とがき
尾八原ジュージ
とがき
戸垣は死んでも幽霊にならなかったらしい。
おれが九歳のとき、両親が死んだ。それで父方の祖父がおれの保護者ということになったが、多忙な祖父はおれの家をほとんど訪ねず、せいぜい必要な書類に署名やハンコをもらうくらいの間柄だった。ひとつ屋根の下にいたのは、おれが幼稚園児の頃からうちで働いていた使用人の戸垣だけだった。
それからほぼ十年間、おれは戸垣とふたりで暮らした。とはいえ戸垣は自分のことをあまり喋らない男だったので、それだけ一緒にいたわりに、おれは戸垣のことをよく知らない。
戸垣は背が高くて痩せていて、結構顔のいい男だった。おれが子供の頃からほとんど見た目が変わらず、ずっと年齢不詳のままだった。黒くて真っ直ぐな髪を伸ばしてひとつに括るのがよく似合った。元はと言えばおれが伸ばせと言ったのだ。ほんの気まぐれ、たぶん何かの漫画の影響だったけれど戸垣はちゃんと伸ばしてくれて、死ぬまで切らなかった。
十歳のとき、おれは突然思い立って椅子を振り回し、学校中のガラスを割って回った。教師に取り押さえられたあと、職員室の片隅で祖父が来るのだろうかと震えて待っていたが、結局祖父は来なくて戸垣がきた。戸垣はおれの親でも祖父でも兄でもないのに、教師にめちゃくちゃ謝っていた。それからおれにも謝れと言った。
その帰り道、戸垣は歩きながら「坊っちゃん、寂しかったんでしょ」と図星のど真ん中を突いてきた。おれは恥ずかしくなって、うるせぇと怒鳴り返した。戸垣は少し笑った。そして、「危ないからもう二度としないでください」と言った。
おれが黙っていると、戸垣は突然「今夜カレーでいいですか」と尋ねてきた。戸垣のカレーは市販のルーをブレンドしただけのやつだが、それがすごい黄金比でめちゃくちゃ旨い。その時の戸垣の顔が悲しそうに見えたので、おれは二度と学校のガラスを叩き割ったりしなかった。
戸垣はおれの言うことをなんでもは聞かない。たとえば宗太郎って名前で呼べよと言っても、戸垣は頑なにおれを坊っちゃんと呼んだ。敬語やめろよと言っても絶対に止めなかった。「旦那さまと奥さまに申し訳が立ちません」といって頑なにおれの使用人であり、それ以外のものにはなろうとしなかった。そういう変に頑ななところと、変わらない見た目とが相まって、戸垣はたまに人間離れして見えた。戸垣ってほんとに戸籍とかあるよな、おれ以外の人間に見えてないとかないよな、と疑ったこともあったが勿論そんなことはなく、戸垣はちゃんと人間で戸籍もあり、うちの住み込みの使用人で祖父から給料をもらっていた。一年中ほとんどずっと家にいるから天涯孤独なのかと思っていたが、実は故郷に両親も兄弟もいた。おれは戸垣が死ぬまで、そんなこと何も知らなかった。
戸垣はおれが高二の頃、ぽろりと出身大学だけ漏らしたことがある。お前めちゃ頭よかったんじゃないの? そう思うレベルの大学だった。「いや、そうでもないです」「そうでもないで○○大入れたら苦労しないよ。なんでうちでずっと使用人やってんの?」軽口のつもりで言った言葉が、耳に入った途端に自分の心に刺さったのでおれはバカだった。戸垣、なんでうちの使用人なんかやってるんだろう。戸垣は優秀で、やれば何でもできるのだ。明日にもうちを辞めて、もっとやり甲斐があって出世とかもできて給料もいい会社とかに就職してしまう可能性がないわけじゃない。おれとずっと一緒にいてくれるわけじゃない。だって血縁なんかない、雇われてるだけの人間だから。
「坊っちゃん」戸垣はおれの顔色をよく読んだ。このときもきっちり読んだ。「大人になればわかるでしょうが、なかなかこんな条件のいい仕事ってないですよ。坊っちゃんが辞めろと仰っても辞めません」
その何年か前、おれは反抗期に両足を突っ込んでいて、戸垣に向かって出てけとかクビにするぞとか言ったことがあった。戸垣はいつも涼しい顔をして、「私の雇い主はお祖父様ですから、坊っちゃんに辞めろといわれても辞められません」と応えた。反抗期を脱出して以降、おれは戸垣に辞めろなんて言ったことは一度もなかったし、今後も言うつもりはなかった。
