第六章 桂花無惨 ~第四節~

 さっきまでいっしょにいた志載が今どこにいるのか、もう判らなくなっていた。しかし、薄情な話だが、今の獅伯に志載を気遣っている余裕はない。

「……貴様も金で雇われた護衛だろう? 江万里を置いていくなら見逃してやる」

「そういうわけには……いかないんだよね、これが!」

 帆柱の根本に落ちていた縄を引っ掴んだ獅伯は、剣を口にくわえて素早く江万里を自分の身体に縛りつけた。

「その老いぼれと心中する気か。――奇特な小僧だ!」

「好きにいってなよ!」

 大男の突きをかわしつつ、しっかりと縄を結んだ獅伯は、あらためて剣を構え直した。江万里という枷がある以上、いつものような立ち回りは難しいが、両手で剣をあつかえれば多少はましに戦える。

「……すまんな」

 耳もとで聞こえてきた老人の申し訳なさそうな呟きに、獅伯は思わず口もとをゆるめた。自分が狙われていると知りながら、無様に取り乱したりせずにいてもらえるだけでもありがたい。

「積み荷については何の責任もないんだが、こっちのじいさんについては、知り合いの手前もあるんでね……」

 静かに呼吸を整え、獅伯は大男を見据えた。


          ☆


 明かりを消した船倉に誰かが下りてくる足音がして、志載は思わず首をすくめた。

「……けっこういろんなもんを積んでいそうだな」

「陶成大せいだいのところでは、おもに生糸や紙、墨などをあつかっていると聞いていますよ」

 声色からすると、まだ若そうな男と――賊の一味だとすれば驚きだったが――もうひとりは女かもしれない。明かりをかかげて周囲を見渡しているのか、ときおり、茜色の光が木箱の陰に隠れている志載の横顔に射し、そのたびに息を呑むはめになった。

「臨安で売りさばけばかなりの大金になるのでしょうが……これをこのまま盗んで持ち帰ったところで、かさばるばかりでさしたる儲けにはならないでしょう」

「ん? だったらどうして連中は往路を狙ったんだ? 臨安で戻ってくる時には、紙だの墨だのの代わりに大量の銀を積んでるはずなんだろ?」

 男と女は、甲板で繰り広げられている修羅場をよそに、まるで他人ひとごとのようなていでそんなことを話している。どうもこのふたりは、積み荷を狙って襲ってきた江賊の一味ではないようだった。

「それはわたしがそう仕向けたからですよ」

「あんたが?」

「船を手配するついでに、連中の耳に入りやすいように噂を流したのです。次に出港する陶家の船には、臨安の高官たちに贈るための金銀財宝が積み込まれている――とね」

「は? それじゃあいつら、あんたが撒いた餌に食いついて襲ってきたってことか? ありもしないお宝を狙って?」

「わたしたちだけでこの船に斬り込むには、さすがに手駒の数が少なすぎましたからね。ですが、江賊の襲撃の混乱に乗じれば、わずかな数でも確実に江万里を仕留められます」

「……あんた、ほんとに軍師みてぇだな」

「世辞はいりませんよ。それより、早く江万里を捜さないと――」

「泉玉! 天童!」

 荒々しい足音とともに、あたらな男が下りてきたようだった。

「――おまえらもちょっと手伝ってくれ! 元章がどこかに行っちまったせいでこっちが押されてる!」

「元章のダンナがいなくなった?」

「……おそらく元章は江万里を見つけたのでしょう」

「どうする? 助太刀するのか?」

「本人がそれを望めば手伝いもしますが、そうでないなら元章の好きにさせておきましょう。わたしはあの男の事情に興味はありませんが、おまえは何か聞いているのではありませんか?」

