庶民の食卓 ~うなぎ~

Danzig

第1話

庶民の食卓


鰻(うなぎ)



今や、すっかり庶民の食べ物とは言えなくなってしまった鰻だが、

私は、鰻がもう少し庶民の食べ物に近かった頃から、疑問に思っていた事があった。


それは、関東と関西で調理方法が違うという事である。


何も、鰻に限らずとも、関東と関西で調理方法が違う食べ物などはいくらでもある。

それは分かっている。

だが、私は妙にこの鰻に関する違いに興味を引かれたのだ。


鰻の調理方法の違いとは、大きく分けて2つ。

鰻のさばき方と、焼き方である。


まず、さばき方に関してだが、

関西は鰻をさばく時には、まず「目打ち(めうち)」と呼ばれる釘のような道具で、鰻の頭を固定して、腹の部分に包丁を入れて、鰻を割(さ)く。

これは、腹から開くので「腹開き」という。


一方、関東は目打ちする所までは同じなのだが、鰻を割く時には、背中に包丁を入れて割くのだ。

これを「背開き」という。


まずここが、大きく違う。


そして焼き方だが、関西では、さばいた鰻に串を打って、そのまま焼くのに対して、

関東は、鰻に串を打った後、一旦白焼きにして、それを蒸してから、再び焼くのだ。


この違いはどうして起きたのか。

これが、私の昔からの疑問であった。


というのは、鰻を割いて、串を打って焼くという根本的なスタイルは同じなので、元々は、同じ調理方法だったものが、事情によって、どちらかが変化したと考えるのが妥当だろう。

そして、その「事情」とは何なのかという事に興味を持ったのだ。


この事については、私なりにいろいろ調べてみて、思い至った事がある。


尚、此処から先の話は、私が個人的に鰻について考えた事柄(ことがら)であり、これといった確証がある訳ではない。

鰻についてキチンと調べている学者さんや、食文化の研究者の方たちとは違っている話も多々あるかもしれないが、

なにぶん、庶民の考察ゆえ、与太話とでも思ってご容赦願いたい。



さて、鰻料理についての話なのだが、

鰻の歴史を辿(たど)ると、どうやら縄文時代にまで遡(さかのぼ)るらしい。

また、万葉集にも、鰻の出て来る和歌があるようなので、鰻は食文化としては非常に古くからあると言えるのだろう。


しかし、鰻が本格的に食として定着したのは、江戸時代に入ってからなので、庶民が鰻の食を語るのであれば、やはり江戸時代からで良いと私は思っている。


現在、鰻を焼いたものを「かば焼き」というが、この言葉は、鰻料理が鰻を割いて焼くという今のスタイルになる前に、鰻をぶつ切りにして、筒状のまま、縦に串を刺して焼くスタイルであった事に起因する。

この時の串の形が、植物の蒲(ガマ)の穂に似ている事から、「ガマの穂焼き」と呼ばれ、それが「かば焼き」になったと言われている。


「ガマの穂焼き」が文献に登場するのは室町時代というが、江戸時代の初期の頃までは「ガマの穂焼き」のスタイルのままだったようだ。


鰻は、江戸時代になって盛んに食べられるようになったのだが、ではなぜ、古くからある鰻料理が、江戸時代まで食文化として定着しなかったのか?


