第五章 逃げる男 ~第三節~
「餓鬼の頃は、親父への反骨心を抑えられなかった」
酒がなくなって手持ち無沙汰になったからか、元章は杯を置いて自分の剣を磨き始めた。
「――自分自身はもちろん、妻も子も犠牲にして戦い続ける身勝手な親父が腹立たしかった。国のために戦うのは判る。国が滅べば俺たちの暮らしもないからな。だが、そのために俺たちが割を食うのは合点がいかぬ。さほど稼ぎがあるわけでもないのに、親父は家族を後回しにして部下たちに酒をふるまうような見栄っ張りで、しかも剣の鍛練に打ち込んでいる俺に説教をしてくるような男だった」
「説教? 武人の息子が剣の鍛錬して説教されるって変だろ。軍ではたらくなら剣が使えなきゃ意味なくねえか?」
「剣を振り回す暇があるなら書を読め、戦場ではひとりの人間のはたらきなど何の意味もない――酒に酔うたびに、そんな知ったふうな口を叩くのが親父の癖だったが、俺はこの乱世なら剣の腕だけで世の中を渡っていけると信じていた」
「ふぅん」
「それもあって、俺は親父を見返すために家を出た。剣の道を突き詰めたいという思いもあったからだ」
「それでたどり着いたのが雪梅会ってわけか」
「そうだ。……だが、強さを求めて梅花山荘へ来たはいいが、じきにその強さというものがよく判らなくなった」
「判らなくなった? ンなことあるか?」
ほかのことならいざ知らず、剣での強さをいうのであれば、対峙して最後まで立っているほうが強いに決まっている。しかし、元章がいっているのは、そういう単純な話ではないようだった。
「……あそこに集まってくるのは、他人を闇討ちすることを何とも思わない連中ばかりだ。全員がそうではないにしてもな」
「そりゃまあ……否定はできねえよな」
「そういう場所にあっても、俺は寝首をかかれることなく生き延びてきた。技や力がどうのではなく、心持ちの部分で、俺は確かに強くなったと思う。だが、同時にあそこでは、剣の腕なら明らかに格上と思える人間が、それよりはるかに腕の落ちる人間に一服盛られ、あるいは大人数で闇討ちされ、あっさりと命を落とすところを一度ならず見てきた。……なら、死んでいった剣士たちは弱かったのか? 策をめぐらせた連中のほうが強かったのか?」
元章は剣を磨く手を止め、ぼそりと呟いた。
「……ある時から、親父が昔いっていたのはこういうことではないのかと考えるようになった」
「要するに、何をしてでも生き残った奴が強いってことか?」
「国同士の戦では、策をめぐらし、虚々実々の騙し合いをするのが当たり前だ。多兵で寡兵を攻めることも奇襲奇策をもちいるのも当然、戦場でそれをいちいち卑怯だとそしる者はただの馬鹿だ。国が滅びれば卑怯も何もないのだからな。その意味では、正々堂々とした果たし合いでしか発揮できない強さになど何の価値もない。……親父が否定した剣とは、つまりはそういう剣のことだったのかもしれん」
「しかしよ、だからって俺たちの剣に意味がねぇってことはねえだろう? 俺たちがやってんのは戦じゃねえんだぜ」
「それはそうだ。……だが、俺がどんなに剣名を高めようとも、親父はやはり同じことをいうような気がしてな。目の前のひとりの敵しか相手取れない剣を学ぶくらいなら、万人の敵を相手取るための兵法を学べと」
「……親父さんのいわんとすることも判らなくはねえんだが、素直にうなずきにくいんだよなあ」
天童にとっての剣は生きていくために必要なものであって、生き残るために剣を振るう以上は、究極的にはどんな手でも使うべきなのかもしれない。しかし、そういう思いがある一方で、誰にも後ろ指を指されることのない強さを身につけたいという思いもある。それは男として生まれたがゆえの矜持のようなものであって、もしかすると、それこそ泉玉あたりには鼻で笑い飛ばされてしまうものなのかもしれない。
「――じゃああれか、国の重鎮を狙うってのは、その親父さんへの……何だ、八つ当たりというか、意趣返しというか、そういうあれなのかい?」
「そう単純な話でもない。……いや、結局は単純なのだが」
「どっちだよ」
「先年、武者修行の途中で故郷に立ち寄ってみた」
「親父さんに会うためにか?」
元章は小さくうなずいた。
「あれこれ考えてみたところで何も始まらん。強くなった今の俺を見て、親父はまだ俺の剣を否定するのか、それとも認めるのか――それが知りたくなってな。そんなことを考えるあたり、俺も幼稚だったが」
「で? 親父さんは何だって?」
「家にいたのは老いた母親だけだった。……母がいうには、父は蒙古との戦いのために出征し、そのまま戻らなかったそうだ」
その言葉に、天童は眉をひそめた。
「……戦死したってことか?」
「戦死ならば父も多少は浮かばれただろうが、幸か不幸かそうではなかった。……刑死したという」
「刑死? 何やらかしたんだよ?」
「……おまえは
「賈似道? 確か偉い役人だよな? 名前くらいなら何か聞いたことあるぜ」
「四川に攻め込んできた蒙古軍を追い払った功績によって、今は丞相の地位にある」
「丞相? ってことは、今のこの国を動かしてる人間てことじゃねえのか?」
「そう考えていいだろうな」
「で、その丞相閣下が何だってんだ?」
「蒙古を討ち払って臨安に凱旋してきた賈似道が真っ先に手をつけたのは、軍の綱紀粛正だった。軍中で不正をおこなった者、軍規を犯して財を貪った者――要は戦費の横領や略奪をおこなった者たちを容赦なく罰していった」
軍という集団は、基本的には狂暴で理不尽なものである。それが敵か味方かは関係なく、目の前に略奪できる富があれば、数と武力を恃んで弱者から奪い取ることをためらわない。軍を構成する兵士たちの多くが、つねに飢えている民たちだからである。ふだんはそれを軍規という法によってどうにか御しているが、上に立つ将帥までがそれをよしとする人間であった場合、そこに住む人々にとっては悪夢でしかない。
「――俺の親父は、そうやって処分された上官たちに連座する形で斬首になったそうだ」
「巻き添え食らったってことか?」
「親父は、俺から見れば馬鹿がつくほどの正直者で、不正などするような人間ではなかった。そもそもそういう狡賢さがあれば、餓鬼の頃の俺がひもじい思いをすることなどなかったろう。……そんな親父が、上官の指示にしたがって部隊を率い、あちこちで略奪行為をしたという」
「本当のとこはどうなんだい?」
「判らん。性格を考えれば絶対にやらないだろう。むしろ、暴走する上官を止めようとして不興を買い、その場で斬り殺されたというほうが納得がいく」
これまで数多くの人間を斬ってきたであろう元章は、決して善人というわけではないが、寡黙で朴訥なそのたたずまいからは、ある種の生真面目さ――というより、不器用さのようなものを感じる。その元章の父親であれば、確かにそういう人間なのかもしれない。
「……そのあと間もなく、母は心労でみまかった。今となっては母の言葉が真実だったかどうかは確かめようもない。だから俺は、母の葬儀をすませて山荘に戻ったあと、人斬りを依頼するためにあそこにやってくる商人や役人たちから、いろいろと話を聞いてみた」
「話って?」
「臨安にいなければ判らぬこと、耳に入る噂も多いだろうからな。……そうして判ってきたのは、どうやら賈似道は、自分の地位をより盤石なものにするため、この綱紀粛正の機会を利用しているらしいということだった」
「丞相閣下が政敵を蹴落とすためにやってたってことか?」
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