第六章 桂花無惨 ~第六節~

「先生! 先生の衣、両袖ください! 細長く裂いて! あとお酒!」

「えっ? ああ、はい!」

 足早にその場を立ち去る月瑛を見送っていた文先生は、白蓉の言葉で我に返り、落ちていた剣で自分の衣の袖を切り落とした。

 白蓉は秋琴の衣を脱がせ、無惨な傷口を酒で清めてから軟膏を塗り込むと、その上からきつく布を巻きつけていった。高名な女剣士のもとで修行していただけあって、白蓉の手際はなかなかのものだったが、さすがにこれだけの傷ともなると、薬を塗ってそれでどうにかなるものではない。白蓉はあたりを見回しながら文先生に耳打ちした。

「秋琴さん、早くお医者さまに診てもらわないと危ないです……」

「ええ……月瑛さんはご自分でどうにでも切り抜けられるでしょうし、先に私たちだけで逃げましょう」

 力なく苦笑し、文先生は秋琴を背負った。

 文先生たちが乗ってきた舟は、飛爪と縄でつながれていたおかげで、遠くに流されることなく、少し離れたところでふらふらとたゆたっていた。

「白蓉さん、私が」

 秋琴を船縁に寄りかかるように座らせ、文先生は縄を掴んで舟を手繰り寄せ始めた。

「け、けっこう……お、重いというか、き、きつい……!」

「せ、先生――」

「ああ、大丈夫ですよ、このくらいなら私ひとりで――」

「いえっ、あの、その……」

「はい? ――!?」

 どこか上ずった白蓉の声に振り返った文先生は、すぐ目の前に立つ男を見て驚き、思わず縄を手放してしまった。

「そっ、その舟……! それっ、寄越せ……!」

 青ざめた顔で剣を持ち、震える切っ先を文先生に向けていたのは、この修羅場に似つかわしくない、上等な衣をまとった書生風の男だった。

「あ……! あなた、もしかしてあなたが秋琴さんの夫の、呉さん、ですか……?」

 陶家に一度お邪魔したことはあったものの、文先生が実際に会ったのは陶大人と江万里だけで、呉志載については獅伯の話で聞いていたにすぎない。が、こうして相対した瞬間、文先生は、目の前にいるのがくだんの薄情な男だとすぐに判った。これまで聞いていた話から想像していた通りの小狡い小心者、何よりも自分が大事という、ある意味ではとても正直な利己主義者が、慣れない剣を手にして汗みずくになりながら、精一杯声を張って自分たちを恫喝しようとしていた。

「わ、私は、かっ、帰るんだ! 家に帰るっ!」

 珍妙に裏返った志載の声に、むしろ文先生は、逆に自分のほうが冷静になっていくのを感じていた。

「……あなたの本来の家は、蒙古に踏みしだかれてもうなくなっているかもしれないのにですか?」

「うう、うっ、うるさいっ! そんなの知らない! 私の家は建康にある! そんな……むっ、昔のことなんかもう忘れた!」

 志載は一瞬、血の気を失ってぐったりとしている秋琴を一瞥し、すぐに視線をそらしてわめいた。志載なりに罪悪感はあっても、それを悔いて行動をあらためようというつもりはないらしい。

「せっ、先生! そんな、挑発するようなこといわないでくださいよう!」

 白蓉が押し殺したような声でいいながら、ひとりでどうにか秋琴をひきずってこの場から離れようとしている。しかし、不思議と文先生は、この呉志載という男にも、その手にある剣にも恐怖は感じなかった。ただひたすらに哀れとしか思えない。

 非力で臆病というなら自分もそうだという自覚が文先生にはある。だが、それを理由に他者を利用し、身勝手にふるまうのは違う。自分は決してこうはなりたくない、なってはならないという姿を前にして、文先生は唇を噛み締めた。