「そりゃまあ……」

「それに、ここまで大手を振って人を斬れる機会はそうそうありませんからね。老人ひとりを斬って流れる血などたかが知れている」

「あんたにとっては千載一遇の好機ってやつか。せいぜいたっぷりと血を浴びてくれよ」

 呆れたようなぼやきを残し、男たちが遠ざかっていく。それまでみずからの口をふさいで身を固くしていた志載は、ほっと安堵の吐息をもらし、震えながら物陰から這い出した。

 今の男たちがいっていたことが本当なら、今この船には、江賊たちとは別に、この襲撃に乗じて江万里の暗殺をもくろむ連中が乗り込んできていることになる。

「ね、狙われてるのは、私じゃないんだ――」

 自分自身にそういい聞かせ、志載はそろりそろりと船倉を出た。

「ひ……!」

 今宵の空は雲が多く星が少なく、甲板を照らすのはそこかしこに突き立った火矢の揺らめく明かりくらいしかない。その薄闇にようやく慣れた志載の目に真っ先に飛び込んできたのは、すぐそばに倒れて絶命している護衛役の剣士だった。正確にいえば、生きているのか死んでいるのか志載には判らない。ただ、背中をばっさり斬られて血の海に倒れ伏し、動かなくなっているのは確かだった。

「……!」

 志載は死体のそばに転がっていた剣を手に取り、できるかぎり目立たないよう、息を殺して船縁のほうへ向かった。江賊たちでも、さもなければあの江万里を殺しにきた連中でもどちらでも構わない。もし彼らが乗ってきた小舟でもあれば、どうにかそちらに乗り移り、とにかくこの修羅場から逃げ出したかった。

「こ、こんなの、話が違うじゃないか……!」

 志載は自分がしたいことだけをしたい、やりたくないことはやりたくない男だった。人間なら誰でもそう思うだろうが、志載は実際にそうやって生きてきたのである。

 子供の頃は、親の手伝いで畑仕事をさせられるのが嫌だった。だが、たまたま頭がよく、それが村長の目に留まって援助してもらえることになり、勉強さえしていれば面倒なことは何もしなくてよくなった。すると今度は村長が娘の婿に迎えてくれて、母の面倒まで見てくれることになった。代わりに科挙の及第を目指すようにいわれたが、及第しようが落第しようが、志載にとってはどうでもよかった。とにかく志載は、ほこりまみれになってはたらきたくなかったのである。

 一度は身を持ち崩し、落ちぶれて臨安を離れたが、建康で陶大人に会い、妙に気に入られてその娘婿となった。新しい舅の夢を引き継ぐという美談を建前に、以前と同じく汗水垂らさず安穏とすごす日々をまた手に入れた今、もう二度とそれを失いたくはない。

「ふ、舟、舟は――」

 志載は船縁から身を乗り出し、目を凝らして誰も乗っていない小舟を捜した。

 賊たちに目をつけられやしないか、怯えながらのそんな時のことだった。

「あなた――」

「……え?」

 聞き覚えのある声にふと視線をめぐらせると、少し離れたところに、黒衣の女の手を借りて船縁を乗り越えてきたかつての妻がいた。

「しゅ、秋琴――」

 最後に会った時よりも少し年を取り、だが、華やかな化粧を覚えて美しさは増したように見える潘秋琴の姿に、しかし志載は懐かしさや愛おしさよりも先に、まず恐怖を覚えた。建康であらたに手に入れた安らかな暮らしを脅かす最大の障害が、過去に自分がすでに正妻を娶っていたという事実、そして妻や家族を見捨ててきたという事実の生き証人でもある、この女だったからである。

「あなた……!」

 しばし時が止まったかのように志載と見つめ合っていた秋琴は、懐に右手を差し入れ、志載のほうへ駆け寄ろうとした。

「よっ……や、やめろ! やめてくれ!」

 秋琴が懐から漆塗りの懐剣を引き抜こうとしているのに気づいた瞬間、志載は裏返った声でわめきながら、手にしていた剣を振り上げた。

「!? あんた、何を――」

 黒衣の女がはっとした表情で手を伸ばした時には、志載が振り下ろした剣が秋琴の胸を斜めに横切っていた。

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