レトロニムと幻の広場

第10話 「見えない広場」

 ギリシャ神話に太陽神アポロンに恋をしたために、花に姿が変わってしまった水の精の話がある。太陽を愛するあまり、常に陽光を見上げたことからその花はHelianthus、つまりギリシャ語で太陽の花と呼ばれるようになった。これはヒマワリの学名でもある。


 しかし実はヒマワリはアメリカ大陸原産なので、古代ギリシャに存在しなかった。そのため現在ではこの神話に出てくる「太陽の花」とは同じく向日性の花、マリーゴールドなのではないかという説が有力だ。


 経緯としては、大航海時代以降にヨーロッパにヒマワリが広まって以降「太陽の花と言えばヒマワリ」というイメージが定着し、そのまま学名になってしまったということらしい。


 言葉とはその時代の状況や価値観が流転することで意味あいが生き物のように変わるものなのだろう。




 十人ほどの少女たちがリズムに合わせて伸びやかな肢体をきびきびと動かしていた。その洗練された動きはレンガが敷かれた中庭の中心で異彩を放っている。


 夕暮れが近づくある初夏の日の放課後、僕はその風景を横目に渡り廊下を本校舎の方へ歩を進めていた。彼女らはダンス部の部員で、いつもこの場所で練習をしているのである。


 やがてスピーカーから流れる音楽が変わった。ダンス部員たちは一転して不自然なほど硬直的な動きで手足を動かしている。あれはいわゆる「ロボットダンス」というやつだろう。


 ふと、思い出したように僕は呟く。


「そういえば最近は機械技術も随分進歩しているらしいけど。もしロボットが人間みたいに滑らかに動くようになったら『ロボットダンス』は何て呼ぶのかな」


 その言葉を聞きとがめて、隣を歩いていた黒髪で色白の少女が肩をすくめる。


「それはまた変わった疑問ね。あなたらしいともいえるけれど」


 僕にとって最も親しい間柄の少女、星原である。爽やかで涼し気な夏用の制服を着た彼女は、すまし顔で「ふむ」とかすかに鼻を鳴らす。僕らは習慣になっている勉強会のために図書室の隣の空き部屋に向かっているところだ。


「まあ、ダンスの動きを形容するのに使われるくらい、ロボットが『機械的な動きをするものの代名詞』として認知されているということよね。いわゆる『代名詞的な存在』ってやつかしら。ジャンルや概念の代表として扱われている言葉。……でもイメージが広がってしまった後で『時代の流れで扱いが変わって別ものになっていた』なんてのもよく聞く話だわ」


 いわゆる「下駄箱」をもう下駄をいれていなくとも「下駄箱」と呼ぶようなものだろうか。


「つまりあるものの印象が一般的にイメージを共有されていたのに、現実とは離れたものになっていたみたいなやつかな」

「ええ。例えばオオカミなんかも『一匹狼』なんていうくらい孤高のイメージがあるけれど、実際には家族の『群れ』で生活する生き物だものね。子供の狼が成熟して別の縄張りを探すときに単独で行動するから、そのイメージが広がったそうよ」

「じゃあ、あれだな。それでもそういう言葉やイメージが残っているって言うことは仮にロボットが人間みたいに動くようになっても、『機械的に動くもの』というイメージはひとり歩きし続けて『ロボットダンス』という言葉は残るものなのかな」

「そうね。言葉に一度イメージが定着すると、何かのきっかけがなければ変わらずにそのまま使い続けられるのではないかしら。たとえ、それが本質と既に異なってしまっていても」


 僕らがそんな風に言葉の由来と意味について雑談を交わしながら校舎の廊下に入った、ちょうどその時だった。


「だから、そんな場所はないんだってば!」

「でも、おかしいじゃないですか?」


 廊下の曲がり角から半ば言い争うような声が響いてきた。目を向けると奥の方に二人の女子生徒が佇んでいる。


 一人は銀縁の眼鏡をかけたキャリアウーマンといった雰囲気を漂わせた少女。僕らと同学年で新聞部員の清瀬きよせくるみという生徒だ。以前にトラブルに巻き込まれていたところを助けたことがあるのだが、僕とは反りが合わないので必要がない限りはあまり関わりあいになりたくない人物である。


 もう一人は見覚えがないが、小柄で髪を首のあたりで切りそろえた大人しそうな少女だ。幼げな顔立ちで、前髪は長く片目が隠れそうなくらいだ。リボンタイの色からして二年生らしい。


「とにかくこれ以上、私につきまとわれても困る。……おや、そこにいるのは月ノ下くんかな? それに星原さんも」


 清瀬は僕らに気が付いて顔を向けるやいなや、にこやかな表情で近づいてくる。直観だが何となく良い雰囲気は感じない。これはもしかして「厄介ごとを押し付ける相手を見つけたぞ」とほくそ笑む表情なんじゃないのか?


「やあ、清瀬。よくわからないけど取り込み中みたいだな。それじゃあこれで」


 僕は会話を避けて通り過ぎようとするが、清瀬は「まあ、待ちたまえ」と行く手を阻もうとする。


「何だよ」

「実は、そこにいる大森おおもりさんという下級生がちょっとしたトラブルを抱えていてね。けれど、私じゃあどうにもならないんだ。君たちなら解決できるんじゃないかと思ってね」


 その言葉に反応して大森と呼ばれた少女はすがるような目で僕らに向きなおる。


「この人たちなら、何とかしてくれるんですか?」

「ああ。彼らはこう見えて頼りになる。一度私も助けてもらったくらいだ」


 まだ何も聞いていないのに勝手に引き受ける流れになっている。それと「こう見えて」は余計だ。僕は流石に何か言い返そうとしたが、まさにそのタイミングで大森さんが前に進み出て遮るように口を開く。


「月ノ下さんに星原さん、ですね。それでは、お願いします。どうか私と『見えない広場』を探すのを手伝ってはもらえませんか?」

「……見えない広場?」


 直前まで場を離れようとしていた僕と星原は、その不可思議な単語に眉をひそめた。

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