第18話 たどり着いた場所で

 丘の上まで続く山道は普段人通りがないせいか、若干雑草が茂っているところもある。時おり細くなっているところをかき分けるかのように、僕は前へ進んだ。


 先を進む雑草研究部の生徒たちの背中を目で追いながら足を動かす。一体どれくらい歩いただろうか。五分はおそらくまだ経っていない。

 

 まだ日没にはなっていないものの、流石に山林の中は薄暗い。僕は途中で振り返って後方を確認する。


「……大丈夫か、星原? 大森さんもついてきている?」

「平気よ。別にそんな急な階段でもないし」

「はい。大丈夫です」


 そのさらに後方から「まだあるのか?」と明彦がだれたような声を漏らした。続いて「でも下から見たときの高さからして、あと少しだと思うよ」と日野崎の元気な声が返ってくる。


 確かに小さな丘だったし、もうそろそろ着いてもおかしくないはずだな。


 僕が頭の片隅でそう呟いたとき「到着しました」という生田さんの声が前方から聞こえてきた。顔を上げると、左右の木々が途切れてひらけている空間が見える。その先には石畳と垣根のようなものも奥にあるようだ。


「どうやら広場に着いたみたいだ」


 後ろの皆にそう告げると、僕は最後の階段を昇るべく足を踏み出した。


 大森さんが探し求めた、かつてこの学校に所属していた女子生徒が大切な思い出を作った場所。僕もそれを確かめようと雑草研究部員たちに続いて垣根の向こうへ進み、暗がりの中で目を凝らす。しかしその先にあったのは予想とは少し違った風景だった。


 手入れをしていればそれなりに綺麗な庭園だったのだろうが、ここ数年は放置されていたこともあってか、雑草がはびこっている。また剪定もされていない庭木はところどころ害虫にやられ、枯れかけているものもある。


 風雨にさらされた管理小屋は薄汚れてまだら模様になっており、かつて作られた東屋は老朽化で崩れ落ちて瓦礫になっていた。


 一言で表現するなら荒涼とした空間だ。


 追いついてきた明彦が周囲を見回してぼんやりと呟いた。


「ここがおまじないをした広場なのか? 確かに月は見えるが」

「数年間も管理されていなかった庭園だものね。まあこうなっていてもおかしくはないけれど」


 星原がため息をついて、物憂げに月を見上げる。


 そして誰よりもこの場所に来たがっていたはずの大森さんは何も言えずに呆然と立ち尽くしていた。


 だがそんな僕らにはお構いなしに、先に到着していた雑草研究部員たちは「おお、カラスノエンドウがありますね」「インテリアにしますか」「ネジバナがあった、珍しい」と普段は入れない採取場所での活動にいそしんでいる様子だ。


 後ろで悩むように腕組みをしていた日野崎が疑問を口にする。


「でも何で、この場所が『袖振り広場』なの?」

「それなんだけど、片倉先生。昨日聞かせていただいた話をもう一度してもらっても良いですか?」


 長い髪の女性教師は雑草研究部員たちの方を眺めていたが、僕に呼びかけられると「ああ」と思い出したようにこちらを見る。


「この場所はね。今では荒れ放題だけど、当時は綺麗に手入れされていた西洋庭園だったんだ。でも丘の上にあるから、気づかない生徒も多いし放課後なんかは部活動で近づいてくる生徒もいない。つまり、例えば好きな相手と二人きりになりたいなんて生徒たちにとっては穴場だったんだよ」


 明彦がヒュウと小さく口笛を吹いてから片倉先生に尋ねる。


「つまりあれですか。逢引きに使われていたってことですか」

「まあね。春先に恋人同士がそこの東屋で待ち合わせて、来てくれた相手に袖を振ってみせるのが風物詩みたいなものだったんだ」

「それで、『袖振り広場』って呼ばれていたんですね」と日野崎が納得した表情でポンと手を叩く。先生は小さく頷いて説明を続けた。


「当時の古典の先生が和歌が好きな人でね。授業で必ず教えたのが『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』という万葉集の額田王の歌さ。あなたがそんなに袖を振っていたら見張りの人間に秘めた恋が知られてしまうという意味だが、つまり袖を振るというのは昔の愛情表現だった。まあ、それも絡めて『先に来て、手を振ってくれる想い人と待ち合わせる広場』というニュアンスでそう呼ばれていたんだ」


