初恋は花筏に沈む

荒野羊仔

初恋は花筏に沈む

 桜の花は嫌いだ。美しい思い出が散っていくのを思い出すから。

 季節が巡る度、初恋は叶わないのだと思い知る。

 あの日美桜みさくらに告げられた別れを、私はまだ受け入れられずにいる。



 元カノである美桜のSNSを巡回して十年経つ。SNS巡回は無意識のうちにほぼ呼吸と同じ頻度で行っている。必然的に美桜の生活をリアルタイムで覗いているようなものだ。

 美桜の書き込みのパターンは決まっている。スイーツの写真、自撮り、残業自慢、「出世したい」「仕事辞めたい」「転職したい」「涙出てきた」以下ループ。今日は最後の二つの組み合わせだ。

「やっと帰宅。家着いた瞬間涙出てきた。まだ家に帰るまでもってるから大丈夫。外でも涙が出るようになったら転職しよう」

 美桜が私と別れた後、系列の共学校に行ったことは知っていた。系列校は私が内部進学した女子大の隣にある。時々近くの通学路で見かけることはあったが、言葉を交わすことはなかった。

 それ以降の美桜の動向はSNSを通じて一方的に把握していた。美桜が大学でも陸上部に入り良い成績を残し続けたこと。そこで初めての彼氏ができたこと。クリスマスのデート、プレゼント、彼女の華々しい活躍、経歴、その全て。

 だけどここ数年、美桜のSNSは荒れに荒れていた。彼女の就職をきっかけにして。

 美桜は就職先でパワハラに遭い、初めての挫折を味わっている。正当な評価を受けて採用された彼女が顔採用されたのだと断じられ、同性による妬み嫉みに晒され心を病んでいる。

 女子校で王子様扱いされ、女性が少数派の運動部でチヤホヤされてきた彼女が晒される初めての悪意。勤勉な彼女が出世に必要なありとあらゆる資格を取って社内最年少で昇給を叶えてからも、劣悪な労働環境が変わることはなかった。

 美桜の何回目かの「涙が出てきた」という言葉に対して何回目かの「辞めなよ」という言葉を放つ。

「本当に辞めた方がいいよ。動けなくなってからだと回復に時間が掛かるから、元気なうちに転職活動した方がいい。見てて心配」

 そのコメントに反応が返ってくることはなかった。いつものように。

 初めは美桜にコメントをしようとなんて思っていなかった。彼女がそれを求めていないことは明らかだったから。

 それでもコメントせずにはいられなかった。女子校時代において完璧だった美桜。誰よりも輝いていた彼女が無惨に散って踏み躙られるのを見たくなかった。見たくなければ見なければいいだけなのに、見ずにいられないのは何故なのか。

 美桜は今年、会員制のマッチングアプリで出会った、家柄に釣り合いの取れた男と結婚した。美桜は結婚したのに会社を退職しなかった。美桜の夢は、寿退社して専業主婦になることだったのに。

 美桜が投稿したピンクのフラッペチーノの写真。映り込んだ左手の薬指に、指輪が光っていた。



 美桜と出会ったのは春。桜の季節だった。

「転入生を紹介します。篝灯花かがりともかさんです」

「篝と言います。よろしくお願いします」

 初めに気になったのは、余所者を見る視線。転入先の中高一貫の女子校は九割が内部進学で、外部から進学してくるのは毎年ほんの数人しかいなかった。特に、特待生なんて立場で入学してくる庶民が物珍しかったのだと思う。

 俯きながら自分の席へ向かおうとすると、不意に白い棒が私の進行方向を堰き止めた。よくよく見るとそれは人の足だった。程よく引き締まった足が私の前に投げ出されていた。

「ねぇ、私は藤浪ふじなみ美桜。貴女の名前は?」

 転入してきた私に一番最初に話し掛けてきたのが美桜だった。その顔は中性的で、限りなく黄金比に近かった。片肘をついたまま首を傾いで、全てがどうでもいい、そんな態度をしているのに目だけが強い意志を持っていた。

