第四章 血を欲しがる女 ~第八節~
「でっ、ですから! 秋琴からいくらで請け負ったのです!? その倍……いや、三倍お支払いしますので、どうかこのまま、何も聞き出せなかったということに――」
「あんた……そこまでして過去を隠したがるって、いったい何したんだ? まさか臨安にいた頃に人を殺して、それで行方をくらましたとかいう話じゃないだろうな? 殺しじゃなきゃ盗みか?」
「そっ、いや、め、滅相もありません! 私が人を殺すだの盗むだの、そんな――」
「……まあ、あんたにそんな度胸がないのは判るけどよ。とにかく落ち着きなって。人に聞かれたくないだろ?」
興奮して立ち上がりかけた志載を引っ張ってふたたびしゃがませ、獅伯は長々と嘆息した。
「で、人を刺したとかいうんじゃないなら何やってたんだよ? 姿を消したあと、故郷に危険がおよんだって噂も耳にしてたはずだよな? それを知っててどうして家に戻らなかったんだ?」
「も、戻りたくても……戻れなかったんですよ……」
鳳仙花のしげみに身を隠し、志載はいった。
「あの時……いえ、そのもっと前から、金が……実は金に困っていまして」
「金? ちょっと待てよ、それ、今じゃなくて臨安に住んでた頃の話だよな? でもあんた、奥さんの実家から仕送りもらってたんだろ?」
秋琴からは、潘家に長く使えていた老僕が臨安に住む志載のもとへ様子を見にいきがてら、半年に一度まとまった仕送りを届けていたと聞いた。それで金に困るというと、思い当たることはそう多くない。獅伯は眉をひそめ、志載を睨みつけた。
「まさか……女か? 酒か?」
「さ、酒はそれほどでも……獅伯どののように強くないので……」
「ってことは女か」
「お、お恥ずかしながら――」
志載は消え入りそうな声で答え、小さくうなずいた。
最初の会試の時、初めて故郷を出て都へやってきた志載は、その華やかさに驚き、ひと目で魅了されたという。志載が婿入りした潘家はそれなりの素封家で、周囲よりもはるかにいい暮らしをしていたが、それもあくまで田舎の金持ちでしかなかった。婚家での生活は、臨安での日常とくらべればはるかに慎ましやかで、今は妻となった幼馴染みとの思い出も、急激に色褪せたものになっていく。
それでも志載は、科挙に合格して高級官僚への道が開かれれば、妻や家族たちをここへ呼び寄せ、何ひとつ不自由のないぜいたくな暮らしができるのだと考えた。そのためにこそ、志載は子供の頃から勉学にはげんできたのである。これまで漠然としていた目標がにわかに生々しい現実として目の前に現れ、志載は勇躍、会試に挑んだ。
「……しかし、合格はできませんでした」
「科挙はそう甘くないってことか」
きのう文先生は、自分は科挙に落第していない、きちんと及第して官僚になったが、上役に睨まれて下野しただけだと妙に繰り返し主張していた。それを考えると、文先生は獅伯が思っている以上に優秀なのかもしれない。
「で、ですから、もう一度科挙に挑戦するため、臨安に残って勉強を続ける道を選んだわけでして……」
「おいおい、いまさら取りつくろうなよ」
志載が次の科挙の受験を目指して臨安にとどまったというのは、かならずしも正しくはないだろう。当時の志載が故郷に戻らなかったのは、むしろ臨安での華やかな暮らしを手放したくなかったからであって、勉強のためというのは、もっともらしい口実にすぎなかったのではないかと獅伯は感じているし、今の志載の反応を見るかぎり、獅伯のその考えは間違ってはいまい。
腰から下げた瓢箪の酒で軽くのどを潤し、獅伯は続けた。
「……つまりあれだろ? あんた、臨安に来たはいいけどにぎやかな街が何か楽しくて浮かれて科挙に落第、でもってもう一回挑戦するって名目で臨安に留まることになったはいいが、勉強そっちのけで仕送りの金も女遊びに全部突っ込んじまった、と」
「……は、はい」
「それでにっちもさっちもいかなくなり、とりあえず臨安から逃げて行方をくらましてたら、今度は故郷のほうで蒙古が攻めてきただの大騒ぎになった。そこであんたはこれさいわいと、天涯孤独の身といつわり、この街で知り合った陶大人の娘婿に収まったってわけか」
「い、いつわるとか、私は別に……」
「いやでもあんた、奥方にも舅どのにも、自分の本当の境遇とかいってないんだろ? それともちゃんと打ち明けてんの?」
「そ、それは――」
「いってないんだよな? だから秋琴さんが生きてて、なぜかこの街にいるって判って、それで慌てたんだろ?」
「…………」
「なああんた」
汗だくでうつむいている志載の肩に手を回し、獅伯は低い声でいった。
「……自分の過去とかを隠し通すために、秋琴さんの口封じをしようとしたのか?」
「え!?」
「秋琴さんが三人組の男たちに襲われたのを助けたのがおれの知り合いだったんだよ。……話を聞くと、どうもその三人組ってのが、あんたが絡まれてた連中っぽいんだけど、どうなんだ、そのへん?」
「…………」
「おい、どうなんだよ? あんたが何もいわなくたって、状況を考えりゃ、こっちはそうだったんだろうなって思うしかないけどな」
獅伯がそういうと、志載はようやく顔を上げ、おどおどとしながらも、どこか卑屈そうな――獅伯からすれば何とも腹立たしい、癪に障る笑みを浮かべた。
「しょ、証拠は何もありませんよ」
「……は?」
「あ、あの男たちは、獅伯どのが斬ってくれたじゃありませんか。我が家に押し込んできた強盗ですし、獅伯さんがいなければ、私も妻も、こ、殺されていたかもしれない。斬られて当然のっ、く、屑どもですよ……そんな連中が妓楼の女をさらおうとしたり襲おうとしたって、な、何も不思議はないじゃないですか。わ、私は何も知りません! そんな、しゅ、秋琴なんて女のことも、知らないです!」
「……あんたさ、さっきは金を払うから秋琴さんには何も聞き出せなかったってことにしてくれっていったよな? いまさら何なんだよ?」
「し、知らない! 知りませんよ! 私には無関係だ!」
「あんた……自分の身を売ってまであんたの母親の葬式を出してくれた妻に対して、何をいってんだよ、おい?」
「知りません! 私は何も知らない!」
奇妙に裏返った声で繰り返し、志載は立ち上がった。おどおどしながら笑ったかと思えば、今度は一転、まるで癇癪でも起こしたかのようにわめき、不機嫌さを隠そうともしない。まるで気分屋の子供のようだった。
「とっ、とにかく証拠はないんだ! 獅伯どのも、よっ、余計なことは口にしないでください!」
早口でそうまくしたてると、志載は逃げるようにその場から立ち去った。
「……何なんだ、あいつは?」
志載が臨安から姿をくらました真相については、本人の口からどうにか聞き出すことができた。しかし、男たちを使って秋琴を襲わせた件については、かぎりなく怪しくはあるものの、何も知らないというばかりで認めようとしない。小心者のくせに存外にふてぶてしいあの態度には、さすがの獅伯も苛立ちを抑えきれなかった。
「……こんなことなら、あの時助けたりしないで見捨てりゃよかったか?」
なりゆきだろうが何だろうが、やはり人助けなどするべきではない――酒の香りの交じる溜息に乗せ、獅伯は苛つきを吐き出した。
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