第15話 大森ひなこの境遇
外はもう夕暮れが近づいて、うすい桃色と水色が混ざったような空が窓の外に見えた。片倉先生からの聞き込みを済ませた僕は教室に戻ろうと歩を進めているところである。
だが、ふと中庭側の窓を見ると体育館の照明が目に飛び込んできた。おそらくバスケ部を含む運動部が練習をしているのだろう。
結局、現時点では収穫は得られなかったわけだが、大森さんにも直接そのことを伝えておいたほうが良いだろうか。携帯にメールで送る方法もあるが「方針を練り直すことも含め、もう少し時間が欲しい」と断っておくことも考慮すると直接会うべきかもしれない。
僕は階段を通り過ぎると、中庭の方へ出て体育館の方へ足を向けることにした。
体育館の中ではボールが弾む音が響き渡り、バレーボール部とバスケ部がコートを半分ずつ使用して練習に励んでいる。バレーボール部はトスやレシーブなどの個人練習、バスケ部はチームに分かれて試合をしているようだ。
僕はバスケ部の方に近づくが、大森さんの姿は見当たらなかった。
おかしいな。バスケ部のマネージャーだと言っていたし、放課後は部活があるという話だったはずだが。
周囲を見回すと、近くで一年生の男子部員が部内の練習試合を観戦していたので僕は声をかけることにした。
「ええと、邪魔をしてごめん」
「はい?」
「マネージャーの大森さんに用があったんだけど居るかな?」
学校指定の運動着の上にビブスをつけていた彼は一瞬だけ僕を見上げると、すぐさま数メートル離れたところにいる女子生徒を呼んだ。
「大森! 何かこの三年生の人が用事があるって!」
「私に?」
スタスタと近づいてきたのは、背が高く目鼻立ちがはっきりした派手な雰囲気の少女だ。僕の知っている大森さんではない。
彼女は不思議そうな顔でこちらを見つめ返す。
「ええと。どこかで会いましたっけ?」
「いや、あれ? 大森ひなこさんに会いに来たんだけれど」
僕の返事に目の前の少女は納得した顔になる。
「ああ。『小森さん』の方か。私は
どうやら、苗字が同じマネージャーがいたらしい。彼女は「急に知らない人間に呼ばれて煩わしい」という心持ちを隠そうともせずにため息をつくと、背を向ける。
「あ、ちょっと。もう一人の大森さんは……」
「彼女なら、この時間は外の水道場で雑用をしているんじゃないですかね。多分」
振り向きもせずに、目の前の大森さんは不愛想な言葉を返した。なんとも釈然としない気分だが、これ以上居ても仕方がないと踵を返すことにする。
出入り口を外に出て、そのまま左の方を見るとテニスコートがある。またさらに向こうに水道場が設置されていて、そこからジャブジャブと水音が聞こえてきた。
見ると誰かが座り込んで一生懸命ボールの手入れとビブスの洗濯をしている。小柄で大人しそうな少女、大森さんだった。
「……大森さん」
「あ、月ノ下さん。どうも」
「ええと、実は職員室で十年前の校内の状況について聞いてみたんだけど。特に今と変わっていないということみたいで。手掛かりは無かったんだ。だから方針を一度見直そうと思っていて、もう少し時間をくれないかな」
「そ、そうですか。わかりました」
彼女は何故だか恥ずかしそうに俯いていた。見られたくないところを見られたかのように。
僕はその様子に引っかかるものがあって、つい尋ねてしまう。
「あのさ。大森さん。部活の練習中なのに、君一人だけでこんな雑用をしているのか?」
「は、はい」
「でもさっき体育館で聞いたんだけど、マネージャーは他にもいるんだよね?」
「そうですね」
「ちょっと、ひどいんじゃないか。それと、君のことを訊いたら『小森さん』と呼んでいたんだけどあれはどういう意味かな」
彼女は一瞬、固まってからモゴモゴと返事をする。
「元々、マネージャーは私だけだったんですけど。去年バスケ部が活躍して話題になってから新しく入ったマネージャーが居まして。その人も大森という苗字なのです」