「さっき自己紹介したけど」

 聞き耳を立てていた女子生徒たちの間でどよめきが起こる。それだけで彼女のスクールカーストがいかに高いかが伺えた。だけど美桜は気にする様子はなく、笑みを浮かべた。

「直接聞きたいじゃん。教えてよ」

「かがりともか。篝火に灯す花」

「灯花ね。私は美しい桜でみさくら。みおでいいのにね」

 口元に手を当ててクスクスと笑う美桜の仕草が上品で、先程までの少年のようないたずらな態度とは正反対で。まるで自分とは全く別の生き物のように思えた。


「灯花、校内案内したげよっか」

 放課後美桜にそう話しかけられた時、勝ったと思った。人生とか人間関係とか、スクールカーストとかそういったものに。

「美桜様、私たちも一緒に」

「ダーメ。大勢だと緊張しちゃうでしょ? それとも私の案内じゃ不安かな?」

「そんなことは」

「じゃあ任せてよ。ちゃんと案内してくるからさ」

 今にして思えば、この時に断っておけばよかったのにとも思う。高校時代を思い返す時、全ての記憶が美桜と結び付く。教室はもちろん、校内案内の時に一度しか入らなかった教室や屋上の前の閉鎖された空間さえ。記憶の片隅には常に美桜の気配が漂っている。

「ねぇ、公立ってどんな感じ?」

 一通り案内が終わって座り込んだ階段で、美桜がそう切り出した。

「私幼稚園からここの系列校にいるから分からないんだよね。男子が居るってどんな感じ?」

 美桜は私ではなく、外の世界に興味があるのだ。思い上がっていた自分に気付き血が昇ってきた。

「別に。普通」

「その普通が分からないんだよ。まぁでもそっか、初日だからまだ分からないよね、どう違うのか」

 美桜は立ち上がりスカートを叩くと、私に手を差し伸べた。

「教室に戻ろう」

「うん」

 美桜の手を取る。この手を取りたい女子が、それを叶えられた女子が一体何人居るだろう。でもどれだけ居たとしても、初日に叶えられたのは私しかいないはずだ。

「また明日ね、灯花」

「また明日、えっと……美桜様?」

「やめてよ、様付けなんて文化、外にはないでしょ? 灯花だけは美桜って呼んで」

「じゃあね、美桜」

 灯花だけは。私にだけ許された特権。外から来た粗野な転入生を演じることが、それを維持するための必要条件だった。



「遅くなってすみません、返信しました」

 就職してから美桜のSNSの更新頻度は格段に下がった。今では忙しくなると数週間、数ヶ月間SNSの返信を滞らせる。最近はSNSを開いても美桜の投稿が目に入ることも少なくなった。だから美桜から他の人への返信が目に入ったのは、単純な操作ミスだった。

「涙が止まらなくなったり心が言うことを聞かない場合は限界のサインだと思うので、早めに専門医の受診をオススメします。フラッシュバックが来たりしますし、早めに解決した方が回復が早いですよ」

 そこにあったのは私がこれまでに美桜に掛けてきた言葉の流用だった。きっと美桜は私のアカウントをミュートにして、私の存在なんかすっかり忘れ去っているんだと思っていた。だけどそうではなく、彼女が敢えて無視してきたのだと気付いてしまった。私の言うことは無視する癖に、他人には同じことを言うのか。そう思った瞬間、気持ちがスッと冷めていくのを感じた。私は彼女のアカウントをミュートした。

 私はそう、ガッカリしたのだ。いつだって天上天下唯我独尊だった美桜。私が何を言おうと自分の意志を貫いていてほしかった。私は彼女に勝手に期待して、勝手に失望したのだ。それはかつて、私たちの周囲にいた女子たちと同じだった。そして未だにそんな感情を抱いていた私自身にも、失望したのだ。

 それからの生活は空虚であること以外、ほとんど快適だった。彼女のいないSNSはほとんどコンテンツ力を失い、いつフォローしたかも分からない他人たちの日常が流れていった。私の感情も流れ流れていけばよかった。だけど書き込まない感情は流れていかず、私の内側にずっと渦巻き続けていた。



「おはよう、灯花」

「おはよう、美桜」

 翌朝シューロッカーの前で学生鞄とトートバッグを肩に掛けた美桜と偶然出会った。今にして思うと偶然だったのかも怪しい。美桜は私にいち早く現状を知らせたかったはずなのだから。

