第六章 桂花無惨 ~第七節~

「!」

 乱戦の中でも明らかに動きの違う男たちがいた。一方は体格から見ておそらく元章で、もう一方は、誰かを背負って元章の相手をしている。

「あいつ……やっぱ林獅伯か!」

 剣を交えたことはなくとも、元章の強さは天童も判っている。その元章を向こうに回し、しかも人をひとり背負って互角に戦っている時点で、今の獅伯の実力は元章すら凌駕しているのかもしれない。

「くそ……っ!」

 胸中に卒然と湧き上がってきたどす黒い怒りに、天童は自分でも驚いていた。なぜ自分が――目にしたのはまだこれで二回目だというのに――林獅伯という剣士に対してこれほどの憤りを感じるのか、天童にもよく判らない。判らないが、その時の天童は、あの男だけは自分の手でかならず斬らなければいけないと感じていた。

「元章の旦那、助太刀するぜ!」

 溜まりに溜まった怒気を鼻息荒く吐き出し、天童は両者の戦いに割って入った。

「天童!? 余計な真似をするな!」

 寡黙な元章が珍しく怒声をあげる。だが、天童も退くつもりはなかった。

「あんたが斬りたいのは、背中にいるじいさんのほうだろ! 俺の狙いは小僧のほうだ! 雪峰先生が首を獲ってこいってみんなに命じてんのは、この林獅伯なんだよ!」

「……何?」

「は!? いきなり横から出てきて、あんた何いってんだ!?」

「とにかくてめえが邪魔だってことだよ!」

 元章のほかにもうひとり敵が増えたことで、獅伯は戸惑いを隠せずにいる。天童は元章を押しのけるように前に出ると、怒りに任せて剣を振るった。

「ちょ、おい、あ、あんたもしかして、石城にいなかったか!? 確か、史春を連れて逃げてった――」

「黙ってろ! てめえは俺に斬られて、背中のじいさんは元章に斬られりゃそれでみんな丸く収まるんだっての!」

「そんな勝手な――お、おい、汚いぞ、あんたら!」

「黙ってろ!」

「天童! 落ち着け!」

 そう天童をいさめながら、元章もまた天童と動きを合わせ、獅伯を船縁まで追い詰めていった。いかに痩身とはいえ、やはり老人を背負っているというのが大きな足枷になっているのだろうし、さらにふたり同時に相手をしなければならない獅伯が一気に劣勢に立たされるのは当たり前の話だった。

 そんな相手に勝って嬉しいのかという疑問を、天童は由来の判らない獅伯への怒りで押し潰した。今の天童にとって絶対にゆずれないのは、自分の剣で獅伯を斬り伏せること――それはおそらく、江万里を斬らねばならないという元章の思いよりも強い。圧倒的に自分たちが有利な立場にあるというのに、天童は焦りにも似た激しい衝動に突き動かされ、両手で握り締めた剣を渾身の力で繰り出した。

「何がどうなってんのか知らないけどさ――いい加減にしろよ」

 短い舌打ちと冷ややかな呟きを残し、獅伯の姿が不意に消えた。

「!?」

 獅伯の肩口に叩き込むつもりだった剣が、がつんと耳障りな音を立てて船縁に深く食い込む。腕に伝わった衝撃に天童が顔をしかめている間に、獅伯は天童の頭上へとまさしく舞い上がっていた。

「くっ……! 小僧!?」

 帆柱から下がっていた縄を左手で掴み、それを手繰りながら帆柱を蹴るように一気に駆け上がった獅伯は、そのまま天童たちの背後へと回り込んでいた。

「邪魔を――俺の邪魔をするな! 賈似道に与する輩は斬らねばならんのだ!」

「あんたの事情なんておれの知ったことじゃない」

 振り返りざまに獅伯へ――獅伯は背負う江万里へと繰り出された元章の一撃は、たとえそれが巨木であろうと両断せずにはいないであろう速さ、いきおいを有していたように見えた。獅伯もろとも江万里を斬殺することさえ可能だったかもしれない。

