第六章 桂花無惨 ~第五節~
「……ぁ」
かぼそい声をもらしてその場に膝をついた秋琴の手から、からんと軽い音を立てて転がったのは、懐剣ではなく小さな位牌だった。
「……え? え!?」
位牌を拾い上げた志載に、秋琴がいった。
「確かに……渡し、ました、から――ね?」
「秋琴さん! しゃべるんじゃない!」
秋琴の傷口を手で押さえながら、黒衣の女が志載を睨みつけた。
「あんた……自分の母親の面倒を最後まで見てくれた女房に、どうして、こんな――」
「だっ、いや、だって……さっ、刺されるかと思って――!」
嘘はいっていない。あの刹那、志載は本気で秋琴に刺されると思った。獅伯の口からことの真相を聞いたのであれば、秋琴が自分を激しく恨むのは当然だったし、何より、志載はすでに一度、ごろつきたちを焚きつけて秋琴を亡き者にしようとしている。刺される理由は充分にあった。
だからこそ、彼女が渡そうとした位牌を懐剣の鞘に見間違え、刺されると思った時には身体が動いていた。狼狽の末に身を守ろうとする本能がそうさせた。
「だっ、だから、私は悪くない! おっ、おまえが、何もいわないから――」
「は!?」
「だ、だって……そ、そもそも、おまえたちが私に勉強しろって、いう通りに勉強してきただろ!? 勉強さえしてれば何もいわなかったんだから、今度だって――何もいわずに知らないふりをしていてくれよ! 今になって、ひょっこり出てきて……わ、私の邪魔をしないでくれ、いまさら!」
「この野郎……!」
「ひっ?」
ぐっとまなじりを吊り上げ、女が背中の剣に手を伸ばそうとしたが、それを制したのは秋琴だった。秋琴は女の袖を掴み、
「月瑛さま……いいんです」
「秋琴さん――やさしいのはあんたのいいところだけど、それも度がすぎたら……」
「わたしがお願いしたのは、お、夫の、もとに、連れてきていただくことだけ、で……もう、充分、です――」
「秋琴さん……」
「……!」
女たちの愁嘆場をよそに、志載は四つん這いのままその場を離れた。このまま秋琴が絶命すれば、あの女はその剣を志載に向けると思ったからである。
☆
賊たちの舟をうまく避け、陶家の船に静かに接近したはいいものの、上からは派手な剣戟の音と喚声、それに断続的な悲鳴が聞こえてくる。ときどき降ってくる火の粉に首をすくめながらも、文先生は月瑛にかかえられて乗り込んでいった秋琴のことが心配で気が気ではなかった。
「……大丈夫でしょうか? 月瑛さんは心配ないとしても、この状況で呉さんを捜して位牌をじかに渡したいって、やっぱりどう考えても無茶すぎますよ。――白蓉さん?」
舷側を見上げていた文先生が、白蓉からの返事がないのをいぶかしんで振り返ると、少女は細長い縄に何かをくくりつけているところだった。
「何をしてるんです? 何ですか、それ?」
「これは飛爪っていう暗器ですよう」
金属製の鉤爪のようなものを縄に結びつけ、白蓉は立ち上がった。
「な、何をするつもりなんですか?」
「師姐と秋琴さんを追いかけるに決まってるじゃないですか」
「え!?」
「……どうしてそこで驚くんですかあ? 先生だって最初からここでおとなしくふたりの帰りを待つつもりはなかったんですよねえ?」
「確かにそうですけど、現実問題として、ここをどうやって登ればいいやら――」
「だからこれを使うんですよう」
白蓉は縄の尻のほうを小舟の舳先に結びつけると、飛爪をくくりつけたほうを大きく振り回し、陶家の船の船縁に向けて投げ上げた。
「……ん、引っかかった!」
「ほ、ほんとにこれをよじ登ろうっていうんですか?」
鋭い爪を船縁に食い込まで、そこから伸びる縄を伝って舷側をよじ登る――理屈は判るが、文先生としては不安が残る。
「江賊たちだってみんなこうやって船に乗り込んでるんですよう?」
