終章 秋雨 ~第二節~
人を殺すという覚悟のほどがどういったものか、獅伯にはすでに判らなくなっている。みずからあえてそうすることはないが、獅伯にとっては人の命を奪うなどとても簡単なことで、これまでもたびたびそうしてきたからである。
しかし逆にいえば、獅伯はそこまで強く人を殺したいと思ったことがない。獅伯が人を斬るのは相手が自分を殺そうとしてきた時、いわば降りかかる火の粉を払うためであって、憎しみに駆られて人を殺したことは一度もなかった。
だから正直、獅伯には秋琴のその時の気持ちが判らない。一方では妻としての筋を通して夫のために身売りまでした女が、その筋を通した直後に、今度は女としての筋を通すと称して夫の胸を突いて殺す――獅伯には秋琴の心の動きが理解できなかった。
秋琴という女だけがそうなのか、それとも女という生き物すべてがこうした二面性を持っているのか、実は自分のような男にもそういう部分があるのか――師匠とふたりきりで山で暮らしていた頃には思いもしなかったことが立て続けに起こって、獅伯は少し混乱していた。
「……けどまあ、わたしは納得できる部分はあるよ」
降り始めた雨の下、月瑛は静かに嘆息した。
「もちろんあのやさしい人が屑野郎に斬られたことに納得してるわけじゃない。秋琴さんがその本懐を遂げて、屑野郎に後悔させてやったってことにだよ」
「その結果、死んじゃうことになってもですか?」
「成し遂げたい目的と自分の命が釣り合ってるかどうか、それを決められるのは自分自身だけさ。ほかの誰かに決められることじゃない。決めさせていいことじゃない」
「……それには同意だ。いまだに女ってもんはよく判らないけどさ」
獅伯は剣といっしょに背負っていた傘と、それから懐にあった粒銀の入った錦の袋を月瑛に投げ渡した。
「持ってきなよ」
「傘はともかく、あんたがわたしらにこづかいをくれるってどういうことだい?」
「そいつはおれが若旦那を助けた時にもらった金、いってみりゃああいつの命の代価だ。いろいろ思うところはあるだろうけど、文先生を捜す足しにでもしてくれよ」
「そういうことなら酒にして飲んじまうよ。当面の路銀なら、秋琴さんからもらったぶんで何とかなるだろうからね」
自分と妹分の頭上に傘をさしかけ、月瑛は笑った。
「じゃ、先生のこと、よろしくな」
「ああ」
獅伯は女たちに背を向け、陶家の屋敷に向かって歩き出した。
これまでの獅伯は、自分の中の抜け落ちている過去を捜すために旅をしてきた。過去の記憶がないことがどうにも居心地が悪く、そこをはっきりさせないと落ち着かないという漠然とした理由で旅を続けている。
ただ、徐々にだが、少しだけ糸口のようなものも見えてきた気がする。
「――なあ、
ふと背後を振り返る。月瑛と白蓉は、立ち去ることなく大きな弧を描く橋の真ん中に立って、じっと自分を見送ってくれていた。
「何ていったっけ、あれ?」
「何だい? それじゃ判らないよ」
「ほら、江賊にまぎれて船を襲ってきた連中」
「“
「それだ。――そこの一番偉い人、名前は何ていったっけ?」
「本名はわたしも知らないよ。ただ、剣士たちの間じゃ“
「いや。――けど、向こうはおれのことを知ってるのかもしれない」
「だったら気をつけるんだね。噂じゃかなり危ない女らしいよ」
「は? そいつ女なの?」
「公主ってのはお姫サマって意味だよ。世間知らずもいい加減にしな」
「……勉強になったよ」
苦笑する月瑛と少し泣きそうな白蓉に手を振り、獅伯はまた歩き出した。
☆
長江の流れがおだやかとはいえ、それはあくまで北の黄河とくらべればの話である。ふつうの人間にはこの川を泳いで渡りきることはできないし、ましてや自他ともに認める文弱の徒の文先生にはとうてい無理な話だった。
「むぶっ、ぶは――」
いっしょに川に落ちた志載ともつれ合うように流されていたのはほんのわずかな間だけで、今はもう彼がどこにいるのか文先生には判らない。そもそも他人の心配をしている余裕などなかった。
「ぶっ……!」