 美桜がシューロッカーを開けると、中からバサバサと音を立てて手紙が落ちてきた。

「おっと、今日は大量だな」

 美桜はそれらを拾うと、肩に掛けていた空のトートバッグに入れた。

「今のって、全部ラブレター?」

「大抵はね。中には過激なのもあるけど」

 私は数日して、それが日常茶飯事であることを知る。毎日のように匿名の恋文がシューロッカーや机に入っていたし、私物がなくなることもあった。

 美桜がモテるのは当然のことではあった。短く切り揃えられた髪、中性的な顔、気怠げな色気、蠱惑的な表情。陸上部で鍛えられた筋肉質な肢体。スラリと伸びた長い足。

 美桜には恋人という立場の盾が必要だった。強くて固くて、どんな鉾でも貫けない盾が。少なくとも見せかけだけはそう見える盾が。幸運にもそれに選ばれたのが、私だった。

「灯花、陸上部に入らない? マネでもいいよ」

「運動苦手だから運動部はちょっと」

「ふぅん、部活はしないの?」

「特待生で入ってるから、勉強しないと」

「勉強するなら図書室がオススメだよ、グラウンドが見えるから。見ててよ。一緒に帰ろう」

 その言葉が私の三年間の生活を決定づけた。図書室から美桜を見つめ、部活が終わったら一緒に帰る生活が始まった。


 ほどなくして、私のロッカーにも手紙が入るようになった。美桜が言うところの「過激なの」だった。美桜に近づくな、身の程を知れ、そういった内容の。

 私はその手紙を教室の黒板に貼り付けた。教室はざわつき、始業時間が近づくにつれてざわめきが大きくなっていった。きっと付き合いの長い彼女たちは、それが誰が書いたものか分かっているに違いない。だけど誰一人として手を出そうとはしなかった。

 予鈴が鳴る直前に、まだ名前も知らない一人の女子が前に出た。彼女は手紙を握り潰すと、涙を溜め顔を赤くして私を睨みつけた。腰を浮かせた私を美桜が制した。

 美桜は彼女を見た。上から下まで、品定めするように。恐ろしく冷たい視線だった。私にその視線が向けられることがないよう祈るくらいには。

 名も知らない彼女は傷付いたという顔をしていて。居た堪れなくなったのか教室の外へ駆け出した。

 その日彼女は早退して、二度と会うことはなかった。保健室登校になり、ほどなくして転校したと、風の噂に聞いた。

「灯花、ごめんね。私のせいで」

「別に。なんてことないよ」

 傷付いていない訳じゃなかった。ただ強さを証明する必要があった。私は美桜の側に居られるだけの強さがあるのだと、見せつける必要があった。弱いと同じ教室にすら居られない。教室を去った彼女のように。

 私には彼女の気持ちが手に取るように分かった。彼女は担任やクラスメイト全員に知られることより、美桜に白々しい目を向けられることが耐え難かったのだ。

 たった一人に見捨てられたら生きていけない。その気持ちが、手に取るように。



 美桜から連絡があったのは、ミュートにしてからしばらく経ってからのことだった。

「久しぶり。元気?」

 それは十年振りの個人的な連絡だった。ミュートしたことに気づかれたのか、偶然なのか。一体何を考えているのだろう。

「元気だよ、そっちはどう?」

「今度会おうよ、久々に」

 噛み合ってるんだか噛み合ってないんだか微妙な会話の応酬を繰り返しているうちに、いつの間にか会う日程が設定された。

 あの時は勢いでミュートしたけれど、完全に連絡を絶ちたい訳でもなかったのだと思う。だからブロックではなくミュートという手段を選んだのだ。無意識のうちに。あまりに未練がましくて、思わずから笑いしてしまった。

 来週、私は美桜と会う。今の私は美桜に会った時、どう感じるのだろう。

 桜を見上げるときに抱く、初恋は叶わないと思う感傷は果たして郷愁なのか。それとも、私はまだ美桜に想いを残しているのだろうか。



 七月三日。夏の日の午後だった。建物の外からは蝉の声がしていて、プールのあとで、汗と制汗剤と、塩素の香りがしていた。

 瞼に自分とは違う髪質の感触がしたことをよく覚えている。ゆっくりと目を開けると、美桜の整った顔が間近にあった。頬に触れた、細くて冷たい指が私と美桜との境目を際立たせ、全く別の人間だと思った。

