第六章 桂花無惨 ~第一節~




 長江の流れが決して止まることがないとはいえ、その水面を行く船のほとんどは、日暮れに合わせて近くの港に入り、さもなければ岸辺に寄って、船乗りたちも眠りに就く。大河を下る長旅では、そうした休息もおろそかにはできない。

 しかし、向こうが錨を下ろしている時にこそ遅れを取り戻す好機だった。

「……私がいうのも何ですが、張り切りすぎじゃないですか、げつえいさん?」

 川面を渡る風はもはや完全に秋のおもむきで、日頃あまり鍛えていないぶん先生にはその冷たさが染みるのかもしれない。文先生は軽く身震いしながら、雲間に覗く白々とした月を見上げていった。

「確かにこの速さならじきに追いつけるかもしれませんけど、追いついたところでどうしようっていうんです?」

「さあね。そいつはしゅうきんさんに聞きなよ」

 月瑛は軽く顎をしゃくり、舳先のほうではくようと抱き合うような恰好で寝ている秋琴を見やった。

 秋琴の願いを聞き入れ、月瑛たちはたんろうから秋琴を身請けし、今はこうしてとう家の船を追いかけている。程度のいい小舟を捜すのに手間取って出遅れたが、月瑛が漕ぎ続けるかぎり、いずれ追いつけるだろう。

 ただ、最終的に秋琴が何をしたいの、それは月瑛にも判らない。一応、義母の位牌を渡すためにもさいを追いかけたいという彼女の願いをかなえたくて、月瑛は夜を徹して艪を動かしている。

「少し船足は落ちるかもしれませんが、私が代わりましょう」

 そういって、文先生は立ち上がった。

「――どうせすぐに音をあげることになるでしょうが、その間に月瑛さんも腹ごしらえをしてください」

「少し船足が落ちるだって? 少しどころじゃないと思うけどねえ」

 ちくりと皮肉りはしたものの、その申し出は素直にありがたかった。そのつもりがあれば、一日中でも漕ぎ続けることができる自信はあったが、それも腹に何か入れていればの話である。艪を文先生に任せると、月瑛は船底に座り込んで、まずは身体を冷やさないようにと酒を口にした。

「……自分を捨てた旦那を追いかけて、何をするつもりなんでしょうか」

 難儀そうに艪を漕ぎ始めた文先生が低い声でいう。

「亡くなった義母さんの位牌を渡したいとはいっていましたけど、そのためにここまでして追いかけるというのはちょっと考えづらいんですよ。それこそ私たちに任せるって手もあるわけですから」

 このことがなくても、もともと月瑛たちは、江万里の護衛のひとりとして陶家の船に乗り込んだはくを追って臨安に向かうつもりだった。だから、月瑛たちに託せば、臨安で新生活を始めようとする志載に位牌を渡すことはできる。

「……それを、せっかく貯め込んできた財貨を洗いざらい吐き出して、みずから追いかけるだなんて――まさか、薄情を絵に描いたような呉さんとやり直したいなんて考えてるわけじゃないですよね?」

「だから本人に聞きなよ」

「いや、でも……もしそうだったとしたら、それはそれで腹が立ちませんか? あんな薄情な夫を許そうというのも理解できないし、ましてそんなことのために私たちが奔走していると考えたら、私はちょっと納得がいきませんけどね」

「ま、気持ちは判るよ」

 建康から遠く離れた臨安でなら、今の妻である香君の目を盗み、秋琴と志載があらためて夫婦としての暮らしを送ることもあながち不可能ではないだろう。もし本当に秋琴がそうしたことを考えているのであれば、やはり月瑛も憤慨していたと思う。

 が、月瑛はあくまでも、秋琴の本当の望みはそこにはないと感じていた。

「……本気で旦那とやり直すつもりがあるなら、ほら、あのじいさん」

「安英さんですか?」

「そう、昔から仕えてくれてた使用人なんだろ? 臨安で旦那とよりを戻す気でいるなら、あのじいさんも連れてくと思うけどね。何しろどん底まで落ちた秋琴さんを見捨てなかったような忠義者なんだし」

