第五章 逃げる男 ~第四節~

「状況を見ればそれ以外にないだろうな。しょうへきそうせいゆうのように蒙古との戦いで軍功を挙げた武将たちでさえ、財産を没収された上に流罪となっている。武官だけではない、戦地に送られて兵を率いて戦うはめになった文官たちも、あれこれと理由をつけて左遷、罷免されている。そしておそらくその何百倍もの数の兵たちが、その巻き添えとなり、流罪どころか死罪となって刑場の露と消えている。実際に略奪に加担した者も多いだろうが、中には潔白だった者もいたはずだ」

「あんたの親父さんもそのひとりだったってわけかい」

「この際、父のことはどうでもいい」

 元章は淡々と呟き、かぶりを振った。それはまるで、自分の行動は私怨から出たものではないと、そう繰り返すかのようだった。

「――俺が許せんのは、この国のために命を懸けて戦った多くの者たちが、その功績をむくわれることなく、それかあらぬか無実の罪で命を落としていったということだ。父もそういう人間のひとりだったかもしれんが、そうでなかったとしても俺のこの怒りは変わらん」

 元章は国のために戦った者たちを思って義憤に駆られている。ここまで歩んできた道は大きく違っていても、その意味では、自身が馬鹿正直と評した彼の父と、実はよく似ているのかもしれない。ただ、それを指摘されることを元章は嫌がるだろう。

 そう思って天童が黙っていると、元章は不意に聞き捨てならないことを口にした。

「……このままでは、いずれこの国は蒙古の軍門に下ることになるだろう。その前に、何としても国賊を誅せねばならん」

「お、おい、待てよ――」

 天童はぎょっとしたように腰を浮かせた。ここまでの話の流れに照らせば、元章のいう国賊とは賈似道のことにほかなるまい。大宋の屋台骨をささえる丞相を暗殺しようとは、さすがに言葉に出すこともはばかられる。

「安心しろ。今はまだその時ではない」

「いずれはやるつもりなのかよ……」

「賈似道は、政敵となりうる者たちを遠ざけ、自分にしたがう者たちを周囲に置いている。今の朝廷を動かしているのは、賈似道とその取り巻きたち……少しずつその力を削ぎ落とし、いつか賈似道を権力の座から引きずり下ろさねばならぬ」

「ていったって……どうやって?」

「だからだ。その手始めに、江万里を斬る」

「は?」

「江万里は賈似道の推挙で今の地位に就いた人間だ。高名な学者で人望もある。そうした人間が賈似道の専横の一助となっているのは喜ばしいことではあるまい」

「確かにまあ、臨安から出てこねえ丞相閣下よりは、よっぽど斬りやすい相手にゃ違いないだろうけどよ……」

「いかに清廉潔白な人物であろうと――いや、そうであればこそ、賈似道をいさめることもしないのであれば同罪だろう。それに、山荘にこうした話が舞い込んでくるということは、今の朝廷にも俺と同じく賈似道を憎む人間が少なからず存在し、雌伏の時をすごしているということでもある。彼らのために、俺もできるかぎりのことをやってやりたい」

 一気にそう語った元章は、自分がつねならず饒舌になっていたことに気づいたのか、珍しくばつが悪そうな表情を浮かべ、間に小さな溜息をはさんで続けた。

「……これは俺ひとりの考えであって、おまえや泉玉にそれを押しつけるつもりはない。俺はただ賈似道の手足をもぐことができればそれでよいのだ。泉玉がおまえに何といっているかは知らんが、俺のぶんの後金は、そっくりそのままおまえたちにやる」

「そいつはありがてえ話だ」

 元章の境遇や決意を聞いて、まったく心が揺れないわけではない。天童も理不尽な世の中に対してかかえ込んでいる不満はある。が、ことさら他人に情けをかけて生き延びていけるほど、この世の中は甘くないということも承知していた。

 元章は天童の腕を金で買う――自分たちの関係はただそれだけでいい。もしかしたら将来的に元章や泉玉とも戦わなければならない日が来るかもしれない――ならば過度に入れ込むのは危険だと、天童はそう割り切ることにした。


