第五章 逃げる男 ~第五節~

「それについては……どうも最後まで認める言葉は吐かなかったようですが、獅伯さんの印象では、まあ、黒ではないかと」

「……そうですか」

 秋琴の顔が青ざめていく。本人の口からはっきりとそう告げられたわけではないとはいえ、夫が自分を亡きものにしようとして人を雇ったという事実は、夫が失踪した理由を知った時以上の衝撃を彼女にあたえたようだった。

 秋琴にかける言葉が見つからないまま、白蓉がじっと彼女の横顔を見つめていると、手紙を読み進めていた文先生の眉がぴくりと吊り上がった。

「……ちょっと待ってください」

「何ですぅ?」

「くだんの呉志載さんですが、どうやらこの街を離れるらしいですよ」

「えっ?」

 秋琴がふたたび驚きの表情で顔を上げた。

「江万里先生が臨安に戻るに当たっては、どうやら陶大人の商売の荷を積んだ船に乗っていくようですが、どうも呉さん、その船で江先生といっしょに臨安に向かうようです。……次の科挙に腰を据えて取り組むためだとか」

「……どっかで聞いた話ですねえ」

 うんざり顔を隠すに隠せず、白蓉は溜息交じりにもらした。

「秋琴さんをこのままにしておくと、妻や舅に自分の都合の悪い過去を暴露されてしまうかもしれない。しかし、かといって月瑛さんがそばにいる以上、もはや秋琴さんをどうこうすることもできない。そこで呉さんが選んだのが、目の前の問題から逃げ出す、ということなのかもしれませんね。秋琴さんとじかに顔を合わせて弁解することすらしたくないようです」

「逃げたからってどうなるもんでもないだろうに……どうする、秋琴さん? 今から乗り込むかい?」

「いえ、さすがにそれは……」

 探花楼ではたらく妓女が呼ばれもせずに陶家を訪れ、そこの息子に直談判などしようものなら、どうやっても大騒ぎになるし、女将に迷惑がかかるのは避けられない。秋琴がそういうことのできる女なら、この建康に夫がいると判った時点ですぐに乗り込んでいただろうが、ここにいたってもまだ、秋琴は女将への義理立てを捨てたくはないようだった。

「だけど、それじゃあんまりにも……」

 月瑛と同じく、白蓉も呉志載の考え方には腹も立つし、何か仕返しをしてやりたいと思うが、秋琴がそう判断した以上、白蓉たちには何もできない。

「……まあ、陶大人のところに乗り込むというのは確かに乱暴すぎる話です。そもそも江先生が滞在している間は、誰であろうとそう簡単には屋敷の中まで招き入れてはもらえないでしょうし」

「けど、その江先生ってのが屋敷を離れて臨安に帰るのにくっついて、呉志載もここを離れるわけだろ? それじゃ恨み言をぶつけることもできないじゃないか」

「私たちがどうしたいか、ではないんですよ、月瑛さん。それこそあなたなら、もしそうしたければ、今夜にも陶大人の屋敷に忍び込んで、呉さんの片眉だけ剃り落としてくるくらいのことはできるでしょうけどね」

 そういって、文先生は秋琴を見やった。

 もともと秋琴は、夫の身に何が起こったのかを知りたがっていた。本人から直接という形ではなかったが、獅伯の手紙によって、ひとまずその願いはかなったことになる。その上で、秋琴はどうしたいのか、何がしたいのか――彼女への同情もあるが、白蓉はそのことがとても気になっていた。

 そうしたことを考えながら、白蓉がぼんやりと秋琴の横顔を見つめていると、秋琴は立ち上がって月瑛にいった。

「月瑛さま、力仕事をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「力仕事?」

 月瑛は首を傾げながら文先生を一瞥した。

「確かに腕力ならあっちの先生よりわたしのほうが頼りになるだろうけど……何だい、旦那を殴ってこいって?」

「ご冗談を……」

 秋琴は手ずから扉を開け、庭の一角、池のそばで慎ましやかな花を咲かせている秋海棠を指さした。こうしてあらためて見てみると、瀟洒なこの庭の中では、そのひと株だけがやや地味というか、少し場違いなようにも思える。