「ああ、それがあの大森隼乃さんか」
僕は先ほどの少女を思い浮かべる。後から入ってきたのなら、こっちの大森さんの方がマネージャーとしては先輩なのだから雑用くらい手伝えばいいのに。
「それで、同じ名前が二人でややこしいからと。部のみんなが『小さいからこっちは小森さんと呼ぼう』と言い出しまして」
「それさ、ちょっと失礼なんじゃ……」
バスケ部内の彼女の扱いを聞いて僕が不当なのではないかと言いかけたところで「違うんです」と大森さんは遮る。
「べ、別にいじめられているとかじゃないです。ただ……」
「ただ?」
「あっちの大森さんの方がどんくさい私よりキビキビ動いて、要領も良いし。ドリンク配りとかメンバーにタオルを渡すのも。難なくこなしますし。私は地道にスコアつけやビデオ記録とか、掃除をこなしている方が役割分担的に効率が良いといいますか」
邪推かもしれないが、向こうの大森さんはバスケ部の活躍を見てから男子部員と親しくなるためにマネージャーになったのではないだろうか。ドリンク配りやタオルなど男子部員と触れ合う機会がある仕事を積極的にやって、地道な雑用はこっちの大森さんに押し付けているように思える。
部外者の僕がどうこう言うことでもないのかもしれないが。
「それに。私よりも、向こうの大森さんの方から飲み物とかタオルを受け取った方が男子のみんなも嬉しいみたいですから」
その言葉に僕は何とも言えない気持ちになる。
一生懸命、地道に仕事をしている彼女が卑屈になる必要はないはずなのだ。
しかし男子部員からすると容姿に優れていて、自分たちの目に映るところで仕事をして応援やフォローをしているもう一人の大森さんの方が目立っていて、こちらの大森さんの仕事ぶりはあまり目に入っていないのだろうか。
「それでも。それでも、君はバスケ部の男子に好きな人がいて、おまじないをしたかったんだよね」
彼女は一瞬、びくりと肩を震わせてから「はい」と頷いた。
「そうか」
おそらく大森さんがいじめられていないというのは本当なのだろう。
ただ、もう一人の大森さんが入部してから、向こうの大森さんと比較されてこっちの大森さんの存在が軽くなっている、というよりそう扱っても良いというムードがバスケ部の中にできているのだ。
そんな彼女にだって、認めてほしい誰かがいる。だからこそ自分に振り向いてほしくておまじないをしたいと思い、同時にそのことを部内の人間に知られたくなかった。
彼女はおまじないにすがるほどに心の中で劣等感を抱えているのだが、それゆえに「こんな自分が、部内に好きな相手がいることを知られたら嘲笑されるのではないか」と怯えているのかもしれない。
何にせよ、この時の僕はこれ以上彼女にかける言葉も何をするべきなのかも見つけられそうになかった。
「それじゃあ、袖振り広場についてわかったことがあったら連絡するから」
僕は彼女にそう言い残してその場を離れた。
「へえ、そんなことがあったのか」
「あの子、大人しそうな雰囲気だったけど。色々抱えていたんだね」
規則的に並べられた机を蛍光灯が照らし出し、教室内は雑談に興じるクラスメイト達の声でざわめいていた。
一夜が明けた昼休みである。
僕は三年B組の教室の一角で、同じクラスの明彦と日野崎と机を囲んでいた。明彦がその後の進捗はどうかと訊いてきたので、昨日の放課後のことを説明したところだ。
昨日の放課後のこと。
つまり片倉先生に十年前の状況を訊いてみたが特に収穫は無かったことと、大森さんのバスケ部での境遇の話である。
向かいに座っていた明彦は話を聞いてから、やれやれと首を振る。
「嫌なことは嫌だと反発しないと、どこまでもなめられるんだがなあ。あの子にそれをやれと言っても無理そうだな」
「僕が思うに、彼女の中の美徳がそうさせないんだろうね。『周りに嫌な思いをさせないようにしよう』『自分が我慢すればそれで済むんだから』って」
