第五章 逃げる男 ~第一節~
しかし、陶大人には娘がひとりしかいなかった。だから、その代わりというわけではなかったが、陶家に滞在している間、江万里はその娘婿に四書五経をはじめとした儒学について講義してやっている。科挙を受験するに当たっては、かなり広範な知識と教養が必要とされるが、儒学はその根幹をなすといっていい。
ただ、陶家の婿の呉志載は――そのことが判っていないはずもないのに――教えていてもどうにも張り合いがない。若い頃から科挙を目指していたというだけあって、確かに頭は悪くなかった。が、悪くはないだけで、飛び抜けていいわけでもない。
「そうだな、何というか、婿どのは――」
「な、何でしょう、先生?」
「む……」
江万里は書物をめくる手を止め、どう伝えるべきか言葉に窮した。
陶家ほどの素封家であれば、志載が科挙に何度挑戦して何度落第しようと困窮することはないだろう。ただ、将来のことを考えるなら、官吏を目指すことはすっぱりとあきらめ、陶大人の商売の手伝いをするほうがいいとは思う。陶大人の長年の夢は江万里も聞いているが、それは志載に託すのではなく、それこそ愛娘と志載の間に今後生まれるであろう男子のいずれかに託せばいい。それがもっとも現実的で、陶一族のためでもあるように思える。
「……ま、また、何か間違いでも――?」
志載は慌てて筆を置き、顔を近づけて自分の筆跡を確認し始めた。
「いや、そういうことではなくてな……」
呉志載は、はたからは小心で生真面目な青年に見えるかもしれない。だが、小心なのは事実としても、生真面目かというとそうではない気もする。真面目そうにふるまうのが得意な、姑息で小利口な男だろうというのが、数日接した上で江万里が下した志載に対する評価だった。
今もこうして自分のいたらない部分を見つけようとしているが、おそらくそれは、目の前に江万里がいるからやっているだけなのだろう。本当に真面目に取り組んでいる人間なら、誰かに指摘されずとも自分のおこないを見返すだろうし、すぐに間違いにも気づく。なのに志載は、自分はきちんと見返している、という体をよそおっているだけで、実際にはそこまで真剣に見返すつもりなどない。だからすぐに判るはずの書き損じにも気づいていない。
「そこ……そこをな」
陶大人から贈られたばかりの扇子の先で志載の間違いを指摘し、江万里は小さく咳払いをした。
「こ、これはどうも……生来の粗忽者でして」
志載はそう自嘲して頭をかいた。
「……婿どの」
白茶をひとすすりし、江万里は窓の外の風景に目を転じた。
「老婆心ながらいわせてもらうのだが……そなたは、大人の商売の勉強をするほうがよいのではないか? 大人が若い頃からの夢をそなたに託したい気持ちは判るが、今はこのような時代だ。官僚になれたからといって、富貴栄達が約束されるとはかぎらぬ。もし蒙古と睨み合う最前線に赴任などということになったらどうするのじゃ?」
「いや、それは……」
「同じ科挙に臨むとしても、蒙古の脅威が去ったあとでよくはないか? それまでは大人のもとで商売にいそしみ……おお、それにそなたらにはまだ子供がおらぬではないか。男児をもうけることもそなたの大事な役目のひとつだと思うが」
「まあ……はい」
のらりくらりとしてはっきりしない志載の反応に、江万里は深く嘆息した。
考えてみれば、陶家のひとり娘の婿である志載には、少なくとも経済的な意味では、そこまで躍起になって官吏を目指す必要はない。だからあまり勉学に身が入らないのも当たり前といえば当たり前だろう。
だが、ならばなおのこと、科挙など目指さず舅の商売を手伝えばいいと勧めているのに、志載はこれについてもまた反応が薄い。それが江万里には奇妙に思えて仕方がなかった。
「江先生、ひとつお願いがあるのですが」
江万里の困惑をよそに、志載が切り出した。
「何かな?」
「先生はあす、臨安に向けて出立なさるとか」
「そうだが……それが何か?」
「では、私を先生のご一行に同行させてはいただけませんでしょうか?」
「む? 婿どのは臨安に何か用事でもおありか?」
「いえ、用事ということではなく、次の科挙に備えて、今から臨安に腰を据えて勉強に打ち込もうかと思いまして……」
「――――」
この若者は今までのやり取りを聞いていなかったのかと、江万里は眉をひそめた。
「いやしかし……その件について、お父上は何と申されておる?」
「義父にはこれから説明するつもりですが、私が及第することは義父にとっても長年の夢ですし、むしろ応援してもらえるのではないかと考えております。もちろん、臨安に着いてからは先生にはご面倒はおかけいたしません。あちらには義父の知人もおりますし。ただ、このご時世、臨安までの道中が不安ですので、そこを同行させていただければと……」
「ふむ……」
確かに陶大人は若い頃の夢をこの婿に託してきた。だから、そのために必要だといえば反対はしないだろう。商売のほうも順調で、すぐに代替わりが必要なわけではなく、志載がこの先数年にわたって臨安で勉学に打ち込んだところで問題はない。もし及第できれば大きな喜びだし、たとえ夢がかなわなくとも、それから商売の道に入ってもどうにかなるだろう。
しかし、これほど重要な、しかも当の舅にまだ話もしていないことを、前日になって唐突に切り出してきた志載に、江万里の疑念はますます強まった。
この若者は、いったい何がしたいのか――と。
☆
じんわりとした熱を帯びている瓦の上で、獅伯はじっと耳を澄ませて寝転がっていた。
「……なるほどねえ」
雨雲のない青空を見上げてひとりごちた獅伯は、眉間のしわを深くして身を起こした。
今この屋敷には江万里が連れてきた多くの護衛の剣士がいるが、こうして屋根の上で昼寝をしていた獅伯に気づいている者はまだいない。ただ、それは獅伯の体術が冠絶しているからであって、彼らが護衛として無能だからではないのだろう。
「さて」
獅伯は姿勢を低くしたまま、人目につかないところから日当たりのよくない中庭の一角へと飛び下りた。
「――ちょっといいかい、ご主人?」
金魚が泳ぐ池を飛び越え、何食わぬ顔をして屋敷の母屋のほうへ向かうと、獅伯は陶大人の部屋を覗き込んだ。
「おお、何ですかな、林どの?」
使用人たちに仕事の指示をあれこれ出していたのか、陶大人の部屋には多くの人間が出入りしている。その動きにひと区切りがついたところで声をかけた獅伯は、
「ほら、きのう紹介状を書いてもらったろ?」
「そうですな。それが何か?」
「その上でこんなことを頼むのって厚かましいような気もするんだけどさ」
「いやいや、林どのは娘夫婦の命の恩人、紹介状の一通や二通でその恩を返せたとは思っておりませんぞ?」
いかにも高価そうな茶器に茶をそそいで獅伯に勧めながら、陶大人は鷹揚に笑った。
愛する娘を暴漢から救ってくれたことで、陶大人は獅伯をずいぶん気に入ってくれているようだった。過去の記憶を失っている獅伯は、自分自身の身元をはっきり説明できない。そんな獅伯に通詞への紹介状を書いてくれたというのは、大人がそれだけ獅伯を信頼しているということだろう。
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