第五章 逃げる男 ~第二節~

「林どのがご出立の際には、脚の早い馬と充分な路銀を用意させていただくつもりですし、そのほかにも――」

「それ、そのことなんだけどさ」

 そこまでしてもらってはかえって居心地が悪い。獅伯はほかに誰もいないのを確認すると、部屋に入って扉を閉め、冷たい茶をすすってから一段声を低く落とした。

「……路銀とかは、たくさんもらっても使ったらなくなっちまって終わりじゃん?」

「それはまあ……」

「もちろん路銀も必要だけど、それよりはもう少し先につながるものっていうか、ちょっと口を利いてもらいたいことがあるんだよ」

「口利き……ですか? つまり、紹介状をもう一通? そういうお話ですかな?」

「紹介状なんて仰々しいもんはいらないよ。この場合……そうだな、推薦? っていうのかな? 推薦してくれりゃいい」

 薄手の茶器の縁を指ではじいていい音を鳴らし、獅伯はそっと大人に耳打ちした。


          ☆


 きょうの泉玉せんぎょくは、朝から精力的に陶成大せいだいの屋敷の絵図面を作っていた。いったいどこからそんな情報を集めてきたのか、天童てんどうが思っていた以上に細かなところまで書き込まれている。

 天童は皮も剥かずに梨に齧りつき、口もとを袖でぬぐって尋ねた。

「……船に乗って近くの運河を流しただけで、そこまで判っちまうもんなのか?」

「判るわけありませんよ」

 大きな紙の上に筆を走らせながら、泉玉は小さな微笑とともに答えた。

「……あの時は、この貸家から陶家の屋敷までどのくらいかかるかということと、仕事をすませたあとの逃走経路を調べるために船を出させたのです」

「へえ、あんたでも逃げる時のこととかちゃんと考えるわけか。俺はてっきり、屋敷の人間も護衛役も、邪魔な連中は片っ端からみんな斬り捨てて悠々逃げるつもりなのかと思ってたぜ」

「わたしはそれでもいいのですがね」

 そう平然と泉玉はいう。しかし、数日おきに人の血を浴びなければ頭がおかしくなるという女なら、確かにそう答えるのが当然なのかもしれない。

「――相手は江万里、わたしはさほど詳しくありませんが、宮中で重きをなす要人であることは確かです。それを斬ったとなれば、お上の追及もかなり激しいものになるでしょう。下手に欲をかいていては自分の首を絞めかねませんからね」

「てことは、そのじいさんを斬ったらさっさとおさらばするわけか」

「当然――」

 泉玉の声が不意に途切れる。誰かが家の中に入ってきて、下で酒を飲んでいた男たちの騒がしい声もとたんに途切れた。

「……つまらんことになった」

 ほとんど階段をきしませることなく二階に上がってきた元璋げんしょうが、いつもとさして変わらない仏頂面で口を開いた。

「何があったのです? 屋敷の護衛役にでも見とがめられましたか?」

「江万里が建康を離れる。出立はあさってらしい」

「何?」

 天童は眉をひそめ、泉玉を振り返った。

「…………」

 筆を持つ手を止め、泉玉はぐっと目を細めて唇を噛み締めている。

「あさって……ですか」

「ってことは、今夜か、さもなきゃあしたの夜しか押し込む機会はねえってことかよ?」

「いや……あしたは朝から夜まで出立の準備のために多くの人間が屋敷を出入りするだろう。ことによってはこの街の名士たちを呼んで、夜通し宴をもよおすということもなくはない。そこに斬り込んでいくには手駒が少なすぎる」

「じゃあどうすんだ? 今夜仕掛けるか?」

「それも考えたが……泉玉、どう思う?」

「江万里はどうやって臨安に向かうのです?」

「船だ。ちんこうからこうなんを下って臨安に向かうつもりだろう」

 江南河は長江とせんとうこうの間を南北に走る巨大な運河である。おそらく陶成大が用立てたのに違いない。

 しばしの思案ののち、泉玉は筆を置いて未完成の絵図面をたたんだ。

「ここまでの努力が無駄になるのは腹立たしいですが……それはそれでやりようはあります。むしろ、獲物を逃す恐れがなくなったともいえますしね」

「……おまえもそう思うか」

「ええ……出港してから頃合いを見て仕掛けましょう」

 泉玉と元璋は、たがいに顔を見合わせてうなずいている。確かに長江を下る船の上なら、江万里を取り逃す恐れはまずないだろうし、途中で役人や禁軍の邪魔が入る恐れも少ない。

