終章 秋雨 ~第一節~

 とう大人への詳しい説明はこう万里ばんりに任せ、はくは先に屋敷をあとにした。獅伯はもともとあれやこれやと責任を負うのが嫌なたちだし、そうでなくとも、立場からいえば江万里がことの次第を語るべきだと思ったからである。

「愁嘆場に居合わせるのも居心地が悪いしねえ」

 陶家の屋敷からそう遠くない橋の上で獅伯と落ち合った月瑛は、溜息交じりにそう小さく笑った。

「愁嘆場って?」

「いや、だって屋敷には、一応、夫を失ったばかりの若妻がいるわけだろ?」

「あ、あ~……あれね」

 げつえいの言葉でさいの妻のことを思い出し、獅伯はぎこちなく笑った。

「どうしたんですう、獅伯さま?」

「それがさ……確かに最初はこう、すごい愕然としてたんだ、あの奥さん」

 父親とともにあの夜の顛末を聞いていたこうくんは、夫が無慈悲に捨てたかつての妻に刺されて死んだという話を聞かされ、目を見開いて絶句していた。陶大人のほうは、それは事実なのかと――婿の死のことより、それ以前の不名誉な過去について根掘り葉掘り聞きたがっていたが、獅伯もさほど詳細な事情を知っているわけではない。だから、たんろうはんしゅうきんに長く仕えていた老僕がまだいるとだけ伝えて、獅伯はひとまずその場を辞去したのだった。

「でもな、どうやらあの旦那の人間性ってもんを理解したんだろうけど、驚きから立ち直ったとたん、奥さん、やたらつまんなそうな顔してさ」

「つまんない……?」

「おれももう関わり合いになりたくなかったから聞かなかったけど、何だかなー、もともとままごとみたいな夫婦だったんだよ。大人じゃないっていうか……どっちも大人としてのけじめのつけ方を知らないというか、知りたくない人間が、子供のまま夫婦ごっこをしてたというかさ……だからその表情を見た時、この奥さんは、仮にも旦那が死んだって聞いても哀しいだなんて思ってなくて、ただ時間を無駄にしたとしか思ってないんじゃないかってな、そう感じたんだよ」

「……そうかい」

「何つーか、人間てのは怖いね。俺なんかは、正面から刃物ちらつかせてくる連中のほうが、判りやすいぶん怖さは感じないんだけどさ、ああいう人畜無害そうに見える人間て、何を考えてるか判りづらいだろ?」

「そうですねえ……」

「そういう人間が、ときどきこっちの想像もしないことをやらかす。いや、いいんだよ、周りを巻き込まなきゃさ。けど今回みたいに、ちょっと賢いだけの横着な男がヘンなところでヘンにやらかした結果、周りの人間を巻き込んで死人まで出すことがあるってのがさ……おれの師匠が人里を嫌って山奥で暮らしてる気持ちが少しだけ判ったよ」

「じゃあお山に戻るのかい?」

「いや、そうもいかないだろ」

 橋の欄干に寄りかかり、獅伯は運河の水面に視線を落とした。

 あのあと、用心棒と江万里の護衛たちは、残っていた賊たちをすべて斬り伏せた。ただ、船乗りたちに大勢の死傷者が出た上に帆が焼かれたこともあり、このままりんあんに向かうのは無理となって、獅伯たちは船を残して江万里を守りながらけんこうに引き返してきたのである。

 今頃は、あの船にあらたな船乗りたちが乗り込み、帆の修繕を終えて、あらためて臨安へ向けて再出発しているだろう。しかし、江万里が臨安に戻る道中の護衛という形で雇われている獅伯は、その仕事を終えるまで江万里のそばを離れられない。

「そういう筋は通すんですねえ」

「どんな筋でも通すっての。……でもまあ、そういうことだから、今すぐぶん先生を捜しにいくってわけにはいかなくてさ」

「判ってるよ」

 月瑛は白蓉はくようを抱き寄せ、その頭を撫でた。

「先生が珍しく男気を見せてくれてなかったら、この子も斬られてたかもしれないからね。とりあえずわたしらも、秋琴さんの墓を建てたら先生が落っこちたあたりに戻ってみるよ」

 あの時、志載といっしょに夜の長江に落ちた文先生は、その行方がいまだに掴めていなかった。志載ともみ合っている間に流されたのかもしれない。

「屑野郎のほうは、少し離れたところの岸辺に打ち上げられてたんだけどねえ」

「……それにしても秋琴さん、最後の最後で何だってあの男を刺したりしたんだ? 実はそんなに憎んでたってことか? だったらわざわざ姑の位牌を届けるとかそんな真似しなくてもよかったと思うけどな」

「だねえ。いっそわたしにいってくれりゃあ、さくっと始末してやったのにさあ」

「獅伯さまはともかく、には秋琴さんの女の意地ってものが判らないんですかあ? 正直がっかりですよう」

「は? 何だい、それ?」

「まあ、わたしも途中まではすごく悔しかったですけどねえ」

 結果的に、秋琴の最期を看取ったのは白蓉だけだった。あの夜の修羅場が終わりを迎え、獅伯や月瑛が駆けつけた時には、すでに文先生は夜の長江に姿を消し、秋琴も息を引き取っていたのである。

「秋琴さんがあんな状態だったから、わたしも全部を聞かされたわけじゃないですけど、それでも何となく理解はできましたよう。……秋琴さんは、それこそ筋を通したかったんです」

「筋?」

「女として、妻としての筋ですよう」

 志載は夫としては不義理だった。ただ、それでも秋琴は、自分の一族のために努力してくれた志載に対して尽くすことが、妻としての自分の務めだと考えていた。夫が不義理だから自分も不義理になっていいわけではない。秋琴は親からそう教えられてきたし、それが彼女の女としての矜持でもあった。夫の母の葬儀のために身売りまでしたのも、その後、妓女としてはたらき続けながらも身請け話に背を向けてきたのも、すべてその思いがあったからである。

 だが、夫に尽くす妻としての思いが強いぶん、それが以前から裏切られていたと知り、愛の深さが反転した時の絶望と怒りはすさまじかった。

「秋琴さんは、探花楼を出たいとわたしたちにいった時には、もう決心してたみたいですよう」

「何をだよ?」

「妻としての筋は通したから、次は女としての筋を通すことをですよう」

 夫の母の葬儀を出した時点で、秋琴に残された妻としての務めは、夫に母の位牌を渡すことくらいだった。秋琴が身請けまでしてもらって志載を追いかけようとした理由のひとつは、義母の位牌を志載に手渡すことで、妻としてのすべての務めをまっとうできると思ったからだろう。

「そこまでやれば、秋琴さんは自分自身を立派な妻だと思うことができる。何ひとつ恥じるところなく、妻としての役目をまっとうしたと思えるんだって……だから位牌を手渡すことにあそこまでこだわったんですよう」

「それが妻としての筋の通し方、か。……じゃあ、女としての筋の通し方ってのは、つまり――?」

「わたし、あの人が文先生を脅してる時に、本気で後ろから刺してやろうと思ったんですよう」

 白蓉は髪に差した簪に触れながら、自分の足元を見つめた。そこに、ぽつりと小さな黒い点が落ちる。

「――でも、秋琴さんはそれを察してわたしを止めたんです。ただそれは、わたしに人殺しをさせたくないからじゃなかった。……ううん、もしかしたら、その気持ちもちょっとはあったのかもしれない。だけど一番の理由は、自分の手であの人を殺したかったんだと思います」

「…………」

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