第16話 レトロニム
「いやいや。大森さんの境遇を
「主にあの色物要員二人のせいだよ」
目を半眼にして呆れ顔になる星原に僕はため息をついてみせた。
少し古びたカーペットの上には皮張りのソファーとテーブルが置かれていた。また部屋の片隅には学校の備品がつめこまれた棚がある。
ここは図書室の隣の空き部屋だ。あれから数時間後、僕はいつものように星原との放課後の勉強会に参加していた。そして区切れが良いところで昨日の放課後の件と、ついでに先ほどの明彦たちとの話を伝えたところである。
「まあ大森さんに関しては日野崎さんの言うとおり、まず本人が自信を持てるようにならないと、どうにもならないのかもしれない。……私はたかがおまじないでも、それを達成することが自信を持つ切っ掛けになればと思うのだけれど」
隣のソファーに腰掛けた黒髪の少女は悩まし気に呟いた。
「そうだな。ただ、結局そのおまじないをしたという広場がどこなのか未だにわからない。片倉先生に聞いてみたんだが、当時も今と同じであの昇降口の近くに階段は無かったらしいんだ」
「新入生の勧誘をしていた場所もグラウンド横や中庭で、今と変わらなかったと」
「ああ。袖振り広場というのが『新入生部員の勧誘をする場所の総称』というように意味が広がっているのなら、僕らがまだ気が付いていない所で他に勧誘をしている場所があったのかもしれないがな」
「意味が広がって、ね」
彼女は何故かクスリと笑みを漏らした。
「どうかしたのか?」
「いえ、さっき言っていた日野崎さんの言葉を思い出して。……『犯罪警察』って」
そのまま笑うのをこらえるように口元を抑えている。
どうやら、さきほど聞かせた明彦たちのやり取りが面白かったらしい。
「あの、警察という言葉が『取り締まる人』という意味で拡張されて使われているって話か」
「うん。『マナー警察』『誤用警察』みたいに意味を広げていたら『本来の警察』にまで当てはめちゃったのね」
「『回転』寿司が有名になったから、『職人が握る本来の寿司』を『回らない寿司』というようなものだな」
「そうね。いわゆるレトロニムだわ」
星原はすまし顔で耳慣れない言葉を口走った。僕は気になって、つい聞きとがめる。
「ええと、何だ? その、レトロニムというのは」
「つまりね。ある言葉の意味が拡張したり、別の意味に変わることがあるでしょう。今の例で言うと、『寿司』と言えば『回転寿司』を意味する方が一般的になったりね。……すると古い意味の言葉を区別して呼称するために『回らない寿司』みたいな別の言葉が作られるの。それが『レトロニム』。日本語では再命名というらしいわ」
彼女は、微笑しながら淡々と説明する。
「言葉の意味が変わったり拡張したときに前の言葉を区別する、か。わかるようなわからないような。他に具体的な例はないのか?」
「例えば『レッサーパンダ』という動物がいるでしょう」
「あのアライグマみたいなやつか」
しっぽがふわふわしていて小さくてあれはあれで可愛いと思う。
「でも、あの動物は昔は『パンダ』って呼ばれていたの」
「えっ。じゃあ、あの白黒模様で笹を食べる方の『パンダ』は?」
「あっちは後から発見されて『ジャイアントパンダ』と呼ばれていた。でもいつの間にかその白黒のパンダの方が有名になってしまった」
「確かに『パンダ』と言えば白黒模様の動物の方を連想するな」
「だから白黒の方の『パンダ』の方と区別するのに『レッサーパンダ』という呼び名が生まれたわけ」
「つまり、パンダというのは本来小さい方を指すものだったのに、いつの間にかジャイアントパンダをパンダというのが一般的になった。言葉の意味が変わって、元々あった方に別の呼び名をつける必要が生じたんだな」
感心する僕に少女は「そういうこと」と相槌を打つ。
レッサーパンダからすれば、元々パンダと呼ばれていたのに「劣っている」という意味の「レッサーパンダ」呼ばわりされるのは不本意なんじゃなかろうか。いや野生動物は人間にどういわれているかなんて気にしないだろうけど。
僕がそんな風に考えていたところで、彼女は別の話題を切り出す。
「ちなみにレトロニムにまつわるちょっとした小話があってね」
「へえ?」
「レトロニムはさっきも言った通り、古い意味の言葉を区別するために命名するものなのだけれど。一番ポピュラーなのは、映画とかお店とかの『パートⅠ』『元祖』『一世』みたいなやつなの」
「ああ、漫画とかがリメイクされたときに、古い方に『旧』をつけるようなやつか」
「そう。それでね。欧米のある国で『第一次世界大戦時の兵士が恋人に送った手紙』とされるものが発見されたんですって」
「歴史的な価値がある手紙だな」
「ところが、この手紙の文中に『この第一次世界大戦が終わったらまた会おう』という言葉が出てきて偽書だとバレてしまったの」
彼女の言葉の意味を考えて、一瞬沈黙する。
どうしてそれで偽物だとわかったのだろう?
「……ああ、そうか。『第一次世界大戦』という言葉は『第二次世界大戦が起きてから』作られた言葉だものな。一九三〇年代くらいまでは『世界大戦争』とか言われていたんだっけ。当時の人間が『第一次』なんて単語を使うわけがないって話か」
偽書を作った人間は「第一次世界大戦」が時代の変化で作られたレトロニムだと気が付かなかったのだ。
そこまで考えたところで僕の中にある発想がひらめいた。
「……星原」
「どうしたの?」
「いや、もしかすると」
携帯電話を起動させた僕は、例のオカルト研究部の活動記録を撮影した画像を表示させる。確認したかったのはテキストの中のある文章だ。
『当日、私は浩司くんと待ち合わせをした。場所は北側の昇降口だ。そしてすぐ近くの階段を昇った先にある広場で予定通りにおまじないを実践した』
その文面を見て片倉先生と話をした直後に湧きあがった違和感が何だったのか、はっきりした。
「そうか。僕らが捜していた広場がどこにあったのか、わかったかもしれない」
「え?」
驚く星原に僕は今思いついた推測を簡単に説明する。
「なるほどね。でもそうだとしたら、問題の幻の広場はそもそも今では『袖振り広場』とは呼ばれていないことになるわ」
「ああ。だが念のためそのことを片倉先生に確かめに行ってくるよ。星原は明日の放課後に大森さんに時間を作ってもらうように連絡しておいてくれないか」
彼女が「……わかったわ。いってらっしゃい」と頷いたあとで、僕は立ち上がって廊下に足を踏み出した。
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