 泉玉は天童を見やり、

「……おまえ、いまさら泳げないとはいわないでしょうね?」

「得意とまではいわねぇけど、そもそも川に叩き落とされるほど抜けてねえよ」

「いいでしょう。……元璋、わたしは船を調達してきます。また少し金をばらまくことになりますが、かまいませんね?」

「……好きにしろ。俺の分け前を使ってもいい」

 元章は卓の上にあった泉玉の飲み残しの酒をあおり、深い溜息とともにはたらき者の相棒を見送った。

「――なあ元璋の旦那。聞いていいかい?」

「……何だ?」

「あんたがこの仕事にここまで入れ込むってのは、何か理由があんのか?」

「…………」

 元章は無言で天童を見やった。岩の塊に目鼻口を刻みつけたような武骨なその顔からは、どうにも表情というものが読みづらく、何を考えているのかもよく判らない。かすかなその変化を見逃すまいと、天童は慎重に言葉を選んで続けた。

「――あんたの相棒は、はっきりと金のために人を斬るとか断言してるが、魁炎のおっさんからは、あんたはそういう男じゃないって聞いてるぜ? 人斬りを請け負うのも自分の腕を磨くためだってな。……だったら、どうしてこの仕事にこだわる?」

 無数の護衛役に守られているとはいえ、江万里は文弱の徒、それももう還暦をすぎた老人だという。剣の修行としてなら、江万里などよりそれこそ林獅伯のほうが――勝てるかどうかは別として――よほどましな相手といえる。

 だが、元章は標的が江万里と聞いて、みずからこの仕事を引き受けたと聞いている。泉玉は金になるなら理由はどうでもいいと割り切っているようだが、天童にはそのへんがどうにも気になって仕方がない。

「まあ、俺がどうこう口をさしはさむような話じゃないとは思うんだが……何か私怨でもあるのかと思ってな」

「私怨などない」

「そうなのか? 俺はてっきり、腹黒い役人に親兄弟でも殺されたのかと――」

「江万里は清廉潔白な役人だ」

「じゃあ何だよ?」

 そう尋ねる天童に、元章は聞き返した。

「……おまえの生まれは?」

「俺の?」

「親は農民か、それとも商人か?」

「それがよく判らねェんだよな」

 梨の芯を窓から投げ捨て、天童は苦笑交じりに頭をかいた。

 逃げ惑う人々の中で立ち尽くしている幼い頃の自分の姿を、天童は今もはっきりと覚えている。他人の目線で自分自身を見たことなどないはずなのに、振り返ってみて頭に思い浮かぶのは、濁流のような人の流れの中で動けずにいる幼少期の自分だった。

「……俺はもともとじょうようの近くに住んでたはずなんだが、いろいろあって南へ逃げてくる途中、親とはぐれちまったんだと思う。気づいた時にはひとりで、あとはまあ……食ってくためにいつの間にか剣を振り回してたな」

 長江の支流のひとつであるかんすいの中流域に位置する襄陽は、現在の大宋帝国にとっては軍事上の最重要拠点のひとつであり、これまでに何度となく大規模な蒙古軍の襲来を受けてきた。天童が生まれたのは、つまりはそんな剣呑な土地であった。

「……そうか」

「そういうあんたはどうなんだ?」

「代々の武人の家系というか……由緒正しいとはいわんし、そもそも地位が高かったわけでもないが、まあ、父も祖父も北方の異民族と戦い続けてきて、それを唯一の誇りに生きてきたような、そういう家だ」

「へえ」

 そうした家柄の生まれなら国への忠誠心は篤いだろうに、なぜ元章が国家の柱石ともいえる江万里の暗殺を狙うのか、天童には判らなかった。

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