第五章 逃げる男 ~第六節~
☆
今は蒙古に奪われた北の大地を流れる黄河とくらべ、南の大地を東西に流れる長江は流れがおだやかで、その流れを利した水運が、今のこの国を経済的にささえているのはまぎれもない事実だった。
と同時に、おだやかすぎる長江を渡河されてしまえば、もはや蒙古の南下を防ぐ手立てはない。さまざまな意味で長江は帝国の生命線だった。
「よく知っておるな」
「そういうことに詳しい知り合いの受け売りだよ」
「ふむ」
船縁に寄りかかり、獅伯は川面を渡ってくる涼しい風に目を細めた。
朝に建康を出港した船は、雨に降られることもなく、今のところは順調に長江を下っている。風には恵まれていないものの、さほど急ぐ旅でもなく、船乗りたちもみなのんびりとしたものだった。ただ、護衛役の剣士たちだけは、この状況でも決して油断することなく、数人ずつ交代で江万里に張りついている。
「……ゆるめる時はゆるめといたほうがいいと思うけどね」
小さく苦笑した獅伯は、しげしげと鞘を調べている老学者に視線を戻した。
「刻まれている文字についてはわしにも詳しいことはいえぬが……この剣そのものの作りがな、何というか――」
「何?」
「かなり古いものなのは間違いないのじゃが、どうも、うむ」
「だから何なの?」
甲板に椅子を持ち出し、そこに腰を据えて獅伯の剣の鞘を手に取っていた江万里は、獅伯が持つ剣の刀身を指さした。
「……見たところ、作りとしてはふつうの剣とそう変わらぬが、この……鋼がな、ちとこの国のものとは違うような――」
「材質が違うってこと?」
「そういうことじゃな。あるいはもしかすると、鍛冶職人や異国の武器に詳しい者に尋ねてみるというのもひとつの手かもしれんぞ?」
「なるほど……ありがとな、じいさん」
江万里から受け取った鞘に剣を納めて背負い、獅伯は笑った。老学者のそばに控えている護衛の剣士たちは、そんな獅伯のぞんざいな言葉遣いが気に入らないのか、あからさまに顔をしかめている。が、当の江万里はそのあたりのことには拘泥していないようだった。
「ところで貴君は、
「は? 誰?」
「貴君は文宋瑞の知り合いなのだろう?」
「あ、もしかして文先生のこと? あいつ
「吉州? 確かにあれは吉州の生まれだったはずじゃが……いや、実はあれもなかなかに敵が多いというか、敵を作りやすい性格をしておるからのう。それでおそらくいつわりの名を名乗っておるのじゃろう」
「確かにあの男は余計なことを口走りすぎるよな」
獅伯には政治のことはよく判らない。だが、目の前にいる江万里が朝廷で重きをなすかなりの高官で、文先生が彼から目をかけられている元官僚だということは理解している。老学者の言葉は、文先生には政敵が多いという意味なのだろう。
大きく伸びをし、獅伯はあくび交じりに呟いた。
「あの優男が朝廷で辣腕を振るう姿なんて、おれにはとても想像できないけどさ」
「宋瑞はいささか剛直にすぎるのでな。今の朝廷には居場所がない。が、いずれこの国があの男の力を必要とする時がかならずやってくるはずじゃ」
「……路銀を酒代にしちゃうような男が?」
「何ひとつ欠点のない人間などおらぬ。要は、その欠点に目をつぶれるほどほかのおこないがすぐれておるかどうか――もしあの男がこの国を動かしてくれるのであれば、あの男の飲み代など国庫から出してもよいくらいじゃ」
「へえ、すごく買ってるんだ、文先生のこと」
「――えっ!?」
獅伯と江万里が船縁で並んで喋っていると、後ろから頓狂な驚きの声が飛んできた。
「りっ、り、林――」
「よう、若旦那。船酔いで倒れてたって聞いたけど、具合はもういいのか?」
獅伯が陽気に手を振ると、呉志載は真っ青な顔で足早に近づいてきた。
「あんた、やっぱりまだ顔色悪いぞ? 横になってたほうがいいんじゃないか?」
