第六章 桂花無惨 ~第三節~

「蒙古との戦いで、民は貧苦にあえいでおる。そんな民たちが納めた国庫の金を、私事でみだりに使うわけにはいかぬじゃろう? ……もっとも、宋瑞に会うまでは、そこまで深く意識もせなんだが」

「文先生が何かいったわけ?」

「わしらのような立場の人間は、各地からの報告を聞いて、この国のことをそれなりに把握はしておる。ただ、どこそこで米の収穫がこれだけ減っただの、蒙古との戦いで兵が何人死んだだの、そういう数で知っておるだけで、その土地で起こっておることを実際に目で見たわけではない。――じゃが、宋瑞は各地を旅してそれをおのが目で確かめてきておる。あの男の話を聞けば、わしとてもう少し自分のふるまいを律しなければならぬという気にもなるわ」

「ふぅん……あのお調子者の文先生がねえ」

 振り返ってみれば、酒好きで女にも目がない文先生は、その一方で、この国の置かれた状況を深く憂慮し、自身の見聞を広めて、今後この国の人々が何をすべきなのかをつねに考えているような人間だった。

「科挙ってのは単に物覚えがよくて李白だか誰だかに詳しい人間を選ぶもんだと思ってたけど、そういうわけでもないのかな?」

「さてな……いかに詩を吟じるのがうまかろうと、それが国を動かす上でどれほどの役に立つものか――宋瑞からすれば、わしなどはただ孔子の教えに詳しいだけで国のことなど何も見えておらぬ老人くらいにしか思えぬのかもしれぬ」

「そうなの?」

「そうではないと思いたいところじゃが――」

 獅伯と江万里のそんなやり取りに、志載が割り込んできた。

「おっ、おふたりとも、何をそのようにのんびりなさっておいでなのですか⁉ いつ賊どもが斬り込んでくるか判らないというのに……!」

「そりゃそうだけど、だからってどうにもならないだろ? むしろあんたは少しは落ち着きなよ。いざって時に疲れて動けなくなっても知らないよ?」

 この船倉に出入口はひとつしかない。そして今はそこを江万里の護衛たちが固めている。もしここに賊が踏み込んでくることがあるとすれば、それはこちら側がよほどの劣勢に立たされた時だけだろう。

 江万里は冷ややかな眼差しで志載を見つめた。

「そもそもこの状況で、わしや婿どのに何ができるというのかね?」

「そ、それは……」

 この船は広い長江の上を風に押されて流されている。帆が焼かれた今、岸に着けるには船乗りたちが櫂を出して漕ぐしかないが、賊を撃退するまではそれも不可能だった。

「それとも若旦那だけ川に飛び込んで逃げる? 泳ぎに自信があるならそれもいいけど」

「むっ、無理です! とてもそんな……し、獅伯どの! 私を連れて逃げるわけにはいきませんか⁉ ぞ、賊の小舟を奪うとか――」

「何いってんだ、あんた? だからおれはこっちの先生の護衛なんだよ」

「あ、ぅ……」

「……でもまあ、場合によったらそういうことも考えないといけないかもな」

 ぼやき交じりにそういいながら、獅伯は立ち上がって背中の剣を抜いた。

 次の瞬間、絶命した剣士の骸もろとも、太い腕に刺青を入れた男が斬り込んできた。

「ひぃっ⁉」

「――――」

 倒した男の骸を盾代わりにして突っ込んできた賊を、獅伯はその骸越しに急所をひと突きして返り討ちにした。

「お、ご……」

 血の泡を噴いて倒れた賊をまたぎ越し、獅伯は後ろ手に江万里を手招いた。

「どうも思ってる以上に賊の数が多いみたいだ。ここを離れたほうがいいかもしれない」

「は、離れるって、どっ、どこにです⁉ ここがこの船で一番安全な場所だったんじゃないんですか⁉」

「安全というか、守りを固めるのには都合のいい場所なのは事実だろうけどさ」

 あくまで護衛の数が充分なら、出入口がひとつしかない船倉は身を隠すには都合がいい。しかし、裏を返せば、敵にそこを押さえられると逃げ場がなくなる。しかも、賊の狙いが積み荷である以上、船倉を見逃すということはありえない。