「……ファーストキスなんだけど」

「女の子同士だからノーカンだよ」

 そんなこと気にするんだ、と口元に手を当てて美桜はクスクス笑う。

 美桜がこれまで数えてこなかったキスは、一体どれだけあったのだろう。私はそれを聞く勇気が持てなかった。

「で、灯花。付き合ってよ」

 美桜はいつだって自分勝手だ。絶対に断られないと思っている。何をしても許されると思っている。

 私の返事がないのを見て、美桜は言葉を繋げる。

「分かるでしょ、もううんざりなんだよ。あの人が恋人なら仕方ないって思われるような相手をずっと求めてたんだよ」

 美桜は取り巻きの彼女たちではいけない理由を作るために異質な人間を選ぼうとしている。その消極的恋愛に、私を巻き込もうと言う。

「……花篝って夜桜を照らすための灯火のことを言うんだよね」

 望む回答が得られず、美桜は首を傾げる。視線が少しだけ泳いだ。

「それはつまり、私に相応しいってこと?」

「引き立て役になってあげるってこと」

 美桜は自分が価値のある存在であることに疑いを持っていない。自分が美しいことを当然のこととして受け止めている。だからこんな言葉を発することができる。

「利用されてあげるよ。あんたの盾になってあげる」

 私の精一杯の強がりだった。貴女に対して好意を持っていない、そういう態度をとらないと美桜の側には居られないと思った。やっぱりなかったことに、と言われるのが怖かった。

 もしもあの時正しく私の想いを伝えていたら。結末は今とは違っただろうか。


 終業式の日は部活がなく、美桜の気まぐれで繁華街に行った。私はハンドメイドの雑貨屋さんの前で美桜を引き留めた。

「お揃いの何かを身につけようよ。その方が女避けにはいいでしょ」

「うーんまぁ確かに? じゃあ灯花が選んで」

 美桜は興味がないのを隠そうともせずに、手前に並んだアクセサリーコーナーを素通りして店の奥へと進んでいく。

 早く選ばないと、美桜の気が変わらないうちに。私は目に付いたアクセサリーを手に取った。

 それは細いチェーンに小さな石が付いたブレスレットだった。手に取ったのは、桜色と橙色があったから。

「色違いは? 私が桜色を身につけて、美桜が橙を身に付けるの。灯の色」

「ふぅん、いいんじゃない」

 美桜は細い指先で二つのブレスレットを摘み上げ、照明に翳した。桜色と橙色の石は光を反射して、まるで暁のように周囲を照らした。

「まとめて出しとくよ」

「待って、片方は私が出す。お互いへのプレゼントにするっていうのが大事なの」

「ふぅん、そういうものか」

 美桜はそう言うと、橙色のブレスレットを私に手渡し、レジへ向かっていった。


 帰りにコンビニでアイスを買った。ビニール袋をぶら下げる手首には買ったばかりのブレスレットが鮮やかに揺れている。その腕を辿ると夏服の白に空の色が透けていた。

「灯花は兄弟姉妹いる?」

「弟が一人いるよ。美桜は?」

「私? 私は一人っ子。いいなぁ、弟」

 美桜はため息混じりに言った。

「周りが女子だけじゃないってどんな気分かな。ほら、女って面倒じゃん」

「……男は男で面倒だよ。うるさいし、汚いし幼稚だし」

「そうかもしれないけどさ。世界には男と女がいるわけじゃん? 私はまだ世界の半分しか知らないんじゃないか、って思うんだよね」

 美桜は川の向こうよりもずっと遠いどこかを見つめていた。

「大学は共学に行こうと思ってるんだよね、系列校の。いつか結婚して家庭に入りたいんだ。これから恋したりする訳でしょ。世界が広がる、そうであってほしい」

 これから。美桜にとって今のこれは、恋ではない。狭い世界を生き抜くための手段でしかない。

 美桜の小さな頭が肩に乗る。美桜は指に垂れたアイスを舌で掬って、そのまま私の手に重ねた。ブレスレット同士が当たり、微かに金属音が鳴った。汗とアイスでベタついた手の不快感さえ、名残惜しかった。

 いつか、そう遠くはない未来、この手は離れる。

 晴天に浮かぶ入道雲は途方もなく白くて、決して空と交わらない。



 あの日のブレスレットは、今もまだ私の腕に揺れている。毎朝付けるのがこの十年変わらないルーティン。緊張した時、不安になった時、ブレスレットのチェーンに指を掛け石を数えると、心が落ち着く。御守りのようなものだ。今も指はチェーンに掛かっている。

