プロローグ2 ヘンリー・エルリン医師 或いはエミリー・ネリー・ホランド

「――次のかた――っ、ジェーンさん⁉」


 振り返り患者の顔を見るなり、彼は素っ頓狂な声を上げる。入ってきた、右の頬を赤く腫らした中年女性は、困ったように眉を曲げながらも、豪快に笑った。


「まったく、商売道具をこんなにしてくれてさ!ただでさえ少ない客が、これじゃなくなっちまうよ!」


 ずかずかと強い歩調で入って来た娼婦、アニーは設えられた椅子にどっかりと腰を下ろした。


「悪いけど、お願いするよ先生」


 言って、アニーは腫れた頬を差し出す。彼は眉をハの字に顰め、いそいそと道具を手元に引き寄せる。


「どうしてわざわざ手を上げるんだか。英国紳士が聞いて呆れます」


 アニーへの心配と同情。そして顔も知らぬ、彼女を殴った男に対する侮蔑を滲ませ、彼は薬を塗り処置を施していく。治療、などしたところで、彼女の頬はすぐには元に戻らない。彼女が言った通り、数日は満足な稼ぎは得られないだろう。


「アタシに言わせてみりゃ、紳士なんてモンは神サンと一緒さ。居ないも同然。絵空ごとだよ」


 アニーはもごもごと吐き捨て、鼻を鳴らす。


「――アンタの目の前に一人いるでしょーが!」


 扉の向こうから、酒やけした女性の豪快な笑い声が響き、アニーはまた鼻を鳴らした。


「バッカ!先生を紳士サマなんかと一緒にしちゃあ、バチが当たるよ!」


「それもそうねぇ!」


 およそ病院には似つかわしくない、賑々しさに彼はつられて笑う。


「はい。……気休めにしかなりませんが、終わりましたよ」


 幾らも掛からず処置は終わる。アニーは立ち上がり、胸元をまさぐる。


「ありがとうね――2シリングだったよね?」


「6ペンスです」


「――またかい?今日はちゃんと持ってきてるんだ。――ほら。払わせておくれよ」


 宿泊所だって一泊2シリングは取るのにさ。財布から取り出した、鈍く輝く貨幣を見せ、アニーは不服そうに眉を曲げる。


「今日も消毒と塗り薬だけですので、それだけいただければ十分です。――代わり、といっては何ですが、そのお金は食事や入浴に当てて下さい」


 朗らかに笑う彼に、アニーは案じるように声を潜める。


「本当に大丈夫かい?アタシらにこんなに良くしてさ。ありがたいけど、心配だよ」


 アニーの心配は寧ろ、金銭面以外の何かに向けられているようだった。しかし、彼の態度は変わらない。


「ありがとうございます。でも本当に大丈夫なんです。頂けるところからはしっかり頂いていますし」


「……そうかい?何かあったら言っておくれよ?アタシらにだって匿うくらいのことは出来るからさ」


 冗談めかした彼の口調に、ついにアニーが折れた。財布を胸元に仕舞い、彼女は踵を返す。粗末なドレスの裾が、その際にふわりと翻った。


「じゃあ、ありがとうね」


「どうぞお大事に」


 アニーは診察室を去っていった。その背に彼が掛けた言葉は、祈りを捧げるように穏やかで温かく、そして重々しかった。


「――次の方、どうぞ」


 入れ替わりに入って来たのは、やはりアニーと同じく粗末なドレスを纏った、彼女より幾らか若い女性だった。


「えと――シルヴィアさん。今日はどうされました?」


 眉根に浅く皺を寄せるその顔は、体調不良というよりも、どこか罪を犯してしまったような、「ばつの悪い顔」という印象を与える。労わるような彼の声に、数拍間を置いて後、シルヴィアは意を決したように口を開いた。


「実は、客との、子どもが、できちゃったみたいで……」


「――そう、ですか」


 やはりか。恰好と態度から、彼には何となく、予測がついていた。


「それで、あの……おろしたいんだ……」


 血を吐くように重々しく、苦々しく彼女は続ける。それについても、彼は予測していた。でなければ、わざわざ病院になど来ないだろう。


「誰の子かも分かんないし、分かったって、どうしようもないし……」


「成功して迎えに来る」「責任を取る」などと、鵜呑みにするのは、世間知らずか、余程相手に入れ込んでいるか。いずれにせよ若い娘の特権だ。この街では、そんな言葉は、男が一時の欲を満たすために、女をその気にさせる常套句に過ぎず、救いのない現実を、一時忘れるための安酒程度のものに過ぎない。


 彼は改めて、シルヴィアのカルテを確認する。そこに記されているだけでも、彼女は二度、堕胎手術を受けていた。


「子連れじゃ仕・事・なんて出来ないし、それに……しんどい思いさせるだけだし」


 彼女のような女性は、この街には文字通り吐いて捨てる程に居るし、彼もこれまでに何度も診てきた。堕胎に今更、何の罪悪感も抱かなくなってしまった者も大勢いる。その程度の良心や道徳心さえ、この街で生き抜くためには邪魔になることがある。それは彼自身、身を以て知っている。


 彼女が捨てきれずにいる罪悪感と、それを感じられるだけの良心を、彼は言動の端々に垣間見る。


「――分かりました。では先ず、妊娠しているかどうか、調べてみましょう」


 それを敢えて指摘することは、生傷を抉るに等しい行為だ。彼はただ、つとめて穏やかにシルヴィアに語り掛ける。


 その日の内に、彼とシルヴィアはは、また一つ、子どもの命を奪った。




 ここはイーストエンド。誉れ高き大英帝国に於ける、『悪徳の巣窟』と悪名名高き街。人種、文化、出身、信仰、性別、あらゆる理由で迫害された人間が追いやられ、人口は爆発的に増加。犯罪と、不衛生から疫病が蔓延する。


 女性は日銭を稼ぐために売春を余儀なくされ、子どもはその半数以上が、五歳を迎える前に命を落とす。


 ヒトの悪意が社会に産み落とした、この世の地獄。




 陽が沈んで、異臭と劇毒を孕んだ霧が、星も月も、ガス灯の光さえ霞ませてしまう夜が、街に横たわる。全ての診察を終えた彼は、粗末なモーテルへと帰宅した。


「――おかえりぃ~」


 気の抜けた明るい声が、彼の「ただいま」を待たずして、部屋の奥から足音と共に向かってくる。彼は知らず、緊張の解れる息を漏らした。


 気崩れた部屋着に薄汚れたスリッパ。褪せた茶色の髪は柔らかく波打っている。声の主は彼女だとすぐに分かる、朱の差した緩んだ頬。


「うん。ただいま、アン」


 診察室で浮かべていた、穏やかな笑みさえ霞んでしまう程の、一層柔和な笑みに端正な顔を綻ばせ、安堵の息と共に、彼はそう囁いた。


 そして二人は唇を重ねる。安酒と混ざった唾液は甘く、二人をより深い陶酔へ誘っていった。

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