第六章 桂花無惨 ~第二節~

「お願いできるのであれば――」

「気にしないでいいさ。もう前払いでもらっちまったもんもあるしねえ」

 月瑛がそっと押さえた髪には、ついぞ彼女が差したことのないような翡翠をあしらった簪がきらめいている。身請けのため、秋琴はこれまで貯め込んできたたくわえの大半を探花楼の女将に渡していたが、わずかに残った簪や帯飾りは、謝礼として月瑛たちが受け取っていた。

「それじゃ、どこかそのへんに舟をつけるから、先生と白蓉は――」

「待ってくださいよう! まさかわたしたちだけ置いてくつもりですかあ?」

 月瑛の言葉を先取りし、白蓉が不満の声をあげる。

「もし本当にあの船を江賊たちが襲ってるんだとしたら、かなり危険な修羅場に斬り込んでくことになる。たぶんわたしは秋琴さんを守るので手一杯で、あんたたちの面倒まで見てられないんだよ」

「それは判りますけど……」

「月瑛さん、別に私たちは向こうの船にいっしょに乗り込むつもりはありませんよ。足手まといになるのは目に見えていますしね」

 さっきよりも力強く艪を漕ぎながら、文先生が続けた。

「――ただ、おふたりだって呉さんに渡すものを渡したら戻ってくるわけでしょう? その時に舟がなかったら困るじゃありませんか。ですから私たちは、舟が流されないように少し離れたところで待っていますよ」

「そ、そう! そうですよう! わたしもそういいたかったんですよう!」

「だいたい、こんな夜更けにそのへんに私たちふたりだけ放り出されるなんて、そのほうがよっぽど危険じゃないですか。そんなところを江賊に見つかったら、私は身ぐるみ剥がれて魚の餌、白蓉さんだってどんなひどい目に遭うか……」

「そっ、そういうことはあんまり考えたくないけど、とにかくそうです、そう!」

 どう考えても取ってつけたようないいわけだったが、文先生がいうと説得力がある。ここで舟から下りろ下りないといい合っていても時間の無駄だと考えた月瑛は、ふたりを説得することをさっさとあきらめた。


          ☆


 真っ先に帆を狙って火矢が射かけられたのは、帆を焼き落とせばまず逃げられないという計算があったからだろう。帆が燃え始めたのに気づいた船乗りたちが総出で火消しに走る中、乗り合わせていた用心棒たちは、おそらくその全員が、これが江賊による襲撃だと即座に気づいたに違いない。

「あー……」

 火矢が放たれた直後、それまで闇に溶け込んでいた無数の小舟が、いっせいに明かりをともしてこちらに迫ってくる。船乗りたちの狼狽ぶりをよそに、獅伯は船縁に寄りかかり、殺到してくる小舟の群れを眺めて溜息をついた。

