第五章 逃げる男 ~第七節~

「そうそう、それわたしも思った!」

「人は見た目によらないっていうけどねー」

「それにしたって、ここへ転がり込んできた時は、着ているものもちょっと薄汚れてたし……姐さんを身請けできるくらいのお金を持ってるなら、もっと身なりに気を配ればいいのに」

 歯に衣を着せない少女たちのおしゃべりは、女将に束の間淋しさを忘れさせてくれた。客の耳目があるところでそんなことをいったら尻を叩くところだが、今は住人のいなくなった部屋を掃除する娘たちと、あとは自分しかいない。女将はそっと目尻を指で拭うと軽く手を叩いて少女たちにいった。

「おまえたちは世間を知らないからそう思うのかもしれないけれどねえ、いかにもお金を持ってます、なんて恰好で旅をしていると、無用の災禍を招くものなんだよ。追い剥ぎだの詐欺だの、人さまの懐を狙おうって不届き者は多いんだ。――特にあんたたちはじきに客を取る立場になるんだから、人を見る目ってもんをやしないな」

「はーい」

 まだ世間の冷たさも男というものも知らない少女たちの声は明るい。だが、彼女たちのうちのいったいどれだけが、妓女としての生き方の先にしあわせを掴めるか、それは女将にも判らなかった。さいわい、女将は妓女の身からこうして妓楼の女主人にまで成り上がることができたが、ほとんどの妓女はしあわせな後半生を送ることはできないのである。

「…………」

 江万里の知人だというあの若い書生が、ゆうべ、大金とともに秋琴を身請けしたいと申し出てきた時、女将はその金の出どころを問わなかった。少女たちにはああいったものの、女将の目から見ても、彼らはとても金を持っているようではなかったし、それはそう見せかけているのではなく、本当に金がなかったのだろう。

 そんな彼らに、いきなりあれほどの金を用立てる手段があるとは思えなかった。おそらくあの金は、秋琴自身が用意したものと考えて間違いない。あの書生が秋琴を身請けしたというのは形だけで、実際には、秋琴が秋琴自身を買い戻した――女将はそう思っている。

 もともと秋琴は、旅の途中で客死した義母の葬儀を出すための金に困り、探花楼に身売りしてきた女である。美しいには美しいが、妓女としては決して若くはないし、歌や楽器がうまかったわけでもない。ただ、その性根のやさしさと美しさ、いい意味で妓女らしくないところが受けたのか、秋琴はあっという間に探花楼でも五本の指に入る売れっ妓になってくれた。

 が、だからといって高慢になるでもなく、あくまで謙虚で慎ましやか、女将やほかの妓女たちにはもちろん、小間使いの娘たちにも何くれとなく気を配るさまは、そもそもの育ちのよさを窺わせた。そんな彼女だから、女将もあれこれと可愛がってきたし、彼女が店を離れるとなれば、売上に大きな穴が開くことになるから、正直なことをいえば手放したくはない。

 しかし、女将はほとんど迷うことなく秋琴を送り出すことに決めた。年齢のことを考えれば、このまま秋琴を店に残しておいても、遠からず今のようには稼げなくなくなるだろう。ならば今が潮時なのかもしれない。しかも店にかなりの大金を置いていってくれるのである。

 そう自分自身を納得させ、女将は秋琴を見送った。きのうのきょうで店を出ていくというのは何かよほどの事情があるのだろうし、これまでにもあった身請けの話を断り続けてきた秋琴が、今になって店を離れることを決断したのも、その事情がさせたことだろう。

 だから、この店を出ていった秋琴とあの書生たちがこれからどうするつもりでいるのか、女将はあえて尋ねもしなかった。

「……ま、店を離れた女が何をしようと、こっちにはもう関係ない話さ。それどころかこっちは思いもしないところで大儲けさせてもらって万々歳、嬉し泣きがとまらないねえ」

 そうひとりごち、女将は少女たちに掃除を任せて自分の部屋へ引き上げていった。 


          ☆


 長江は広く流れはゆるやかで、葦の茂る湖沼がいたるところにあり、大小の支流でつながっている。そうした地形を使って官憲の目をかいくぐり、往来の船を襲って金品を奪う無頼たちを、世では江賊と称していた。海に現れる海賊に対し、長江に現れるから江賊、ということなのだろう。