「それは……そうかもしれませんけど」

 秋琴が探花楼を離れる際、彼女は女将に、このまま安英を探花楼で使ってやってほしいと頼んでいった。それはもしかすると、志載を追う急ぎ旅はとうに六〇をすぎた安英にはきついだろうと考えた、秋琴の思いやりだったのかもしれない。しかし、同時にそこには、もう建康に戻ることはないという彼女の決意の表れにも思えた。

「――まあ、わたしは秋琴さんを後押ししてやりたいから損得抜きにやってるわけだし、この先どう転ぼうが、それがあの人の決断なら文句をつけるつもりはないよ。これでもし本当に先生が懸念するような展開になったとしたって、それは単に、わたしに見る目がなかったってことだからね」

 薄く焼かれた餅と干し肉で簡単に腹を満たし、酒でのどを潤した月瑛は、口もとを拳でぬぐってその場に横になった。

「え!? ちょ、月瑛さん!? 腹ごしらえがすんだのなら、私と交代してくださいよ!」

「食ってすぐに動くのは身体によくないだろ?」

「いや、だって――あ、寝ないでくださいよ、ちょっと!」

「ほんの四半刻くらいさ、ひと眠りさせてよ」

「お、追いつけなくなっても知りませんよ、もう!」

「大丈夫だって、向こうは夜が明けるまではそのへんに錨を下ろして――」

「……月瑛さん」

 不意に文先生の声の調子が変わる。それに気づくのと同時に、月瑛は夜風に乗ってただよってきたかすかな焦げ臭さを感じて身を起こした。

「追い風だから気づきませんでしたけど、これって……」

「ああ」

 月瑛は立ち上がり、闇の中で目を凝らした。

「……遠くに赤いもんがちらついてるね」

「漁火では?」

「ありゃあもっと川面に近いところで焚くもんだろう? まだはっきりとは判らないけど、それにしちゃ――」

 月瑛は途中で言葉を吞み込んだ。長江の流れはおだやかで、とにかく広い。夜ともなれば、その岸辺を縁取る明かりはほとんどなく、あたりは深い闇に包まれる。そして、だからこそ葦のしげみに隠れて江賊が跳梁することができる。月瑛が真っ先に考えたのは、先を行く陶家の船が江賊に襲われているのではないかということだった。

「ど、どうします? もし本当に船が襲われてるなら、このまま近づくのは危険だと思いますけど――」

「といったって、どうするか決めるのはわたしじゃないからねえ」

 月瑛は剣を背負い、秋琴をそっと揺り起こした。

「秋琴さん」

「ん……月瑛さま……?」

「すまないね、ちょっと面倒なことになったかもしれない」

 それを聞いた秋琴は、目をこすりながらすぐに身を起こした。

「何かあったのですか?」

「まだ確証はないんだけどね。……あれ、見えるかい?」

 もう一度立ち上がり、月瑛は前方の闇を指さした。

「……何でしょう? 何かの明かりですか? 漁火のようなものでしょうか?」

「たぶん違うね」

 漁火ならもっと低い位置に列をなしてともされるものだろう。だが、遠くにちらついている赤い光は、ともっている高さも間隔もばらばらで、ちらつき方にも差があった。

「――もしかしたら、船が襲われてるのかもしれない」

「えっ?」

「も、もしかして、江賊ってやつですかあ?」

 秋琴につられて起き出してきた白蓉が、声を震わせてあたりをきょろきょろし始めた。

「連中はこんな小さな舟なんか狙わないよ。お宝を積んでないのなんて一目瞭然だろ?」

 妹分を落ち着かせ、月瑛は秋琴を見下ろした。

「――で、どうする? このまま行くかい? あんたがそうしたいってんなら、わたしはきちんと旦那のところまで送り届けてやるよ」

「…………」

 しばらく月瑛の顔を見上げていた秋琴は、その場に両手をついて頭を下げた。

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