なのに戸垣は辞めた。
「坊っちゃん、お暇を頂戴することになりました」
と、ある日突然、やけに古風な言葉でそう告げられた。
なんで? まず初めにそう思った。それから祖父に対する怒りが込み上げてきた。どうして祖父は戸垣をクビにしたんだ? でも戸垣はその気持ちもきっちり読んで、「私からお祖父様に、辞めたいと申し上げました」ときっぱり言った。おれは引き止めた。でも戸垣は何度も謝りながら、少ない荷物をまとめて出ていった。
こんな別れ方しかできないのはあんまりだと思って、おれは祖父の家に向かった。そこで戸垣が病気を患っていたと知った。もうこの時点でずいぶん進行していて、仕事をするのも、おれの前で元気なふりをするのも難しくなっていたらしい。
「戸垣なぁ、弱った所をお前に見せたくないんだと」
祖父は言った。あいつ、猫かよ。どうしてそんなドライなんだよと思ったけど、戸垣には戸垣の考えがあるのだった。あいつは最後までおれの使用人で、使用人は仕事ができなくなったらいなくなるんだというのが彼のポリシーだったのだ。そんなのはやっぱりあんまりだと思ったけれど、でも、戸垣はそう決めていたのだ。
おれはもう十九歳だった。大学一年生で、広い家にひとりで暮らしててもまぁまぁ平気だったので、祖父が「新しい使用人を雇う」というのを断った。おれたちの家に、知らない誰かに入ってほしくなかった。
いざひとり暮らしを始めてみると、掃除は全然行き届かないし料理は旨くないし洗濯物はシワだらけになって、これ全部きっちりやった上に祖父から頼まれた事務仕事なんかもこなしていた戸垣は、やっぱり凄いやつだったんだと改めて知った。すげぇなと思ったことを伝える手段すら、おれにはなかった。
戸垣はうちを辞めて半年ほどで死んだらしい。そこでようやく実家のある街なんかを教えてもらって、おれは葬儀に参列した。葬儀会場で、現実味のない光景にぼんやりしていたおれに、「宗太郎さんって貴方ですか」と話しかけてきた女性がいた。戸垣の母親だった。整った顔立ちと真っ直ぐな髪が戸垣によく似ていた。
「あなたのこと、よく話してました。昔もらった手紙も大事にしてて」
手紙なんて覚えがなかったが、おれが七歳のときに書いたもので、正真正銘おれの直筆だという。あなたがお棺に入れてあげてくださいと渡された画用紙には、一応人間と判別可能なものが描かれており、横に下手くそな平仮名で「とがき」とあった。ただの使用人だっていうならこんなもん大事にとっとくなよと呆れつつ、おれはまんまと泣かされてしまった。こんなもの大事にしてくれるんだったら、手紙なんかいくらでも書いたのに。
棺の中の戸垣は骨に皮だけ張ったみたいに窶れていて、でもちゃんと戸垣で、髪も長いままだった。拙いおれの手紙を持って、そのまま焼かれて骨になった。それで終わりだった。
葬儀から帰って喪服を脱ぎながら、もしかして戸垣、幽霊になってねえかなと思った。無人の家で名前を呼んだりしたけど、出てくるような気配すらなかった。
でも、もしかしたら戸垣の幽霊はすぐそこにいて、霊感がなさすぎるおれが気づいていないだけなのかもしれない。「坊っちゃん後ろ後ろ」とか言って笑っているのかもしれない。そんなことを想像したら悔しかった。だったらちゃんと出てこいや戸垣、優秀なんだからそれくらいやれ。天井の隅に向かって詰ったけど、やっぱり見えないし声も聞こえないままだった。だからきっと、戸垣はもうどこにもいないんだろう。
おれは戸垣を探すのをやめ、だだっ広いキッチンでカレーを作って食べた。市販のルーを決まった比率でブレンドしたカレーだけは、ちゃんと戸垣の味がする。
とがき 尾八原ジュージ @zi-yon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます