第31話
「えっ、なに。ちょっと待って、わかったからそんな引っ張んないでよ」
凌乃の部屋に着いた途端、手を引かれクッションに無理やり座らされた。さっきまでご機嫌でにこにこしていたはずの凌乃は、部屋に着くなり眉間に皺を寄せて、なにかに堪えるような厳しい表情をしている。
クッションに私を座らせた凌乃は、そのまま私の膝の上に座ってくる。しっかりと身体を寄せたかと思えば、私の制服を強く掴む手は震えていた。
「そんな限界だったなら、寄り道なんてしなければ良かったのに」
ため息混じりに背中を撫でようと凌乃にふれれば、ビクリと身体を震わせ余計に強ばらせる。
なに? いつも膝に乗ってくる感じと、なんだか様子が違う⋯⋯?
「凌乃?」
「⋯⋯」
呼びかけても返事はなく、少し身体をずらして顔を覗きこんでみても目が合わない。それどころか、その顔は真っ青で、虚ろな目には私を映していないようだった。
明らかに様子が違うで済むレベルじゃない。
そういうことか⋯⋯。やっぱりそれだけじゃ済まないんじゃない。
「凌乃、凌乃」
「大丈夫よ。戻っておいで」
「もう怖いことは起きないから」
「ちゃんと凌乃の傍にいるからね」
私は過剰な反応を見せた凌乃の身体にはふれず、できる限りゆっくりと優しく話しかけ続ける。どれくらい時間が経ったのか、しばらくそうしていれば凌乃が膝の上で身動ぎをした。
「凌乃? 私のことわかる?」
「⋯⋯春歌」
「身体にふれても平気?」
「うん⋯⋯、大丈夫だと思う」
「良かった。今からふれるから、嫌だったらすぐに言って」
私は許可を得て凌乃の身体を抱きしめる。 その細い身体は少しだけ震えていたが、あやすように撫でてやれば強ばった身体から徐々に力が抜けていく。
「大丈夫そう? どこか苦しかったりしない?」
「しない。ごめん、こういうの春歌に見せたくなかったのに」
「どうして?」
「だって、嫌われたくないから⋯⋯」
「こんなことで嫌うわけないでしょ? 相変わらず凌乃はバカね」
「バカじゃないもん⋯⋯」
凌乃はいわゆるフラッシュバックを起こしていたんだと思う。トリガーは⋯⋯。
「っていうか、寄り道して部屋に帰るまでよく我慢できたわね。どういう精神力してるのよ」
「苦しくて、春歌にふれたくて、膝に乗ったらおかしくなっちゃた。安心して緩んだのかも」
「原因は教室でのこと? 話すの苦しかったら言わなくていいからね」
「大丈夫。話す約束したし」
「そう。無理しないでいいから」
震えは止まったものの、顔色はあまりよくはない。頬を撫でてやれば、自分から私の手に甘えるように擦り寄ってきた。
「ねぇ、凌乃。あの記憶力、なに?」
「あー⋯⋯、もちろん全部を覚えてるわけじゃないんだけどね? なんていうか、映像的なの? そういうのは忘れてくれないみたいでさ」
「それって、いつの記憶まであるの?」
「そうだよねー、そうなっちゃうよね。だから春歌に知られたくなかったんだけどなぁ」
「隠してたの? どうしてよ」
「心配するかなって」
「するに決まってるじゃない」
「うん、だから。もうバレちゃったから言っちゃうと、父親から言われた言葉も受けた暴力も、全部覚えてるよ」
「それは⋯⋯」
今も虐待が続いてるのと、同じことなんじゃないの⋯⋯?