「これってよくあること――なのか? まあ、おれの仕事じゃないけど」

 獅伯はあくまで江万里の護衛役としてこの船に乗り込んでいる。賊が斬り込んできて江万里に危害をおよぼそうとするならともかく、それまでは剣を抜くつもりはない。

 神経をとがらせ始めたほかの護衛役たちは、それが最初からの決まりごとだからか、甲板に出て賊の襲撃に備え始めている。獅伯は船倉に避難した江万里のもとへ向かった。

「――江賊かの?」

 江万里は落ち着き払った様子で言葉少なに尋ねた。

「と思いますけどね。おれはそういうのにあんまり詳しくないんではっきりとは判りませんけど、いきなり帆を焼かれたんで、逃げきるのは無理かもしれない」

「ひっ⁉」

 江万里の向かいに座っていた志載が、獅伯の言葉を聞いて短い悲鳴をあげる。目の前の還暦すぎの老人が取り乱さずにいるのとは大違いだった。

「に、逃げきれないって――それじゃどうするんですか⁉」

「まあ、襲ってきた連中を返り討ちにしてから、帆を修繕するなり交換するしかないんじゃないの? それも詳しくないからよく判らないけど」

「返り討ちって、で、できるんですか⁉」

「おれに聞くなよ。おれの仕事は江賊退治じゃなくて、こっちの先生の護衛なんだからさ」

 手頃な大きさの木箱に背中を預けて座り込み、獅伯は軽く酒をあおった。

「――そもそもあんた、どうしていまさらそんなびくついてるわけ? 絹とか生薬とか上質な紙とか、たくさん積み込んでるんだよね、この船? あんたのお舅さんの商売のことなんだから当然知ってただろ? だったらこの船が江賊に目をつけられる可能性もそこそこ高いって最初から判ってただろ?」

「そ、それは……いや、でも」

 志載はそこでちらりと江万里のほうを見やった。

「こ、江先生が、義父の船に同乗してお戻りになるというので……せ、先生がお乗りになるのなら、たぶんこの船は安全なのだと――」

「……は?」

「で、ですから! この船は安全なのだと先生が判断なさっているのなら安心だと、わ、私はそう思って……」

 まるで自分がこの船に乗ったのは江万里のせいだとでもいいたげな志載のいいように、獅伯は眉をひそめた。

「婿どの……この船は安全だと、わしがひと言でもいったことがあったかな?」

 じっと瞑目していた江万里が、片目だけを薄く開けて志載を見やる。どこか呆れたような表情だった。

「そ、そうはっきりとはおっしゃいませんでしたが、ですが、そう判断したからこそ、義父の船に同乗してお戻りになるとお決めになったのでしょう?」

「違うな」

 江万里が即座に否定する。

「――わしがこの船で戻ることになったのは、あくまでも、ぜひ臨安まで送らせていただきたいとおっしゃる陶大人の顔を立てたまでのこと。可能なかぎり安全に戻ることを考えるのであれば、ふつうの旅人にでも身をやつし、小さな船を仕立てて長江を下るほうがましであろうな」

 少人数の旅人だからといって江賊に狙われない道理はない。が、小さな獲物を狙うのは小さな獣と決まっている。少数の賊なら、江万里が連れている護衛たちでたやすく撃退できるだろうし、小回りも効くからいざという時に遁走するのもたやすい。

 が、商人の船に乗り合わせて移動ということになれば、より大きな獲物を狙う大きな獣に目をつけられやすい上に、咄嗟に江万里たちだけ逃げ出すということも難しい。現に今、そうした状況におちいりつつある。この大所帯で旅をする上での利点があったとすれば、それは江万里の護衛たちのほかに、陶大人が積み荷の護衛としてつけた剣士たちがいることくらいだろう。

「小勢で目立たぬよう臨安に向かうか、それともこの船で多くの護衛に守られたまま向かうか、わしとしてはどちらでもよかった。……じゃが、わしにそのような貧相な旅はさせられぬとおっしゃる大人の手前、この船に同乗させていただくことになっただけのこと」

「で、あんたはそれを聞いて、勝手にこの船は安全だって思い込んで、いっしょに乗り込んじゃったってわけか」

「……!」

 別にすぐそばに賊が迫ってきたわけでもないのに、志載は顔を青くしてだらだらと脂汗を流し始めた。

「――でも先生さあ、あんた、政府のお偉いさんなんでしょ? だったら建康のお役人に命じて軍を動かすことだってできたんじゃないの? 実際はそれが一番安全でしょ?」

「そっ、そうです! それだ! もし先生が軍の兵士たちといっしょにお戻りになるとおっしゃっていれば、わ、私だって、こんな船になんか――」

「む……」

 江万里は小さな咳払いで志載の身勝手な言葉を断ち切った。

「……確かにそうした手もあるじゃろうが、今回の里帰りはあくまでわしの私事。そのために軍を動かすことはできぬ。今回わしが連れてきておる護衛も、すべてわしがみずから手配した者たちじゃ」

「何かこだわりがあるわけ?」

「軍を動かすには金がかかるからのう」

 長い髭をしごき、江万里は嘆息した。

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