 ふと、ここで説明に聞き入っていた星原が「もしかして」と口を開く。


「袖振り広場というその呼び名は『好きな相手と待ち合わせをする場所』という風に意味が広がったんじゃあないですか」

「星原さんは勘が良いね」


 片倉先生は、当時の学校に想いを馳せるように丘の下のグラウンドや中庭を見渡した。


「そうなんだ。この場所が生徒たちの間で『袖振り広場』という俗称で呼ばれるようになってから、男女が待ち合わせをする場所全般のことを『袖振り広場』と呼ぶようになったんだ。つまりこの広場だけでなく、校舎裏とかグラウンド脇の広場なんかもね。……でもその後で、女の子が新入生に告白じみた呼び出しをして、部活に入部させようとする強引な部活勧誘が行われたらしくてね」


 僕が明彦から聞かされた話だ。


「その後、当時の学校側からの注意で悪質な勧誘自体はなくなったんだけれど、『袖振り広場』と名付けられた場所での部活勧誘の声掛けは続いた。そのうちに意味が歪んで、部活の勧誘をする場所を『袖振り広場』と呼ぶようになったんだ。そして、最初に『袖振り広場』と名付けられた男女の逢瀬の場は庭園の管理が難しくなって、今ではガレキ丘と呼ばれるようになった」


 話を終えた先生は「まあ、呼び方の意味が変わってしまってからの話は、私も教師としてこの学校に今年戻ってから知った話だけれどね」と結んだ。


 僕は明彦たちに向きなおって、片倉先生の話を簡単にまとめなおす。


「つまりは最初は『袖振り広場』という言葉は逢瀬の場を意味していた。だが強引な部活勧誘をきっかけに、新入生に部員募集の声掛けをする場所というニュアンスも含むような形で『意味が拡張』されたというわけだ」


「そしてその場所が行われたのがグラウンド脇の広場だったから、向こうが『袖振り広場』として広く認知されるようになった。やがて、管理が難しくなって入れなくなったからこの場所は『袖振り広場』とも呼ばれなくなって、いつしか『ガレキ丘』という形で再命名されたのね」


 隣に立っていた星原が補足した。


「そうだったんですね」


 ここまで沈黙していた大森さんが平板な声を漏らした。その目は虚ろで、僕の目にも落胆しているのが見て取れる。


 彼女は、弱々しい足取りで崩れ落ちている東屋に近づいた。そこにはベンチが一脚、残されている。かつて池上さんがおまじないの後で気持ちを伝えたのであろう場所だ。だがその思い出の場所は誰に省みられることもなく、うち捨てられていた。


「昔は、大事な人と大切な時間を過ごすための場所だったのに。他の場所が同じ名前で呼ばれるようになって。そっちの方が有名になって、今じゃガレキ丘なんて呼ばれて。……誰からも忘れ去られて」


 大森さんは塗装がはがれたボロボロのベンチを見下ろして、小さく手を震わせていた。


 バスケ部で懸命にマネージャーとして地道に仕事をこなしていたのに後から入部してきた同姓の人間が評価されて、名前もちゃんと呼ばれないほどに軽んじられている彼女。


 そんな大森さんがささやかだけれども前向きな気持ちになるための切っ掛けが欲しくて、昔の生徒が想い人とおまじないをした場所を探していたのだ。


 だが、その場所はもはや男女の逢瀬の場という意味も名前も他の場所に奪われ、寂寥感さえ感じされる空虚な場所になり果てていた。


 彼女がどんな思いなのかは想像に難くない。しかし、どんな言葉をかければいいのだろうか。僕も明彦たちも葛藤して顔を見合わせていた、その時だ。


「少し前から聞いていましたが。ここはそんなに落胆するような価値のない場所ではないと思いますよ」


 大森さんに話しかけたのはジャージを着こんだ雑草研究部の部長、生田さんである。


「だ、だって」

「確かに今ではこの場所を利用する人は居ませんが、それでもうちの部はこの季節にここで野外調査をするのが楽しみなんですよ」


 そういえば、職員室でも蓮沼さんとそんな会話で盛り上がっていたような気がする。『今の時期ならガレキ丘で観られる』『楽しみだ』とか。


 あれは何の話だったのか。


 僕がそう考えていると、生田さんは「だって、ほら」と大森さんの背後を指さした。ベンチの向かいにある小さな池を。


 その風景を見て明彦が「えっ?」と声を漏らし、日野崎は「わあ」と感嘆する。


 彼女が指したその先に一つの小さな光が静かに舞っていたのだ。


 いや一つだけではない。


 気が付くとそこには無数の小さな光の粒が幻想的にふわふわと漂っていた。


「このあたりは蛍の生息地なんです。都内でも蛍が見られるところはいくつかありますが、幸いここは水が綺麗で、池の周りも山林に囲まれていますからね。たまたま条件が良かったのでしょう」