「そんな顔しないでよ。春歌に辛い思いしてほしいわけじゃないんだから」
「うん、ごめん⋯⋯」
「なんて表現すればいいかな。さっきみたいに無差別に記憶を辿ると混じってきちゃう感じ? 普段は平気なんだけどね」
「それがわかってて、なんであんなことしたのよ」
「だって、あいつらカラオケ行ったとき春歌の悪口めちゃくちゃ言ってたんだもん」
「はぁ? そんなことくらいで?」
だからあの日、歩道橋でやたらと機嫌悪そうだったのね⋯⋯。私の噂話もそうだけど、本当に余計なことしてくれたわね。
「そんなことじゃない。それでね? あのまま春歌とわたしが仲良いの知られたら、あいつら本性見せないと思って大人しくしてたんだけど、春歌の悪口めっちゃ言うんだよ? 黙って聞いてるのストレスだったー」
そう言いながら、眉間に皺を寄せてうんざりした顔をする。
「そんな嫌だったなら、わざわざやらなきゃ良かったのに⋯⋯」
「春歌が傷つくかもしれないのに、あんな奴ら野放しにできないじゃん」
「相手してないから大丈夫よ。それで凌乃自身が苦しい思いしてたらしょうがないじゃない」
あんな虚ろで真っ青な顔、二度と見たくない。
「⋯⋯? 春歌より優先するものなんてないよ?」
「はぁ⋯⋯、だったらもう少し自分のことも大切にしてよ。私だって凌乃が傷つくの嫌なんだけど」
「どうせ傷だらけなのに?」
「傷だらけだからって、新しく傷ついて痛くないわけじゃないでしょ」
凌乃は私の言葉に、よくわからない顔をして首を傾げている。
こういうところよね。今はわからなくても、わかるまでじっくり言って聞かせていくしかないか。
「凌乃、ごめん。知らなかったとはいえ、この痛みも残っちゃうね」
私は凌乃の肩にある痕を撫でながら、自分がしたことを後悔していた。
「んー、これは残らないから大丈夫」
「どういうこと?」
「なんていうか、映像的な記憶は鮮明に残るんだけど、感覚は覚えてないんだよね。痛いとか熱いとかそういうの。もちろん、その時の映像が鮮明すぎて怖い感情はあるんだけど、それもその時に感じてる感情じゃなくて、たぶん今のわたしが感じてる恐怖っていうか。言葉にすると難しいな」
「⋯⋯なんとなくだけど、わかったわ」
痛みの記憶が残らないだけでも良かった。それも残るなら、きっとこの世界は凌乃にとって現実的な地獄でしかないはずだから。
「だから気持ちいいのとかちょっと痛いのとか、忘れる前にまた、して?」
凌乃がいたずらっぽい表情で見つめてくる。
私は昨日の自分を思い返し、あまりに感情的に動きすぎたと舌打ちする。
「⋯⋯考えておくわ」
「えー、なんで。いいじゃん」
「うるさい。あんまり騒ぐと膝からおろすわよ」
「やだ。絶対おりない」
「⋯⋯ごめん、制服が皺になるから一旦おりてほしいんだけど」
ブツブツ文句を言う凌乃を膝からおろして、部屋着に着替える。ハンガーに掛けた制服は、ちょっとだけスカートのプリーツに皺が寄っていて、思わず顔をしかめてしまう。
「春歌、早くこっち来て」
凌乃がベッドの上で待ちきれず、せかすように私を呼ぶ。その声は少しだけ焦ったような声で、こっちまで不安になりそうになる。
「はいはい、おまたせしま――!?」
ベッドに乗るやいなや、凌乃がここぞとばかりに抱きついてくる。不意打ちを食らって凌乃を支え切れるわけもなく、ふたりでベッドに倒れ込んだ。
「しーのー。前にも言ったけど、危ないから急に抱きついて来ないでよ」
「だって、春歌遅いんだもん」
「凌乃が着替えるの早すぎるんじゃない? ちゃんと制服ハンガーに掛けたの?」
「掛けたー。ねぇ、春歌予備校は?」
「今日はもう行かないわよ。着替えちゃったし」
このまま凌乃を置いていけるわけないでしょ。
「やった、じゃあいっぱい時間あるね」
「まだ⋯⋯3時過ぎか」
「ねぇねぇ。気持ちいいこと、しちゃう?」
凌乃の甘い声が耳たぶをくすぐる。
「はぁ? しないわよ」
「また言い切るしー」
「バカなことばっかり言ってないで少し寝たら? 凌乃、さっきから眠そうよ?」
「うん、ちょっと疲れたから。眠いかも」
眠そうなのに、凌乃は一向に寝ようとしない。
眠れるときに寝たらいいのに。
「眠いんでしょ? なんで我慢してるの?」
「起きたら春歌いなくなってそうで怖いから」
「また、わけわかんないことを言う」
「だってぇ⋯⋯」
「いなくなるわけないでしょ?」
「本当に?」
「約束するわ」
「うん⋯⋯。春歌、おやすみのキスして」
「はいはい」
眠そうな凌乃に軽いキスをしてやると、ふにゃふにゃの緩みきった笑顔で擦り寄ってくる。
「起きたら、おはようのキスしてあげる」
「うん、約束。ちゃんといてね⋯⋯」
「約束。おやすみ、凌乃」
うとうとし始めた凌乃を撫でながら、眠りにつくまでその顔を見つめる。
――離れるわけないのに。
改めて凌乃が抱える傷と向き合う難しさを痛感しながら、私は凌乃が目を覚ますまで、その身体を抱きしめ続けることしかできなかった。
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