 途中まで階段を上がり、甲板の様子を窺いながら、獅伯は舌打ちした。

「……思った通り数が多いな、こりゃ」

 ざっと見ただけでは、どれだけの数の賊が乗り込んできたのかは判らない。ただ、こちら側の護衛が押し返せていないところを見ると、賊の数が多いか、あるいはよほどの腕利きが交じっているのだろう。もしくはその両方なのかもしれない。

 獅伯は肩越しに江万里を振り返り、

「先生、おれの背中に負ぶさってよ」

「……いいのか?」

「枯れ枝みたいなじいさんひとりならどうにでもなるって」

「しっ、獅伯どの! わ、私は⁉」

 案の定、志載が真っ青な顔でわめき散らす。

「……極論、あんたはいざとなったら川に飛び込めば命だけは助かるだろ? 別にこの広い川を泳いで渡れってんじゃないんだ、騒ぎが収まるまでどっかそのへんに掴まってぷかぷか浮いてりゃいい。けどこっちの先生はもういい年なんだから、飛び込んだ瞬間にお陀仏になるかもしれないだろ? てか何度もいわせるなよ、おれはあんたの護衛じゃない」

 江万里を背負い、獅伯は低い姿勢のまま甲板上の乱戦の中を駆け抜け、一番背の高い帆柱へ向かった。

「どうする気かね?」

「とりあえず、高みの見物をさせてもらおうかと思ってさ」

 あちこち火が燃え移って帆そのものは役に立たなくなっていたが、帆柱と帆桁はまだ健在だった。あの一番上まで登ることができれば、とりあえず四方を囲まれて追い詰められることはない。うまくすれば賊に気づかれずにやりすごすことも可能だった。

「のっ、登れるのか、わしを背負ったままで?」

「そりゃまあ――」

 楽勝だといいかけ、獅伯は言葉を呑み込んだ。

「おまえが江万里か」

 獅伯の前に立ちふさがった大柄な男が、目を細めて江万里を見据えていた。がっしりとした体躯に四角い顔――まるで大きな岩の塊から削り出したかのような大男だった。

「……先生の知り合い?」

「いや、面識はないな」

「面識もなければ遺恨もない。――が、死んでもらわねばならぬ」

 大男の手には長大な剣が握られている。獅伯は眉間にしわを寄せ、

「あんた……このじいさんの命が狙いなわけ? 積み荷が狙いならあっちの船倉にあるけど?」

「…………」

 獅伯の冗談めかした言葉にも、大男の視線は小揺るぎもしない。

 そこに、柳葉刀を振りかざした賊が襲いかかってきた。

「てめえら、おとなしくしや――がっ⁉」

 邪魔だといわんばかりに、大男が振り向きざまの一撃で賊を斬り伏せ、すぐにまた獅伯に正対した。

「あんたもしかして……江賊じゃないのか?」

「教える義理はない」

 大男は刃についた血糊を振り払い、獅伯に斬りかかってきた。

「!」

 あやういところでその切っ先をかわし、獅伯は背中の老人に小声で尋ねた。

「先生さあ、身に覚えないわけ⁉」

「ない……といいたいところじゃが、わしにも判らん。お役目柄、どこで誰の恨みを買っておるか、見当もつかんのでな」

 ふだん筆しか持たないような細い腕で獅伯の背中にしがみついたまま、江万里はかすれ気味の声で答えた。

 考えてみれば、道中での暗殺を警戒したからこそ、江万里はあれだけの護衛をつけて臨安に戻ろうとしていたのである。この状況も、単にその懸念が現実のものになっただけといえるだろう。

 ただ、江万里を暗殺しようと目論む男が、江賊の襲撃に便乗してくるというのは想定外だった。おまけにその腕前も、そう簡単にあしらえるものではない。

「ちっ……!」

 帆柱の上のほうで成り行きを見守るつもりでいたが、こんな危険な男に目をつけられてはそれももはや不可能だった。左手で背中の老人を押さえ、右腕一本で剣を取り回しながら、獅伯は周囲に視線を飛ばした。

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