それには意外な理由がある。

実は、それまでの鰻料理は、滋養(じよう)はあるが「不味かった」のだ。

いや「不味い」とまで言うのは、語弊があるかもしれない。

おそらくは、脂(あぶら)くどくて、食べ難(にく)いものだったろうと思われる。


鰻は皮も硬く、脂の多い魚である。

しかも当時は天然鰻なので、脂も今の物よりは幾分多かった事だろう。

しかも、鰻を筒状で焼くのだから、脂は落ちにくい。

これは全くの想像であるが、当時の「ガマの穂焼き」は、非常に脂を感じる食べ物だったのだと思う。


日本人は、昔から脂が苦手な民族だ。

それは、マグロのトロの部分を棄てていたという逸話や、落語の「目黒の秋刀魚(さんま)」などからも、よく分かる。

そんな日本人にとって、鰻の「ガマの穂焼き」は、非常に食べ難い料理だったのだろう。


では、どのような理由で江戸時代になって、盛んに食べられるようになったのか。

それは、徳川家康が、当時湿地帯であった江戸という土地に、住みやすくする為の干拓(かんたく)工事を行った事が切欠となる。


鰻料理は、当時干拓に携わった肉体労働者達のための食べ物だったのだ。

毎日多くのカロリーを必要とする労働者にとって、鰻の高い栄養価は、非常に魅力的であり、

しかも、その頃は鰻が大量に獲れたという事で、価格も安かった事が、労働者に受け入れられた理由であろう。

だが、この「ガマの穂焼き」は、労働者階級には受け入れられたのだが、町人達からは、脂くどく「下賎(げせん)な料理」として蔑(さげす)まれていたようだ。


そんな下賤な鰻料理に、元禄時代になって調理革命が起きたのである。

上方(かみがた)、今の関西地方で、鰻を割いて焼くという、現在と同じスタイルの調理方法が生み出されたのだ。


この料理は、従来の鰻料理と区別をするために、「大うなぎ」と名付けられた。

鰻を割いて見た目が大きくなったので「大うなぎ」というのである。

実に安直(あんちょく)なネーミングだが、この「大うなぎ」は、割いて焼くために、適度に脂が落ちて、実に食べやすくて美味い。


勿論、この「大うなぎ」は江戸に下(くだ)る事となり、これが江戸で鰻が大流行する切欠となるのだが、

この歴史から考えれば、鰻の割き方は、もともと関西風の腹開きであり、江戸で背開きに変化した事になる。


では何故、鰻は江戸で背開きへと変化したのだろうか。


鰻の割き方を語る際に、こんな話をよく耳にする。

「関西は商人の文化、腹を割って話す事を良しとするので腹開き、一方、江戸は武士の文化だから、切腹を嫌って背開きなのだ」

という話だ。

全(まった)くもって、うまく表現したものではあるが、私は昔から、この話には懐疑的(かいぎてき)であった。


何故なら、先にも書いたように、そもそも鰻は下賤な食べ物であり、町人ですら食べなかった物を、武士が食べる筈(はず)がないのだ。

そんな料理に切腹も何もあったものではない。

もし、仮にそれが本当だとするなら、他の魚も江戸では全て背開きになる筈だが、そうでもない。

この事からも、この逸話が後に作られたものだという事が分かる。



上方(かみがた)から伝わった「大うなぎ」は、江戸で爆発的な人気を博(はく)したようで、非常に沢山の鰻屋が乱立し、そのどれもが大変繁盛したらしい。

そうなると、当然、人手も足らなくなり、職人だけではやって行けなくなる。

結果として、必然的に、素人が調理に参加する事となる。

江戸時代の浮世絵に、女性が鰻をさばいている様子が描かれているものがあるが、まさに猫の手も借りたい状況だったのだろう。


この、素人が調理に参加する事により、調理方法の工夫が必要とされたのではないか、

そして、それが「背開き」と言う調理方法だったのだと私は思うに至ったのだ。


これは、魚屋さんに聞いた話なのだが、どうやら、鰻の腹開きは難しく、背開きの方が比較的簡単だというのだ。

また、串を打つもの、背開きの方が楽なのだそうだ。

素人の料理人が、難しい腹開きではなく、背開きを選ぶのは想像に難くない。

私はこれが、背開きの理由ではないかと思ったのだ。


背開きの謎は、これで解決した。

さて次は、鰻を蒸す謎である。


鰻を蒸す理由を調べているうちに、私はいくつかの、それらしい話を目にした。

一つは、

「鰻を背開きにした事で、脂が落ちにくくなった為に、蒸して脂を落とすようになった。」

というもの。

また

「腹開きで蒸すと、串が落ちてしまうので、背開きにする事で、鰻が蒸せるようになった」

というようなものだ。

どちらも、背開きと密接な関係のある話であり、味を向上させる為に「蒸す」という工程を入れたという説である。


確かに、背開きにする事で、脂の多い腹の部分は身の中央になるので、油は落ちにくくなるし、柔らかい腹の部分が外側になる腹開きでは、蒸すと串が落ちてしまうのは事実であろう。