「おっ、おかしな真似をしたら、きっ、斬る、斬りますよ! おっ、脅しじゃない! ――は、早く引っ張って! 引っ張れ!」

 文先生に剣を突きつけ、志載はあらためて舟を引き寄せるよう指示してきた。

「…………」

 文先生は無言のまま、また縄を掴んで引っ張り始めた。


          ☆


 それなりの実力があれば、相対した相手の実力もある程度は判るようになる。甲板上で戦っている賊や護衛たちのほとんどは、月瑛から見ればひと山いくらというくらいの連中ばかりで、まともに相手をするまでもなかった。もしこちらを敵と見なして襲いかかってきたとしても、軽くいなしてその場を離れるだけでいい。月瑛が捜しているのは自分の腕に見合う強敵ではなく、秋琴の前で叩頭させなければならない人間の屑なのである。

 しかし、月瑛が手練であるがゆえに、相対した瞬間に戦いは避けられないと悟る相手もいる。

「――――」

 白い肌に点々と飛び散った血糊をぬぐいもせず、どこか楽しげに剣を振るっていた女剣士は、月瑛を見るなり目を細めた。

「誰です? わたしがいうのも何ですが、女だてらにその使い込まれた剣とたたずまい――江賊の一味とは思えませんし、さりとて江万里の護衛という感じでもありませんね。腕が違いすぎる」

「そのどっちでもないね。ひとつはっきりしてるのは、わたしが捜してるのはあんたじゃないってことだよ」

「そうですか。……ですが、わたしのほうは誰が相手でもいいのですよ。斬って血が出る人間であれば」

 背後から斬りかかってきた賊を振り返りもせず、瞬間的に逆手に持ち替えた剣でひと突きした女剣士は、噴き上がる血潮をあらたな微笑みとともに浴びている。月瑛は眉をひそめ、いぶかしげに呟いた。

「……あっけつぎゃくかい?」

「判りますか?」

「餓鬼の頃に出会った剣士がそんな感じだったよ。三日に一度だか、とにかく人の血を浴びないと死ぬとかいう大袈裟な病だったっけ?」

「きょうは斬っていい人間がたくさんいる。助かりますよ、本当に。……ですが、人というのはぜいたくなものです。そういう状況にもすぐに飽きが来る」

 前髪から血の雫をしたたらせながら、女剣士は剣を持ち替えた。

「――おまえの名前は?」

「どきなよ。あんたに用はない。おたがい名前を知る必要もない」

「いいんですか? たとえおまえがわたしを無視してこの場を去ろうとしても、わたしはおまえに追いすがって背中から斬りますよ? わたしがこの世で一番嫌いなのものは、強くて綺麗な女なのでね」

「……胡月瑛」

「まさか……りゅうげんくんの弟子? “えんぷうぜつえい”ですか?」

「だったらどうする?」

「面白い……いいでしょう、わたしの名は黄泉玉――」

「名前を知る必要はないっていったろ」

 月瑛は女剣士の口上を雑にさえぎり、剣を構えた。

「――こっちにはやらなきゃいけないことがあるのさ。正直、あんたにかまってる暇はないんだよ」

「――――」

 女剣士――泉玉の表情がどす黒い憎悪に染まり、すさまじい殺気とともに剣風が吹き寄せてきた。


          ☆


「……おい、嘘だろ!?」

 かかってくる敵を片端から斬り伏せていた天童は、泉玉が戦っている相手を見てぎょっとした。

「あの女、確か――どうしてここにいやがる?」

 あちこちでちらつく炎の下、黒衣をはためかせて泉玉と斬り結んでいるのは、せきじょうで見かけた女剣士だった。さほど詳しくはないが、彼女の名前や腕前については、長く石城にいたしゅんから聞いたことがあったが、しかし天童にとって重要なのは、月瑛という名のあの女剣士が、林獅伯の知り合いだということである。

「……まさかあの小僧までいるんじゃねえだろうな?」

 もしこの船に獅伯が乗っているなら、敵味方が入り乱れている今こそ、剣を奪う千載一遇の好機といえる。

「――どけよ!」

 もはや敵と味方の区別もついていない混乱の中、行く手をふさぐ賊を蹴り剥がして走り出した天童は、獅伯の姿を捜してあちこちに視線を飛ばした。

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