 十年振りに美桜に会う。再会は私に何をもたらすのだろう。心が落ち着かない。

「久しぶり灯花、待った?」

 美桜は待ち合わせ時間の五分前に現れた。私は初め、その人影が美桜だとは気付かなかった。到底美桜が着そうにない量産型のキャミワンピースで、肩口で切り揃えられていた髪は緩やかに巻かれていたからだ。

「ううん、全然。変わったね、美桜」

「そう? 私は新作頼むけど、同じのでいい?」

 私が肯くのを目の端に留めながら、美桜はあの頃と変わらず人込みを泳ぐようにすり抜けていく。

 美桜はいつもそうだ。私を待つことなく何事も進めていく。まるで十年前の続きみたいに。

「お待たせ」

 そう言って美桜はオレンジ色のフラッペチーノを差し出した。

「灯花は卒業した後、どうしてた?」

 大雑把な質問からここ十年の近況報告が始まり、とりとめもない会話が続いてどんどん核心に近づいてく。

「灯花は事務だっけ?」

「うん、そう。美桜は確か営業だったよね?」

「うん、そうだね」

 美桜は指輪に視線を落とす。気まずい時の仕草。だから私はこれまで言いたくて言えなかった一言を告げた。

「どうせ辞めてないんでしょ」

 溜息と同じくらいの温度感で吐き出す。

「……辞めたよ」

「え?」

 耳を疑った。私があんなに言っても辞めなかったくせに。

「子供が出来たの」

 美桜は絶望を告げた。



 二年が経つ頃には、女子校の生活に完全に慣れきっていた。初年度の一件を除けば概ね学生生活は穏やかだった。

 入学前に抱いていた女同士の諍いが絶えないというイメージが、偏見に過ぎなかったと知る。

「篝さん、今日ゴミ捨てだけど行けそう?」

「ごめん今日生理つらいからちょっと休ませて。やるから」

「え、ならやるよ。生理中なんて生きてるだけで辛いんだから言って」

 そう言ってクラスメイトが交代してくれた。

 校内は小さな世界だった。生理痛の辛さが周知されているから、我慢をする必要がなかった。誰かが辛い時は誰かを助ける。自分が辛い時は誰かが助けてくれる。お互い様だから。

 男子がいないから力仕事も自分たちで分担してやるし、共学よりも理系が多かった。一人の人間として選択できた。即ち、自主性を持てた。素でいられた。生きやすかった。圧倒的に。

 家に帰ったり親戚や地元の友達と会う時、女の型に嵌められるのが苦しかった。

 個のまま生きるのに、ここ以上に適した場所はない。いつか社会に放り出されるのが恐ろしい。


 私が公立の中学校から私立の女子高に編入したのは、男性不信になったからだった。

 クラスのお調子者の男子が女子をランク付けし、それに倣った扱いをする遊び。遊びだと奴らは言い切った。最上位の女子を姫と呼び、最下位の女子をぞんざいに扱う。そこに存在しなかったカーストを生み出し、女子同士の対立を煽った。

 陰湿ないじめに発展する前に明るみに出たのは幸か不幸か。

 当事者が呼び出され、事の発端となった男子が呼び出され、聞き取りが行われた結果、何故か全く関係がないはずの私が呼び出される。

 そして免罪符のように言うのだ。

「お前のことが好きだったから」

 他者を貶めて褒めようとしたのだと。皆で持ち上げれば自然に好意を口にできるからと。

 それは死刑宣告にも等しかった。お前のせいだと言われたようなものだった。

 後に心理学の本を読んでいた時に知ったが、好きな人に意地悪をする心理を反動形成というそうだ。自分の感情を否定されたくない、プライドを傷付けられたくないという予防線。

 ……どうして、それが罷り通ると思っているのだろう。私は絶対に、好きな人を傷付けたりしない。好きな人のために他者を傷付けたりしない。

 女同士の争いは醜いという偏見を押し付けるのは、仮想敵を作らないと自分たちが必要とされないことを無意識のうちに理解しているからではないのか。男なんていなくても生きていける。種の存続なんてものを考えなければ。

