第六章 桂花無惨 ~第八節~

 こんな幕切れは完全に予想外だった。武林に名を知られた女剣士と剣を交えて、力およばず斬り伏せられるならともかく、泉玉は斬られてすらいない。自分の小手先の技をやり返されてのどに穴を開けられ、腹を蹴られて肋骨を何本もへし折られた。おそらく内臓に折れた骨が突き刺さっているのだろう。

 だが、これは剣士の死にざまではない。猪にぶつかられて深手を負った狩人のような――少なくとも剣士として生きてきた人間の最期ではない。

 そのことが泉玉には許せなかった。

 何もかもが許せなかった。

 女だからというだけで自分から何もかも奪おうとする男たちも、そうなりたくなくて強くなった自分の上に、さらに強く美しい女がいたことも、今またあらたな女が、よりによって簪一本、蹴りひとつで自分を圧倒したことにも――。

 泉玉の人生は、許せないものに対する怒りと憎しみにいろどられていた。

 そしてそれは、彼女が吐き出した血で真っ赤に染まってそこで終わった。


          ☆


 文先生が小舟を引き寄せ終えた時、血豆が潰れたためか、その手は赤く染まっていた。それでも文先生は、歯を食いしばって綱を手繰り寄せたまま、じっと志載を睨みつけている。

「……さあ、早くあれに乗って逃げたらどうです? 私だってそう長くはささえていられませんからね」

「あ、あ……」

 文先生の言葉に、志載は眼下の小舟と自分が手にしている剣とを見くらべておろおろしている。いざ逃げる段になって、どうやって小舟に乗り移ればいいのか判らずにいるのかもしれない。

「早くしてください……さすがにもう、手に力が入らないんで――」

「ま、待て! もうちょっと――」

 ふつうに考えれば、あとはもう川に飛び込んで乗り移るしかない。それを思いつかない、あるいはそれを実行できないのは、志載の小心さのせい以外の何物でもないのだろう。こんな男に脅されていいなりになっていることが悔しく、白蓉は唇を噛み締めた。

「…………」

 無言のまま、髪に差していた簪を引き抜く。白蓉の目には、文先生と向き合っている志載のがら空きの背中しか見えなかった。

「……だ、め」

 簪を逆手に持って白蓉が立ち上がろうとした時、彼女がかかえていた秋琴が、かぼそい声で呟いた。

「そ、れ――好きな人から、もらっ……大事な、もの、でしょ……? 汚しちゃ、駄目……」

 途切れがちの声で白蓉をたしなめた秋琴は、氷のように冷たくなった手で簪を握り締める白蓉の手を押さえた。白蓉の心の動きを見抜いていたのかもしれない。

「だっ……何で、そこまで――?」

 この期におよんで志載をかばおうとする秋琴に、怒りにも近いもどかしさが込み上げてくる。自分や文先生が脅されているとかいう話は、この際もうどうでもいい。それよりも、秋琴自身が決してむくわれることのない思いにいまだに囚われていることが、白蓉にはがまんできなかった。

「どうして……さんざん馬鹿にされて、ないがしろにされて、どうしてそこまで耐えちゃうんです?」

「ち、が……そう、じゃない、から――」

「……え?」

 弱々しく首を振った秋琴は、のろのろした動きで自分の髪に残っていた粗末な簪を引き抜いた。もともと彼女が持っていた美しい簪のほとんどは、身請けのために探花楼の女将に渡してしまって、今はこうした飾り気のないものしか残されていない。

「秋琴さん? 何を――」

 目もとににじんだ涙を白蓉がぬぐったその刹那、少女が止めようと動くことさえできない一瞬の出来事だった。

「秋琴さん!?」

「え――」

 文先生の叫びにはっと振り返った志載の胸へと、身体ごとぶつかるような恰好で、秋琴が粗末な簪を深々と突き立てていた。瀕死の秋琴のいったいどこにそれだけの力が残されていたのか、白蓉はもちろん、文先生も目を見開き、ただ凍りついていた。

「が、はっ……!」

 志載は聞き苦しい呻き声をもらし、激しく咳き込むたびに真っ赤な血を吐きながら、秋琴を突き飛ばした。

「ぶぉっ……ごふ、げっ――」

 おそらく秋琴の簪が肺に穴を開けたのだろう、呼吸に合わせて志載の口からは血の泡があふれ、襟もとがあっという間に赤く染まっていった。

「秋琴さん――!」

 倒れ込んできた秋琴を抱き止め、白蓉は思わず後ずさった。滅茶苦茶に剣を振り回しながら、志載が覚束ない足取りでこちらへ近づいてくる。秋琴へ復讐するためというより、すでに正気ではないのかもしれない。今すぐ暴れるのをやめて止血し、手当をすれば助かるかもしれないのに、おそらくこれまでの人生でここまで手ひどく傷つけられたことのない志載には、自分が負った傷の深さも、それがもたらす結果も、何も判っていないのだろう。