 その時、僕は例の活動記録にあった一文を思い出していた。


「『おまじないを終えたあとで』『眼下の星々のような灯を眺めながら二人でベンチに座った』……か」

「星々のような灯、ね。何を指しているのかと思っていたけれど、こういうことだったのね。そういえば夏休みが来る前におまじないをしたと記録にあったわ。ちょうど同じ時期だったみたいね」


 星原が瞠目しつつ、僕に囁いた。


 生田さんは大森さんに「この場所だってそんなに捨てたものではない。そう思いませんか」と語りかける。大森さんはかすかに微笑んで「そうですね」と答えた。


「あのー、さっきから実は気になっていたんですけど」


 今度は唐突にテンションが高めの通りのいい声がかけられる。いつの間にか雑草研究部の明朗快活な一年生部員、蓮沼さんが大森さんの傍に立っていたのだ。


「な、なんですか」

「いやあ、大森さんでしたっけ。さっきから顔に見覚えがあるな、と思っていたんだ。いつもバスケ部の洗濯とか道具の手入れとか一人でやっている人ですよね?」


 大森さんは、彼女の言葉に「え。どうしてそれを」と目を丸くする。


「いやあ。私ら、作業教室棟の一階を部室として使っているので。いつも水道場のところで作業しているところが見えるんですよ。……でも何で固い顔になって、一人で頑張っているのかなって」

「あ。……ええと、あの他にも女子マネージャーは居るんですけど、練習中はその人はみんなの見学と応援をしていて」


 蓮沼さんは一瞬黙った後で「えー」と呆れた顔になった。


「仕事を押し付けられているんじゃないですか? 少なくとも一人でやる量ではないですよ、あれ」

「いや、でも。私はパソコンのスコア整理とかもありまして。洗濯や道具の手入れは練習中にやらざるを得ないというか」


 その言葉に今度は生田さんが「待ってください」と食いつく。


「ということは大森さんはパソコンもある程度扱えるんですね?」

「は、はい。それが何か?」


 その返事を聞いた雑草研究部の部長は「洗濯や掃除で埃や泥まみれになるのも慣れている。パソコンも使えるから、標本のデータ整理も頼める」とブツブツと呟いていた。


 一方、蓮沼さんは頭を抱えて不満そうに眉を吊り上げる。


「地道に頑張って部員をフォローしているマネージャーに練習の見学もさせないって。バスケ部の人たちは見る目ないんじゃないの?」


 やがて雑草研究部の女生徒二人は、顔を見合わせてから大森さんに向きなおった。


「あのう、もし良かったら」

「バスケ部辞めて、うちの部に入りませんか」

「え?」

「いや、何ならバスケ部との掛け持ちでもいいので」

「うちは基本のんびりしていますから! ドクダミ茶すすりながら標本の整理をしたり、今日みたいに校内を散策したり」

「いや、あの」


 内気なバスケ部の女子マネージャー、大森さんはかわるがわるに話しかけられて困惑している様子だ。流石に見かねたのか、明彦と日野崎が割って入る。


「この場で即答しなくても良いんだろ? 一度、時間を貰って考えたらどうだ?」

「あたしはさ。あまり重く捉えなくても良いと思うよ。バスケ部以外に居場所を作るんだくらいの軽い気持ちで」


 明彦の言葉に生田さんたちは話が性急すぎたと思ったのだろうか、一度大森さんから離れて軽く頭を下げた。


「まあ、確かに話がいきなり過ぎました」

「気が向いたら遊びに来てくださいねー」


 それぞれにそう言うと、そのまま片倉先生の所へ向かって「とりあえず採集は終わりました」「次回は別の場所で……」となにやら部活関係の報告をする。


 一方、大森さんの方は「雑草研究部ですか。でもバスケ部の仕事も忙しいのに、掛け持ちをしたら、責められないでしょうか」と迷うような顔になっていた。


 彼女を認めてくれる雑草研究部に所属するのは悪いことではないと思うが、こればかりは無理に薦めることではない。彼女自身の意思で決めなければ何の意味もないだろう。


 僕がそんな風に思考を巡らせていると、片倉先生は雑草研究部からの報告を受けて「それじゃあ、今日はもう引き上げることにするから。君たちも、もう良いかな?」とこちらに目を向けた。


「これで一段落したからな。戻ろうか」


 黒髪の少女は大森さんを元気づけるように漂う蛍の灯を穏やかな表情で眺めていたが「そうね。目的は果たしたもの」と返事をしたのだった。

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