          ☆


 きょうは一日雨がなく、地面が乾いていたこともあって、白蓉はまた庭をせっせと掃き清めていた。すでに日も西に傾き始め、少女の影が東を指して長く伸びつつあった頃のことである。

「――白蓉さん、きのうから何やらご機嫌ですねえ」

 沈丁花の剪定をしていた文先生が、ぱちりぱちりと鋏の音を響かせながら、ふとそんなことを口にした。

「はい?」

 箒を動かす手を止め、怪訝そうに振り返る。文先生は横目に白蓉を見やり、きょとんとした表情を浮かべた。

「あれ、自分で気づいていないんですか?」

「何の話ですぅ?」

「白蓉さん、さっきからずっと鼻歌を歌ってますよ?」

「え」

 指摘されて初めてそのことに気づいた白蓉は、ぎょっと目を丸くし、慌てて視線を転じた。

「あんたはほんとに判りやすいねえ」

 扉を開け放って風を取り込んでいる部屋の中から、黒衣の姉弟子が白蓉を見つめていた。こちらはやたらと悪戯っぽい――いっそ意地の悪そうな笑顔を見せている。

 切り落とした小枝を集め、文先生は大きくうなずいた。

「よくお似合いだと思いますよ」

「え、いや、ちがっ……」

 真新しい簪を挿した髪を押さえ、白蓉は顔を赤くした。

 きのう獅伯から簪を買ってもらった話は、文先生や秋琴はもちろん、月瑛にさえいっていない。にもかかわらず、簪の一件はすでに月瑛たちに筒抜けになっていた。ということは、それだけ白蓉が判りやすく浮かれていたということなのだろう。そのことに思いいたった瞬間、白蓉は顔が一気に熱くなるのを感じた。

「こっ、これはその、違くてですねえ――」

 白蓉があたふたしていると、暗い面持ちの秋琴が一通の書状を手にしてやってきた。

「文先生」

 緊張の色の窺えるその呼びかけに、文先生や月瑛の顔からも笑みが消えた。

「どうしました?」

「店の子が、これを文先生に渡すよう頼まれたと……話を聞いてみると、どうやら林さまから預かったようで……」

「獅伯さんから私への手紙ということですか」

 文先生は四阿の卓の上に鋏を置き、手を拭きながら部屋の中に入ってきた。

「秋琴さんの旦那さんから何か聞き出せたってことですかねぇ? だったら直接教えにきてくれればいいのに……何を考えてるんでしょうか、獅伯さまは?」

 簪から話題が逸れて助かったと内心胸を撫で下ろし、白蓉もまた箒を片づけて部屋に入った。一応人目をはばかって扉と窓を締め、お茶の用意をしながら、文先生が手紙に目を通すのを静かに見守る。

「あのにいさん、何だって?」

「余人の目に触れる可能性を考えたのか、いろいろとぼかして書いてありますが……陶大人の屋敷に戻ってすぐ、本人を問い詰めてくれたようです」

「それで、あの人は何と……?」

「簡単にいえば、臨安で華やかな暮らしを覚えたことで身を持ち崩してしまい、仕送りを使い果たして帰るに帰れず、合わせる顔がなくて姿を消したとか――」

「――――」

 それを聞いた秋琴は、束の間息を止め、それから長々と溜息をもらした。なぜ夫が姿をくらましたのか――待ち望んでいた答えを聞いた秋琴が、その事実に少なからず衝撃を受けているらしいということは、かたわらで見ている白蓉にもよく判る。

「男が酒や女で身を持ち崩すなんてのは珍しくもない話だけどさ……」

 月瑛は小さく舌打ちし、冷たい茶をひと息に飲み干した。

「――老いた母親まで丸がかえで面倒見てもらっといて、しかも都で勉強したいっていい出したのは自分だろ? そのためにさらに金の工面までしてもらってる身分でそういうことやるかい、ふつう?」

「……獅伯さんにもそこを突っ込まれて、最後には開き直ったようですよ。それと、自分には秋琴さんという正妻がいることは、やはり陶大人にもその娘さんにも打ち明けていないようです」

「で、例の三人組の件は? その男の差し金だったのかい?」

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