「――あの秋海棠の株を掘り返していただきたいのです」

「あの花を? いいのかい? 何か思い入れのある花なんじゃないのかい?」

「いえ、あれは単なる目印ですから」

「目印?」

「あの下に埋めてある箱を掘り返していただけますか?」

「箱? ……まあいいや、判ったよ」

「それじゃちょっと道具を借りてきますよ」

 実作業では役立てないとわきまえているのか、文先生は足早に庭から出ていった。

「秋琴さん、その箱って、中に何か入ってるんですかあ?」

「いろいろとです」

 何の気なしに白蓉が尋ねると、秋琴は哀しそうに微笑んだ。

「――月瑛さん、これでいいですかね?」

 ほどなくして戻ってきた文先生の手には、使い古された感のある鋤が握られていた。

「上等だよ。そこまでこだわりがあるわけじゃないけど、さすがにわたしだって、剣で地面をほじくる気にはなれないからね」

 月瑛は背負っていた剣を鞘ごと白蓉に預けると、袖をまくって秋海棠の根本にざくりと鋤を突き立てた。

「思ってたほど根張りしてないね。これ植えたの、わりと最近じゃないのかい?」

「ええ。春先です」

「……これかい、箱ってのは?」

 秋海棠の株をごっそり掘り返した月瑛が、土中から大きな包みを取り出し、土を払って四阿の卓の上に置いた。四辺はおよそ一尺半、高さは五寸ほどだろうか、白蓉が想像していたよりも大きい。

「やたら重いけど、いったい何が入ってるんだい?」

「え? ……あ、本当ですね」

 文先生が包みを持ち上げようとして、軽くふらついていた。

「わたしも埋める時にはひと晩がかりでした」

「えっ? これ、秋琴さんが自分で埋めたんですかぁ?」

「はい。――月瑛さん、どうぞ中をおあらためを」

「どれ」

 池の水でざっと手を洗い、月瑛は遠慮することなく包みをほどいた。中から出てきたのは幾重にも油紙で包まれた簡素な漆塗りの木箱で、やはりかなり大きい。みんなといっしょに四阿に集まり、白蓉は月瑛が箱を開けるのを見守った。

「! これは――」

 箱の中身を確認して、文先生が軽く息を呑んだ。

 箱の中に入っていたのは、金銀貴石をちりばめた簪や耳環、帯飾りといった、ある意味では妓女という仕事に必須の“商売道具”だった。ただ、その量が尋常ではない。しかも、どれもこれも見事な品ばかりで――くらべること自体が間違いだが――獅伯が露店で白蓉に買ってくれた簪とは、おそらく価値そのものが天地ほど違うだろう。

 文先生は青白く艶やかな璧をあしらった帯飾りをひとつ手に取り、ためつすがめつしながら、

「……どれもこれもかなりの値打ちもののようですね」

「ほとんどはいただきものですけど」

 建康でも指折りの妓女なら、枕代も安くはない。それ以前に、金品を惜しまず湯水のようにばらまける甲斐性がなければ、一流の彼女とはいっしょに酒を飲むことさえできないのである。

「不躾なことをいうようですが、これだけあれば、自分自身を身請けすることもできたのではありませんか?」

「できると思います。……義母の葬式を出すために身売りはしましたけど、最初からさほどのお金は借りていませんでしたし。ただ、女将さんがとても親身にしてくれて、あれこれと気を遣ってくれましたので、わたくしももう行くところがございませんでしたし、であればこのままここで恩を返しながら生きていくのも悪くはないかと――」

「とか思ってたら考えてた以上に稼げちまったってわけかい?」

 文字通りの宝の山を横目に、月瑛は力なく苦笑した。

「――で、わざわざこいつを掘り出したってことは、何か使い道を思いついたってわけかい?」

「はい」

 秋琴は小さくうなずいた。

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