 蒙古の脅威に揺れる今のこの国では、ただの農民、漁民たちですら、生きるためとあれば賊に鞍替えもする。大量の荷を運ぶ商人たちは、江賊だけでなく、そうしたにわかな賊たちの襲撃に備えて多くの用心棒を引き連れているのがふつうだった。

「――は? それじゃその船には、江万里の護衛役の剣士たちだけじゃなく、船荷を守る用心棒たちも乗り合わせてるってことかよ?」

「そうなりますね」

 船の舳先近くでよく晴れた空を見上げていた泉玉は、天童の疑問にこともなげにうなずいた。

「ちょ、お、おい、待てよ!」

 肩越しに背後を一瞥し、天童は声をひそめた。

「……それ、みんな承知してんのか?」

「元章はもちろん知っていますよ。ほかの男たちは知りませんがね」

 泉玉が調達してきた船は、大人が一〇人乗れるか乗れないかといった大きさの船だった。それでも一応帆はついているし、男たちが持ち回りで櫓を漕いでいる上、船そのものが軽いおかげで、一同が追いかける陶家の船より船足は速い。建康を出港するのは陶家の船より一刻ほど遅れたが、このぶんならじきに追いつけるだろう。

 しかし、仮に追いつけたとしても、この人数で向こうの船に斬り込むというのは――今の話を聞くかぎり――無謀としか思えなかった。こちらは元章、泉玉、それに天童を加えても全部で七人。対してあちらの船には江万里の護衛が少なくとも一〇人ほど、さらに陶成大が用意した用心棒まで含めれば、天童たちの三倍ほどの剣士がいたとしてもおかしくない。

「……本当に大丈夫だと思ってんのか、あんた?」

 口の中が気味悪く乾いてきたのを感じ、天童はぬるい酒をひと口含んで低い声で続けた。

「相手が素人ばかりだってんならまだしも、向こうだって人を斬るのを生業にしてるような連中だ。それでこの数の差ってのは――」

「死にに行くようなもの、とでも思いましたか?」

「まあ、はっきりとはいいたかねぇが……」

「確かに、ふつうの江賊ならこんなやり方はしないでしょうね。彼らは船を襲って荷を奪い、持ち帰ることが目的ですから。……ですがわたしたちは違う。江万里ひとりを斬ればそれでよい」

「いや、俺がいいてェのは、これだけの手勢で斬り込んでって、そのじいさんを始末できたとしても、俺たちが生きて逃げ切れるかって話なんだが」

 天童が苦い表情でいうと、泉玉は天童の襟首を掴んで引き寄せ、その耳もとでささやいた。

「――そこで死ぬなら死んだ奴が悪いんですよ」

「は?」

「一歩間違えば命を失う危険な仕事だからこそ、こちらは大金を払っているんです。後ろの男たちはそれを承知でついてきているんです。おまえも覚悟しておきなさい」

「いわれるまでもねえよ。……ただよ、俺たちだけじゃなくて、あんたらまでが逃げそこねるってことは考えてねェのか?」

「わたしも元章も、それほど弱くはありませんからね」

 きゅっと目を細め、泉玉は天童を軽く突き放した。

「――わたしも元章も、おまえが危なくなっても助けはしませんよ? 江万里を斬ったらさっさと逃げますから、おまえもそのつもりでいなさい」

「……判ってるよ」

 天童は大きく溜息をついて引き下がった。

 この女は、自分の策に絶対的な自信を持っている。策といえるほど緻密なものではなくとも、とにかくそれが大きくはずれるとは思っていない。それを頼もしく思うのか、あるいはあやうく感じるか――この時の天童には、やや後者に重心がかかっているように思えた。

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