私も最初は、この説を信じていたのだが、調べて行くうちに、背開きでも蒸さない地域がある事を知り、疑問を持つようになった。


そして、もう一つの理由は

「蒸すと鰻の泥臭さが取れて美味くなる」

というものである。

これも、蒸す事で味の向上を目指した説である。

私は、これにも疑問を感じた。


料理の歴史を調べると、鰻に限らず、料理は関東と関西を行ったり来たりしながら、調理方法が進化していく事が分かる。

もし「蒸す」事が、鰻の味を引き立てる事を目的とした、優れた調理方法だというのであれば、それは必ず上方に上(のぼる)る筈だと私は思うのだ。


少なくとも、江戸で変化した背開きが伝わっている地域では、鰻は蒸される事が必須になっている気がするのだが、関東と関西の中間にある、静岡県や長野県の一部では、背開きでも蒸さない地域がある。

それは、鰻は必ずしも蒸す必要がないからではないかと思うのである。


それらの事から、私は江戸で鰻を蒸すようになったのには、江戸ならではの必要性があったからではないかと思うようになった。

そして、それは何か?


江戸ならではという事で、こんな話も目にした。


「江戸っ子はせっかちだから、待たせないように、予め蒸しておいた鰻を調理した」

というものである。


この説も、ある程度の説得力はあるのだが、ただ江戸の鰻に関しては、昔から

「鰻屋でせかすのは野暮」という言葉があり、「注文が入ってから一つずつ割いて焼くので時間が掛かっていた」という事が分かる逸話があるのだ。

また、江戸で大流行した鰻は、価格も高騰しており、料理屋で食べる鰻は、作り置きが許されるような料理では無かったのではないかと思うのだ。


では、江戸で鰻を蒸すようになった必要性とは何か?


私は、その理由は屋台にあるのではないかと思うに至ったのだ。


江戸では屋台の文化が発達しており、寿司や天ぷら、そば、おでんといった様々なメニューが屋台で供されていた。

鰻も屋台の人気メニューの一つだったようだ。

その屋台に、鰻を蒸す必然性があったのではないかと思うのだ。


おそらく屋台でも、最初のうちは注文が入ってから生きた鰻を割いて焼くというスタイルだったのかもしれないが、それでは時間がかかり過ぎて、売り上げが上がらない。

必然的に予め仕込んでおいた鰻を焼くというスタイルになるが、割いて串を打ったままの鰻では、衛生的な面で問題がある。

だから、事前に焼いて白焼きの状態で用意をしておき、注文を受けてから焼くというスタイルに変化したのではないか、

そして、焼いて冷めた鰻は固くて不味いから、蒸してふっくらさせてから、再び焼くという工夫がされたのではないかと思うに至ったのだ。

冷めたままの鰻よりも、蒸したほうが醤油も乗りやすいし一石二鳥である。


江戸の寿司は、屋台で進化した。

衛生面や、注文を受けてからの調理時間を短縮する為の工夫が、寿司の進化をもたらしたのだが、同じ屋台の鰻にその工夫がない筈がない。

そう考えても、私には腑に落ちる話であり、これが江戸の鰻に「蒸す」工程が入った理由だと思うのだ。


背開きの箇所で、不慣れな料理人のために背開きになった旨(むね)を書いたが、私は、ひょっとしたら、屋台で必要となった「蒸し」の工程を実現する為に、背中に串を打つ背開きが必須になったという説も、あるかもしれないとは思っている。


さて、長々と書いてしまったが、これが私の中で解決に至った、鰻の話である。


この話を書いている最中、私は妙に鰻を食べたくなったのだが、庶民の私にとっては、鰻はそうそう手の出るものではない。

なかなかに歯がゆく思いながら、鰻に想いを馳せていた。


最近、鰻の完全養殖に成功したとの話を耳にしたが、まだまだ実用化には時間がかかるようだ。

いつの日か、昔以上に気軽に鰻を食べられる時代が訪れて欲しいものである。


尚、繰り返しになるが、この話は、庶民の与太話である為、ここで読んだ話を、さも自慢げに他人に話して、恥をかかぬよう注意されたい。


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