川に落ちてすでにどれほどたったのか、自分たちが乗ってきた小舟はもちろん、陶家の船の姿さえももはやどこにも見えない。深い夜の闇の中、文先生はただ東へ東へと流されていた。泳ぎが得意ではない文先生がいまだに溺死せずにすんでいるのは、乱戦の中で同じく船から投げ出されたと思われる木箱に全力でしがみついているからだったが、それももう限界に近い。
「う、うう……」
もはや両腕に力が入らない。全身が冷えきってしまい、指先の感覚さえ失われつつあった。残りわずかな体力を振り絞って岸辺に向かって泳ごうにも、その岸辺がどちらの方向にあるのかすら判らない。
白蓉と秋琴を守るためにこうなったことを、文先生は後悔はしたくなかった。したくはなかったが、それでも、どす黒い絶望感が広がってくるのを止めることはできない。いずれ国のために役立てるよう、今は旅をして見聞を広めるていると江万里に揚言した自分が、結局は何もできずに死にかけている。故郷で待つ妻やまだ幼い息子の顔がちらつき、意識が朦朧としてきた。
「――おい、そこの!」
唐突に誰かの声がした。
「しっかりしろよ、おい!」
「…………」
幻聴ではない。はっきりとそう聞こえた。だが、声の主を捜すことはできない。首をめぐらせることさえもはや億劫だった。
「……意識がないのか? 仕方ねえな」
その直後、文先生の身体が強い力で引きずり上げられた。
「うわっ、まるで氷の塊だな。冷えきっちまってるぜ、あんた」
ほとんど動けない文先生が乗せられたのは、がっしりとした馬の尻だった。闇の中で目を凝らすと、精悍な顔つきの若者と目が合った。年の頃でいえば文先生とそう大差はないだろう。ただ、文先生とは正反対に、よく日焼けした若者だった。
文先生を自分の後ろにまたがらせた若者は、馬首を取って返し、手綱を打った。
「……この馬、私より泳ぎがうまいですね……」
どうやら自分は助かったらしいとようやく察した文先生の口からこぼれたのは、そんな場違いな感想だった。
「は? ああ、そうだな。馬は賢い上にいろんなことができるすぐれた生き物だぜ。ヘタな人間よりよっぽど役に立つ」
若者はそういって笑ったが、ふたりの人間を乗せて力強く川を泳ぐこの馬も、そうそうお目にかかれない名馬なのかもしれない。
「川上で何かあったのかい?」
「……はい?」
「いや、俺たちはそこの岸辺で夜営してたんだが、少し前からいろんなもんが流れてくるって俺の連れたちが気づいて騒ぎ始めてさ」
男が指さすほうを何とか眺めやると、馬の鼻面のさらにその先に、赤い光が見える。どうやら文先生は、自分で想像していたより、かなり岸辺に近いところを流されていたらしい。不幸中のさいわいだった。
「そんでまあ、川を流れてくるんだったらそりゃあ誰のもんでもない、天からの授かりものってことで、もらえるもんはもらっておこうと思ったんだが、そしたらいっしょに流されてるあんたを見つけたってわけ。――さすがに見殺しにしたんじゃあしたの目覚めがよくないだろ?」
「あ、ありがとうございます……」
「ま、ついでだ、ついで。――っていうか、あんたが持ち主ってことはないよな、そのへんを流れてる木箱とか」
「いえ、あれは……江賊が、出まして……」
「江賊?」
弱々しく語る文先生の言葉に、若者は今ひとつぴんと来ていないようだった。
岸辺に見えた赤い光は焚火によるものだった。その周囲には一〇人以上の男たちとそれを上回る数の馬たち、それに馬車もある。何かしらの荷を運んでいる商人かと思ったが、文先生はすぐにその考えを否定した。
長江沿いの道を行く商人が江賊を知らないはずはない。つまり、この若者は、少なくともこのあたりで商売をしている人間ではない。
何より、川の水に膝下まで浸かって流れてくる木箱や樽を回収しようと騒いでいる男たちの言葉が、文先生には理解できなかった。それは明らかに異国の言葉だったのである。
そこまで考えて、文先生は気を失った。
――完――
龍に拝せよ 第三部 金陵烈女伝 嬉野秋彦 @A-Ureshino
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