第9話 集団を誘導する概念、そして結末

 昇降口を出ると、もう暗くなりかけて街灯の明りが光っている。僕らは三田さんから真相を聞いた後、巴ちゃんと別れて教室でカバンを取ってきてから下校するところだ。


 おぼろげな光に照らされて夜道を歩く少女の姿は、彼女の理知的な雰囲気も相まってどこか幻想的にも見える。校門の方へ歩を進めながら「それにしても」と僕は呟いた。


 星原が「どうかしたの?」とこちらを見つめる。


「いや。人間は自分たちよりも程度を超えた行動や前例を見せられると委縮することもあるし、逆にそれにつられて活発になることもあるわけだろう」


 漫画などで過激なシーンを描写した際に、実際にそれと似たような事件が起こってしまうと表現自粛に追い込まれることがある。


 また映画などの分野でも誰かが斬新な演出を生み出すとそれに影響されて、他のクリエイターも作品の質を上げようと躍起になり、表現力が底上げされることもある。


 既存の人間たちの意識や行動により均衡していた、あるいは膠着した状態を壊す存在。彼女はそれをバランスブレイカーと呼んだ。


「まあ、言ってしまえば突出した存在が良くも悪くもロールモデルになって、集団の雰囲気を変えてしまうということね」


 星原は伸びやかな肢体をかすかに揺らしながら、僕のすぐ隣で囁くように答えた。


「うん。この一件についてもさ。高輪くんたちは最初は沼部先生に復讐をするつもりだったのに、壺が盗まれてSNS上で警察沙汰になりかけているらしいとわかったから怖気づいて『自分たちにはそんなつもりは無かった』と態度を豹変させた。だけど実は盗難そのものが三田さんが仕組んだ狂言で、『盗んだ人間なんていなかった』んだよな。存在しない虚像がバランスブレイカーになることもあるのかと思ってさ」


 実際に極端な行動をとる人間のために、ルールが作られあるいは自粛させられるというのならまだわかる。だが最初から在りもしなかった虚像に触発されて、集団の意識が変えられるというのは何となく不条理に感じられたのだ。


 そんな風に僕が思考を巡らせていると、星原はおもむろに口を開いた。


「ねえ、例えばだけど。月ノ下くんは『普通の社会人』ってどんな風だと思う?」


 普通の社会人? 僕は唐突な質問に何事かと思いながらも、とりあえず答えを口にする。


「そうだな。やっぱり大学を卒業して会社に就職してから、二十代で結婚。三十代で子供を作って四十代で家を建てる、とか?」

「ええ。大体そんなイメージかもね。でも、その『普通の社会人』って本当に実在するのかしら」

「……え? それは居るんじゃないのか」


 思わず聞き返す僕に、星原はゆっくりと首を振る。


「知っている? 去年の大学の進学率は五六%だったわ。就職率は九〇%だったかな。二十代で結婚している人の割合は三〇%。出生率や家を建てる人がどの程度かはわからないけれど、少子化や都会の過密が進んでいるから、全ての条件を満たしている人は案外一割にもならないと思うの」


 全体の一割にしか当てはまらない人間、確かにそれは「普通」とは言わないかもしれない。


「それでも、普通の社会人はこういうものだって感覚があるけどなあ。つまりそれぞれの年代の平均的な大人はこうでないといけないという最大公約数の理想像なのか」


「そうね」と彼女は静かに頷いた。


「つまりいわゆる『普通の社会人』というものはイメージの断片の集合体に過ぎなくて、いかにもどこにでも居そうだけれど、実際にはどこにも居ない存在なのかもしれない。……そして高輪くんたちも似たような状況だったんだと思うわ」


 僕は彼女の言葉の意味をかみしめる。


「なるほど。お互いに沼部先生への不満を言い合っているうちに、その共有してきた意識が、捏造されたSNSのメッセージをきっかけに疑心暗鬼に反転した。それが『あいつなら壺を盗むかもしれない』という方向に加速して、『どこにも居ない壺を盗んだ犯人の存在』を心の中に作り出したわけか」

「まあね。思考や想像力には指向性があるから、複数人のイメージが重なると極端で突出した概念になるのでしょう」


 インターネットで色々な人間が情報を発信できる時代である。昔ならば自分の身の回りにしか比較対象がなかったが、現代ではSNSなどを通じて「社会人ならこれを経験していないとおかしい」という常識を主張したり、「飲食チェーン店でこんなバカなことをしている奴がいた」と自分にとって不愉快な行為をさらしたり、良くも悪くも価値観の主張が氾濫している。

 

 その結果、集団を誘導する極端な概念、バランスブレイカーが生まれやすい状態なのかもしれない。


「高輪くんも陸上部のグループに属しているうちに集団の中の偏った感覚に毒されて、影響されやすい状態になっていたのかな。だから三田さんの作ったSNSのメッセージ画像を信じて、壺を盗んだ犯人の存在を簡単に信じ込んだ」

「そんなところかしらね。三田さんとしては高輪くんが中延くんたちに流されて、問題を起こす前に助けるつもりだったのでしょうけれど。……男子が優柔不断でリードしてくれないと世話を焼く女の子は苦労するものだわ」


 星原はくすりと悪戯っぽく笑う。……いや、なぜそこで僕の方を意味ありげに見るんだよ。


「……わかったよ。星原のアドバイスが解決の助けになったものな。礼を兼ねて今度どこか行こうか?」

「あら、悪いわね」と呟くと彼女はそっと僕に身を寄せてくる。


 なんだかんだで僕の心の均衡を崩してくれるあたり、星原も僕にとってのバランスブレイカーみたいなものではなかろうか。それが良い意味か悪い意味かは今の時点では判断できないが。


 僕は頭の片隅でそう呟いて小さくため息をついたのだった。

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