 何故自分だけが選ぶ立場だと思っているのだろう。鮮やかに咲き誇る花の種類も関係なしに、花園の花を摘み取ることしか考えていない。

 結局私は二年生の後半から不登校になり、塾とホームスクーリングで私立受験をした。知り合いが誰もいない学校に行きたかった。精神面でも金銭面でも、親に迷惑を掛けた。幼稚な行為の結果が、好きな人を傷付けることなら、恋なんて滅んでしまえばいいと思った。

 美桜、外の世界は貴女が考えているよりずっと、きたない。美桜が望むような綺麗な恋愛は、空想の中にしか存在しない。ここにも。どこにも。


 美桜から別れを切り出されたのは卒業式の日だった。

 いつもと同じ帰り道。彼女と語り合った思い出の桜の木の下は誰かに陣取られていて、仕方なく橋の上から桜を眺めた。もう、新しい季節が巡ってくる。

「友達に戻ろう」

 卒業証書の筒を持った美桜に呼び出された時から、理解していた。

 美桜にとって私の存在は用済みになったのだと。友達だった期間なんて、一度もないのに。

「もうこういうの、やめよう。子供じゃないんだしさ」

 分かっていた。学園中から男として見られていた美桜は防波堤が必要だっただけ。

 私は恋に恋をしていて、特別なことをして、特別な存在になりたかった。その相手自体が特別な訳じゃなかった。……そう言い聞かせた。

「……うん。今までありがとう」

「SNSとか、ブロックしないで。周りに勘付かれると困るからさ」

 困る。彼女にとって私との日々は若気の至りで黒歴史でしかない。

 私たちは穏便に別れた。だけど不完全燃焼だった。だから未だに燻っていたのだ。



 あの美しい花は散らされてしまったのだ、と理解するまでに時間が掛かった。自ら散り際を定めたなら、美桜はきっと誰に惜しまれようと躊躇なく散っていく。分かっていたことなのに。

「……そう、なんだ、おめでとう」

「ありがと。混んできたし、そろそろ出よっか」

 美桜は席を立ち、颯爽と進んでいく。私は小走りでその後を追い掛ける。

 店を出るとすぐに橋がある。あの日と同じ構図。美桜は欄干に身を預けながら夕日を眺めている。その横顔にはあの頃の面影が残っている。

「分かってたよ、灯花が心配してたってことは。でも灯花がまだ私のことを好きだったらって思ったら連絡も取りづらくて」

 まるで連絡を取れなかった理由が私にあるかのように、美桜はそう告げた。

「自意識過剰だよ、それ。元カレにより戻そうって言われても困る、もう好きじゃないし。そう言ってたでしょ? それと同じことじゃない。私がまだ貴女のことを好きだなんて、そんなこと」

 ない、と続けられないのが私の本心の最後の抵抗なのか。

「……そう、だったらいいよね。こんなものもう捨ててもさ」

 彼女は私の手首を掴むと、ブレスレットを引っ張った。

「やだ、やめて」

「なんで、もう要らないでしょ。捨ててよ。もう要らないの、過去なんて」

「恋は終わっても、友情まで捨てたつもりはない!」

 叫びも虚しく、細いチェーンが千切れ、美桜の手中に落ちる。美桜は何の躊躇いもなく川へ投げ捨てた。

「ああっ」

 伸ばした手は空を切り、ブレスレットは弧を描いて落ちていった。私たちの思い出は一瞬花筏を散らし水面を黒くしたが、すぐにまた花弁で埋め尽くされた。

「じゃあね、灯花。もうSNSもブロックしとくから。関わらないで」

 手を振る後ろ姿はいっそ清々しく。美桜は私の、誰の恋にも傷付くことなく、悠然と去っていく。

 ああ、なんて身勝手で、傍若無人で、残酷で、美しいのだろう。その姿こそ私が恋した美桜の姿に他ならなかった。

 ブレスレットがあった場所には細く赤い傷が残された。美桜はこんなにも、私に傷を残していくのに。

 彼女は私との関係を清算して、もう思い出すこともないだろう。私は彼女の人生の汚点にすらなれない。

 宙を舞う花弁は満天の星空のようだった。花篝は白く淡い桜を浮き上がらせる。

 美桜は淡くなんてなかった。篝火で照らさなくても、十分にあの白は輝いたのだ。

 散ってなお。桜はどうしたって美しくて、白々しくて反吐が出た。


–了–

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