「白蓉さん、秋琴さん! に、逃げてください!」

 錯乱する志載に、背後から文先生が組みついた。

「先生!?」

「お、おふたりは、どこか、安全なところに――あ、あなたも、今すぐ暴れるのをやめないと、本気で、し、死んでしまいますよ!?」

「ごっ、わ、わたっ――じ、し、じにたぐ、ぐほっ……!」

 文先生の言葉も耳に入らないのか、もはや力加減すらできずに暴れていた志載は、ひときわ大量に血を吐いた拍子に大きくよろめき、船縁を越えてしまった。

「先生!? 先生――」

 秋琴を甲板に横たえ、白蓉は慌てて船縁に駆け寄った。しかし、志載もろとももみ合うように川へ没した文先生の姿はどこにも見えない。ただ少女の悲痛な叫びだけが、冷たい川面を打ってかすかにこだまするだけだった。


          ☆


 遠くの空がぼんやりと赤い。ただ、その赤さは徐々に小さくなり、夜明けまでまだ一刻あまりを残す夜空の暗さに馴染んでいずれ見えなくなるのだろう。

 ずぶ濡れのまま岸辺にへたり込み、呆然とそれを眺めていた天童に、元章が声をかけた。

「……俺は、おまえはもっと達観した人間だと思っていたんだがな。若いわりに、そのあたりをわきまえているというか――」

「何だよ……何がいいてえんだ、旦那?」

「いや……あの場面でおまえがあそこまで逸るとは思ってもみなかった。あの林獅伯とかいう小僧に、何か存念でもあったのか?」

「……ない」

 嘘だった。

 もちろん、天童と獅伯との間にこれといった因縁はない。会ったのは二度目、きちんと言葉を交わしたのはきょうが初めてだった。

 にもかかわらず、天童が勃然と湧き上がってきた獅伯への殺意を抑えられなかった。戦いの最中はその理由が判らなかったが、狂騒が去った今なら理解できる。

 天童の獅伯に対する思いの根源には、強い嫉妬がある。剣士として、男としての獅伯に対する強烈な嫉妬が、殺意に変わって天童自身にも御せなかったのである。

「……あいつ、どう見ても俺より若いだろ?」

「だろうな」

「そいつの首をよ、雪峰先生は、今の自分の地位と引き換えにしてもいいっていうんだぜ? あいつにそんな価値があるのか?」

「先生にとってはあるんだろう。……それが腹立たしいのか?」

「……かもしれねえ。実際、あいつは史春より強かった。それに俺よりも」

「おまえより強い剣士などいくらでもいる。先生をはじめ、王師兄も、それに……俺や泉玉も、おまえより強かった」

「でもよ、あんたらは俺より目上の人間だ。化け物みてえな雪峰先生は別にして、あんたらはみんな、俺より長く修行してるよな?」

 今の元章と同じ年齢になるまで修行すれば、天童は元章より強くなれる自信がある。あの王魁炎でさえも、同じ年月の修行を積めば凌駕できると信じている。そのつもりで日々強さを磨いている。そう思えるから、彼らに対しては嫉妬心が起きない。

「けどよ、あいつは……認めること自体がまんならねェけど、俺より若いのに、もう俺より強いんだよ。妬ましくねえはずねえだろ?」

「……泉玉と同じようなことをいう」

 天童の隣に横たわっていた元章が力なく笑った。

「泉玉も、先生のことをずっと妬んでいた……自分が傷だらけになりながら今の強さを手に入れたというのに、先生はもっと若く、美しいまま、もっと強い……それががまんできない。いつかもっと強くなったら、先生を斬り殺してやるというのが、あいつの口癖だった――」

「先生は……何かもう別格だろ?」

「なら、林獅伯もそうなのだと思え。あれも怪物なのだと」

「……は?」

 天童は思わず元章の顔を見やった。

「船から落ちる瞬間、正面から奴の目を見て、俺には何となく判った――」

「何がだよ?」

「飄々としていて掴みどころのない小僧だが、根本の部分に――あれは、もっと化け物じみた闇のようなものをかかえている。本人がそれに気づいているかどうかは判らんが、俺からすれば、あの小僧も充分に化け物だ……」

「だったら……あんた、どうして俺をかばったりした――っ」

 膝をかかえて身震いした天童は、肌寒さに大きなくしゃみをした。こんな状況でくしゃみをしてしまったことが妙に滑稽で、半分泣きながら苦笑がもれるのを止められなかった。

「あんただって……俺からすりゃあ、俺を盾にしてでも江万里を斬るべきだったろ? 小僧と刺し違えてでも斬れたかもしれねえ。なのにあんたは何でそうしなかった? あの時、むしろ俺があいつに斬られないようにかばってくれただろ?」

「自分でもよく判らん」

 元章は深い溜息とともに目を閉じた。

「……ただ、誰よりも強くなりたいと思っている今のおまえは、父親の死にざまを知ってしまう前の、若い日の俺に少し似ている。それが何か関係していたのかもな」

「そんな理由かよ……馬鹿じゃねえのか?」

 天童はそう吐き捨てたが、元章は怒りも笑いもしなかった。もう何もいわなくなっていた。

「冗談じゃねえ……何でこうなった? 俺にどうしろっていうんだよ――」

 両手で顔をおおい、天童は呻いた。天童は死に、はぐれた泉玉も無事でいるとは思えない。まずは生き延びたことを喜ぶべきなのに、天童の心の中に広がるのは絶望感だけだった。

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