「い、いいから! 林どの、ちょっと――」
志載は獅伯の手を引いて江万里から離れると、声をひそめていった。
「な、なぜここにあなたがいるんです!?」
「なぜって……そりゃあ仕事だからさ」
「し、仕事?」
「ああ」
肩越しに江万里をしめし、獅伯はにやっと笑った。
「――あんたのところの舅どのに仲介を頼んで、江先生の護衛役に加えてもらったんだよ。……臨安までいっしょだな、若旦那?」
「まっ、まさか林どの、あ、あのことを先生に話したりは――?」
「あのこと? 何かばらされちゃ困るようなことでもあるのか、若旦那?」
「そ、それは、その……」
「安心しなよ」
だらだらと脂汗を流す志載の胸を軽く叩き、獅伯は鼻を鳴らした。
「おれは何もいってないし、この先もいうつもりはない。……あんたがこれ以上の不義理をしないかぎりはな」
「こっ、これ以上の不義理って、わ、私は何も――」
「そうやってしらばっくれるのはいいけど、もう二度と妙な気は起こすなよ? 官僚の世界ってのは足の引っ張り合いがすごいっていう話だし、女と縁を切るにしても、もっと綺麗にやらなきゃ駄目なんじゃない? 迂闊なことして競争相手に弱み握られたらとんでもないことになるんだしさ」
「――――」
もう二度と秋琴に手を出すな――獅伯としてはそう釘を刺したつもりだった。別に秋琴や文先生たちから頼まれたわけではない。ただ獅伯がひと言いってやらなければ気がすまなかったのである。
その意図が伝わったかどうかは判らないが、志載は甲板に出てきた時より顔を青白くさせ、ふらふらと船室に戻っていった。
それを見て江万里は怪訝そうに首をかしげていた。
「……どうしたのじゃ、婿どのは?」
「さあ? ゆうべはお客さんたくさん呼んで派手にやったんでしょ? だったらその酒がまだ残ってるんじゃないの?」
「うむぅ……何というか、な。あの婿どのは、いささか呑まれやすいというか何というか――」
「楽なほうに流されやすい?」
「そう、それじゃ。……貴君は婿どのの窮地をたびたび救った命の恩人だと聞いておるが、では婿どのとのつき合いは長いのかね?」
「いやいや、ほんの数日」
「そうか……」
「そういう江先生だってそうなんじゃないの?」
「む……つまり、その程度の短いつきあいでも、判る者には判ってしまうということじゃろうな。あの婿どのの性根は――」
「……どうして奥さんはそれに気づかなかったんだろ?」
「まあ、大人の娘御はあの通りの、うむ……何というか、天真爛漫な人柄ゆえ、な」
「天真爛漫、ね」
江万里が精一杯言葉を選んでいるのが判って、獅伯は思わず苦笑してしまったが、しかし、すぐにその笑みも消えた。獅伯が口にした奥さんというのは、いうまでもなく香君のことではなく、志載がその存在をなかったことにしたがっている本当の妻、潘秋琴のことだったからである。
一度しか会ったことはないが、話してみたかぎりでは、秋琴は思慮深く分別もある聡明な女性だった。香君はともかくとしても、なぜ秋琴に志載の本性が見抜けなかったのか――そう思うと、他人ごとながら歯噛みしたくなってくる。
軽い苛立ちと頭の痛みをまぎらわせるため、獅伯は瓢箪の酒を軽くあおった。
☆
調度類はそのままなのに、なぜかきのうよりも部屋全体が暗く感じられる。うっすらとただよう残り香が、かつてのこの部屋の主を思い出させるようで、それが女将には何とも淋しく感じられた。
「……それにしても意外でしたね」
部屋の掃除をしていた小間使いの娘が、さして汚れていない柱を拭きながら、ふと思い出したようにいった。
「こういったら悪いですけど、あの頼りなさそうな書生さん、とてもお金があるようには見えなかったのに、まさか秋琴姐さんを
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