一方で隣の椅子に腰かけた日野崎は、彼女らしくもないしかめ面になっている。
「でもさ。そういう美徳って評価されづらいじゃない。誰かがわかってあげないと苦しいんじゃないのかな。それでおまじないでもすれば、気になる男子が自分をわかってくれるんじゃないか、なんて思ったのかね」
「あるいはね。そういうわけだから日野崎も大森さんの、そのおまじないのことは秘密にしておいてくれ」
大森さんの事情を説明する成り行きで、僕はつい日野崎にもおまじないのことを説明することになってしまった。まあ彼女はまっすぐな心根の持ち主なので、口止めしておけば誰かに吹聴するようなことはしないだろう。
「だが、おまじないをしたとしても正直どうにかなるとは思えないがなあ」
頬杖をついた明彦が渋い顔でぼやいて、続ける。
「だって大森が気になっているバスケ部の男子ってのがどんな奴かしらんが、そいつも大森が軽く扱われて名前もいじられているのに他の奴と一緒に傍観しているんだろ。……言うて、俺も同じ立場だったらマネージャーの仕事分担にまで口出ししようとは思わないし、本人が反発もせず黙っていたら何とも思わないかもわからん。加えて、もっと見た目が良くて積極的なもう一人の女子マネージャーがいるんだったら、そっちに目が行っても仕方ないんじゃないかって気がするわ」
彼の見立てでは、可哀そうだが大森さんの意中の相手が彼女に振り向くことはないのではないかということらしい。
僕は隣のセーラー服の少女の方を見やる。
「日野崎も同じように思うか?」
「いや、あたしが思ったのは大森さんは理解してくれる恋人がほしいのかもしれないけど、それよりも自信を持つのが先なんじゃないかなってことなんだよね。そのためには大森さんを認めてくれるような友達とかを作る方が解決になるんじゃないかと思うんだ。おまじないなんて、現実逃避みたいなことよりも」
「なるほどね」
感覚的に答えているのかもしれないが、彼女の言うことは案外的を射ている気がする。
僕は納得して日野崎に頷いたが、向かいの明彦はなげやりな調子で言い返す。
「そりゃあ理想論はそうだが、本人が今の環境を変えたがってはいないんじゃないか? マネージャーの仕事を我慢して地道に続けることに、意義を見出しているとかさ。……『石の上にも三日坊主』とか言うしな」
「三年だよ。三日だと何一つ我慢できてないだろ」
一回だけ顔を出して辞めているレベルだ。
だが彼は僕の指摘に舌打ちをして顔をしかめた。
「細かいやつだな。お前は日本語警察か」
「このレベルで日本語警察なら、世の大人はみんな日本語警視正くらいになるっての」
そんな僕らの小競り合いを見ていた日野崎が「何それ? 警察?」とポカンとした顔で尋ねる。
明彦が「む?」と小さく唸って彼女に向きなおった。
「日野崎は知らないのか? ええと、ネットの掲示板でこういう言い回しをたまにするんだよ」
「そうそう。アニメでスポーツや料理が登場したときに、SNSとかで『自称経験者』が現れて『実際はこういう描写じゃない』って文句をつけることがあるんだ。そういうのを『弓道警察』『料理警察』みたいに形容する風潮があってさ」
「ほら。鍋物をするときに、やたらとこだわって仕切る人を『鍋奉行』とか言うだろ。あれみたいなもんだ」
僕らはこの手の俗語にあまり詳しくない彼女のために簡単に説明した。
「へえ。つまり、『警察』の意味が広がって『取り締まる人』の代名詞になっているんだね。それで他人の行動とかに文句をつけて取り締まる人を『何とか警察』っていうんだ?」
彼女は僕らの言葉に感心したように目を丸くする。
「それじゃあ、犯罪を取り締まる人は『犯罪警察』ってことだね?」
「それだと意味が一周しとる」
「警察は元々、犯罪を取り締まるだろ」
僕と明彦は間髪入れずに突っ込んだのだった。
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