「私が心配しているのはそういうことではなく、私の腕力でよじ登れるかどうか怪しいという意味で――」
「いいからほら! 早く登ってくださいよう!」
「えっ? わ、私が先に登るんですか!? ここは身軽な白蓉さんから先にお願いしますよ!」
「男のくせに何いってるんです? ……じゃあ、下から覗くとか絶対やめてくださいよう?」
白蓉は飛爪から垂れ下がった縄を掴み、同時に濡れた舷側を小気味よく蹴るようにして、あっという間に船縁を乗り越えてしまった。
「――ほら、早く! わたしが見張っててあげますから、今のうちに登ってきてくださいよう!」
「わ、判りましたよ……」
なけなしの度胸を振り絞り、文先生は縄を掴んだ。
「くっ、ぉふっ、ぬ……っ!」
軽功の鍛錬を積んできた白蓉と違い、身体を動かすことに慣れていない文先生は、たっぷり時間をかけてようやく船縁に手をかけると、崩れ落ちるように甲板に突っ伏した。
「こ、今夜はもう、一年ぶんくらい身体を動かした気がしますよ……」
「何を泣き言をいってるんです? 次はほら、師姐たちを捜さないと! ……獅伯さまでもいいですけど」
「わ、判ってますよ。……ですけどね」
甲板のそこかしこで起こっている賊と護衛たちの修羅場を見やり、文先生はごくりとのどを鳴らした。今の文先生たちは、賊にとっては単なる邪魔者、護衛役側から見れば不審者であって、どちらからも歓迎はされない。もし彼らの意識がこちらに向けば、問答無用で斬りかかられかねなかった。
文先生が身を引くくしたままびくつきながらあたりを窺っていると、白蓉が悲鳴に近い声をあげて走り出した。
「秋琴さん!?」
「――ええっ!?」
白蓉の行く手を見ると、積み上げられた木箱の陰に、ぐったりした秋琴を抱きかかえる月瑛の姿があった。
「な、何があったんです!?」
「……結局あんたらも来ちまったのかい」
やってきた文先生たちを見ても、月瑛は特に怒りはしなかった。実際にはその余裕がないというのが正確なところだろう。彼女に抱かれている秋琴は、左肩から胸を斜めに横切るように斬られていて、淡い緑の衣が大量の血によってどす黒く変色していた。
「点穴を突いて出血を抑えようとしたんだけど、それじゃ追いつかないんだよ」
「だ、誰がこんな――」
「旦那だよ」
月瑛が吐き捨てるようにいった。
「秋琴さんが位牌を渡そうとして近づいたら、どうやら刺されると思ったらしくて、いきなり――」
「何ですか、それ!? 呉さんに斬られたってことですか? まさか月瑛さん、それで呉さんを逃したんじゃ――」
「い、いいのです……」
うっすらと目を開け、今にも消え入りそうな声で秋琴がいった。
「これは、わたしが、意地を押し通した、結果です、から……」
「秋琴さん……」
「わたしは、あの人の妻として、なすべきことは、すべ、て、やったつもり、です……誰にも、後ろ指を指されるような、ことは――」
「無理しないでくださいよう、秋琴さん!」
秋琴の覚悟のほどと出血の多さに絶句していた白蓉は、我に返ってすぐさま懐を探り、血止めの軟膏を取り出した。
「こ、これ! 役に立つか判りませんけど――」
「……手当はあんたたちに任せていいかい?」
てのひらについた血をぬぐい、月瑛は秋琴を文先生に抱かせて立ち上がった。
「げ、月瑛さん……?」
「手当をすませたら、秋琴さんを連れて先に逃げな。わたしは旦那をひっ捕まえてくる。……秋琴さんに詫びを入れさせなきゃ気がすまないんでね」
「……!」
文先生が月瑛と出会って半年以上がたつが、いつも飄々としている彼女がここまで怒りをあらわにするのは初めて見た。決して声を荒らげたりということはなかったが、何の心得もない文先生にも、月瑛が静かな怒りを燃え立たせているのはよく判る。
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