに、熱く。
それを見咎める者は、夜も更けた今となっては居ない。どれほどの時間が過ぎたか、唇はそっと離れる。名残惜しむように、唾液が細く糸を引いて、やがてそれも切れてしまう。
首に刃が押し当てられる。医療用の、ヒトを切ることに秀でたものが、口づけの延長線のように徐に。彼女はそれを拒まない。彼女の目には憎しみも、怒りもない。あるのは深い哀しみと、焦がれる程に熱い、あつい、想い。
「きて」
彼女のその一言が、押し当てた刃を動かす。水を掻くように滑らかに、刃は白く細い首へ沈む。
肉を切り、骨の隙間を搔い潜り、その中枢を両断する。その呆気なさを、まるで物足りないと不平を零すように、傷口は紅い、彼女を彼女足らしめるものを、溢れ滴らせる。首を伝い服を濡らし、何から何までをも、その紅色で染めていく。
或いは彼女を、テムスの汚水へ消し去るように。
或いは彼女を、世界に刻み付けるように。
「……、……、…………」
震える体は、旅立とうとしている魂を、繋ぎ留めようとしているかのよう。
或いは寒さに凍えているようにも見えるその体を、彼女は抱き締める。返り血に塗れることも厭わず。
「ぁ……っぁぁ…………あ」
声を発そうとする度に、傷口に血が、泡を作ってははじけさせる。
覗き込んだ目は遠く、何かを必死に捜して、眼前の彼女を見失っている。
「大丈夫。だいじょうぶ。ここに、――ずっと一緒に居るから……!」
言葉は、想いは届いたのか、彼女は震える手で、そっと、確かめるように彼女の顔を包む。
「……………………ネル」
青褪めた唇が紡ぐ。弱々しくも、それが最後であるかのように、懸命に。
「…………っ!」
言ってほしい言葉なら幾つもある。出来ることならずっと、二人で一緒に生きていたかった。最後の一線を越えたのは、それでも彼女自身の意思だ。
もう引き返せない。戻れないのだ。何があっても受け入れる。そんな覚悟は、彼女のその、色んな感情をない交ぜにした、それでも笑おうとしている顔を前にしてしまえば、埃のように呆気なく消えてしまう。
どんな言葉でも聞いておきたい。もう何も聞きたくない。彼女は強引に、縋るように唇を重ねる。
冗談のように失われていく体温。冷たくなっていく唇は無言の内に、すぐそこまで迫った別れを告げている。
指に込められた力は、如何な感情のあらわれか。
そしてふと、その指から力が抜かれる。
抱き留めた体がずっしりと、鉛のように重く、一方で拍子抜けするほどに軽くなる。まるで何か、大切なものが失われてしまったかのように。
そっと横たえる。寝かしつけるように。微睡んでいるかのように僅かに開かれた瞼を閉じて、彼女は紅く濡れた服の上から、そっと確かめるように、腹に手を置いた。
「…………」
目を閉じて、そして開く。決意を宿した双眸が、冷たく、熱く、想い人を見据え、メスの柄を握る手に力が籠められる。
――――――――――――
この世界は地獄だ。この世界こそが地獄だ。ただ女に生まれたというだけで、こんなにも生き辛い。
生まれてしまった。生きている。たったそれだけのこととで、こんなにも死を恐ろしいと思うようになってしまった。
愛おしいと思える人が、たった一人いるだけで、こんな世界でも美しいと思えてしまう。
たったそれだけのことで、生まれてきて良かったと思えてしまう。
それでも想いは、彩を付けてくれただけで、現実そのものを変えてくれたわけではない。
世界はこんなにも地獄だ。
滑らかに、まるで水を掻くように刃は動く。彼女の懊悩などまるで、些末ごとだと一蹴するかのように。
暴き立てられる彼女の内側。そこに「心」に該当する器官は無く、あるのは赤と青の血管に彩られた桃色だけ。
彼女はそれを美しいなどとは思わないし、殊更不快にも思わない。
ただそっと、彼女は手を差し入れる。まだ仄温かい柔らかな肉の感触、やはり彼女は眉一つ動かさない。
彼女は難なく、それを感触だけで見つけ出す。ごく自然にそれは、絡めた指を受け入れた。
引き出そうと力を籠める。玩具パズルのようにそれを納めた体は、入れることには寛容でも、取り出すことにまでそうではない。
それがたとえ愛する者の手による解・放・であったとしても。
彼女は追い縋るものを一つひとつ丁寧に外していく。
ほどなくして、それはようやく彼女の手中に収まった。
翼を広げたコウノトリ。両手を広げ、愛し子を抱く女。ハートマーク心臓。小さく脈打っているようにも感じられるそれに、彼女はそんな印象を抱く。
思い出らしい想いでも作れなかった。故に、それが形を残している筈も無い。
「これで良いんだよね。アン」
彼女が望んだ独占。彼女が答えた愛。このような形でしか成せない、相思相愛の証明。
ネルはそっと、形見を握り締める。
別れは告げた。もうそこに在るのは、彼女だったもの。しかしそれを、粗末に扱える筈もない。彼女はぶつけないようにそっと、彼女だったものを壁にもたれさせる。
「…………」
何を期待しているわけでもない。死者が甦ることがないことは、医者である彼女が一番よく知っている。顔を上げて、あの気の抜けた笑顔で笑い掛けてくることなど、ある筈がないのだ。
それでも待ってしまった。奇跡などと大それたものではない。昨日までのささやかな幸福が、今日も、当然のように訪れるのではと、ほんの少し、待ってしまった。
踵を返す。ただ静かに。「行ってきます」も相応しくなければ、「さよなら」もきっと違う。ここで発するべき言葉を、彼女には見付けることが出来なかった。だから無言で、その場を去る。
もう振り返ることはなく、足早に進む彼女の背中は、纏った暗い色の服も相まって、あっという間に夜霧に溶けて消えてしまった。
一八八八年八月三一日。メアリー・アン・ニコルズが遺体で発見される。検死は医師ヘンリー・エルリンによって行われた。死因は首を切られたことによる失血。縦に裂かれた腹からは、子宮が抜き取られていた。
遺体の脇には「
Re:From Hell @udemushi
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