 だが、獅伯は元章の会心の一撃を、ほんのわずかな動きで跳ね返していた。

「!?」

 その瞬間、獅伯の剣がどのような精妙な動きを見せたのか、その夜の天童にはついに判らなかった。天童に判ったのは、脇腹に吸い込まれる寸前の元章の剣を、獅伯の剣があらぬ方向へとはじき飛ばしたことと、そこからの流れるような斬撃が、元章の腹を真一文字に割っていたということだけだった。

「旦那!? おい!」

「……!」

 大きくよろめいた元章は、いまだに船縁に食い込んだ剣を抜けずにいる天童に寄りかかると、そのまま天童をかかえ込むようにして船縁の向こうに転げ落ちた。

「!」

 川に落ちる寸前、最後に天童が見たのは、大きく剣を振りかぶっていた獅伯の冷ややかなまなざしだった。


          ☆


 気づけば剣戟の音がずいぶん小さくなっていた。襲撃してきた江賊たちと、それを迎え撃つ用心棒たちの戦いにも、そろそろ決着がつこうとしているのかも知れない。

 だが、もはやほかの連中のことなどどうでもよかった。今は目の前にいる女をどうにか切り刻んでやりたい。そのことしか頭になかった。

「……人が強くなるのにもっとも重要なものは何だと思います?」

 頬を静かに垂れ落ちていく血を舐め取り、泉玉は聞いた。

「運だろ」

 女は即答した。泉玉はすでにいくつか手傷を負っているというのに、月瑛のほうは黒衣の袖口にわずかな切れ目が入っただけで、いまだに毛筋ほどの傷も負っていない。それが現在の彼我の力の差だと、泉玉は認めたくなかった。それは、運否天賦で強さが決まるなどと平然といい放つ女を、泉玉は絶対に認めたくはなかった。

「強くなるには運が重要……? なら、おまえが名を馳せているのもただ運がよかったと――あの女が雪峰先生などと持ち上げられているのも、ただ単に運がよかっただけだと、おまえはそういいたいわけですか?」

「は? あんたが聞いたから答えただけだろ。わたしはそう思うってだけの話さ。……というか、あんたもしかして、“せつばいかい”の人間かい? 雪峰先生ってのは“こうせつこうしゅ”のことだろ?」

「黙りなさい――」

 眉間に深いしわを刻み、泉玉は月瑛の懐へと踏み込んだ。手傷は負っていても動きが鈍るほどではない。自分はまだやれるという思いに憎悪という火をくべて、泉玉の剣が月瑛の首筋へ走った。

「っと……!」

 切っ先がかすめて月瑛の襟もとが裂ける。あと一歩、もう少しで月瑛を押し切り、その白い肌を血に染めてやれるという予感に、泉玉は唇をにゅいっと吊り上げ、素早く身体を旋回させた。

「――永遠に!」

 遠心力を上乗せした横殴りの一撃で、月瑛がかざした剣をへし折り、そのまま相手の急所に致命的な打ち込む――という動きはいわば囮で、泉玉は袖口から引き抜いた簪を左手に持ち、振り返りざまの斬撃と同時に月瑛の目もとに投じた。

「――ひとりで勝手に腹立てて何いってんだい? あんたなんか最初から眼中にないっていったろ?」

「!?」

 月瑛の右目に突き立つはずだった簪は、まるで最初からそこに飛んでくるのが予見されていたかのように、月瑛の指先にはさみ取られていた。

「底意地の悪い小細工が得意な師匠に育てられたんでね、あんたみたいな人間のやり口は何となく判るんだよ」

「くっ――!」

 月瑛が泉玉の剣をはじき返す。想像以上のその力強さに思わずよろめいた泉玉の目の前に、さっき自分が投じたはずの簪が飛んできた。

「――――」

 鋭く研がれていた簪の脚がのどに突き刺さる。咄嗟にそれを引き抜こうとした泉玉のみぞおちに、月瑛の無造作な前蹴りがめり込んだ。

「ぐ……っ」

 派手に吹き飛ばされて背中から船縁に激突した泉玉は、血を吐きながら咳込み、どうにか立ち上がろうとした。

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