第四章 血を欲しがる女 ~第七節~
「よう、若旦那。どうしてまたそんな景気の悪い顔してんだ?」
「ああ……獅伯どの」
獅伯の呼びかけにぎこちなく笑った志載は、いったんあたりを見回し、それから蓮の花が咲く池のほとりへと獅伯を手招いた。
「……まあ聞いてくださいよ、獅伯どの」
遅かれ早かれ志載とは深く突っ込んだ話をしなければならない。向こうからふたりきりでの話を持ちかけてきたのはむしろ好都合だった。
「何だよ? 朝メシの時はふつうだったのに、何かあったのか?」
「それが……せっかくの機会だから江先生の教えを受けてみたらどうかと、義父がいうもので――」
「江先生? ……ああ、離れのお客人か。何だか偉い役人なんだって?」
「はい。義父とは十年来の知り合いだとか……」
「ふぅん。……あれ? じゃああんた、その江先生に勉強を見てもらって、それでそんなに疲れきってんのか? だって……まだ昼前だぞ? 勉強を教わったっていったって、せいぜい一刻やそこらだろ?」
疲れるからやりたくはないが、やろうと思えば、獅伯は一刻の間走り続けるくらいのことはできる。だから、机の前に座って本を読んだり字を書いたりの一刻で、なぜここまで疲れるのかが判らない。
「それがまあ……とにかく厳しいのですよ、江先生は」
「厳しいって、間違ったら殴られたりするわけか?」
「いえ、さすがにそういうことはなさいませんが、何というか、江先生の叱責を受けると心が痩せるといいますか……」
「あんたさあ……そんな泣き言いってて、ほんとに科挙に合格する気あんの?」
「あ、ありますよ、当然……」
「…………」
志載は首をすくめ、獅伯に背を向けるようにして困ったように笑った。たびたび目にする志載のこの卑屈な笑みが、獅伯にはどうにも腹立たしく思えて仕方がない。獅伯は小さく舌打ちし、眉間にしわを寄せて押し黙った。
才能のあるなしは、この際どうでもいい。そもそも門外漢の獅伯には、学問のことで他人のできをどうこういう権利はないからである。それより獅伯が気になっているのは、この呉志載という男から、本気で何かをなしとげてやろうという気迫、強い意志をまったく感じ取れないということだった。
それでも、以前であれば獅伯には関係のないこと、どうでもいいことだと流すこともできた。しかし今の獅伯は、潘秋琴の身の上を聞いてしまっている。文先生たちが彼女に肩入れしているからということもあるが、秋琴の過去を聞いた上でこの志載の体たらくを見ると、他人ごとながら苛立ちがつのってくる。
大きく息を吸い込み、獅伯はおもむろに切り込んだ。
「……あんた、桂州の生まれだって?」
「えっ?」
唐突な獅伯の問いに、志載は軽く目を見開いて振り返った。
「え……あれ? その、お話しましたっけ? そのこと……」
「いや、あんたからは聞いてないな」
「で、ではどうして――?」
「あんたの古い知り合いから聞いた。……確か、桂州から科挙の受験のために臨安に出てきたんだよな?」
「――――」
少し前まで青かった志載の顔が、今はいっそ白く見えた。だらだらと脂汗を流し、何もいえずに口をぱくぱくさせている。この反応を見るかぎり、秋琴から聞いた話は間違いないようだった。
「まあ座れよ」
獅伯はあたりを見回し、志載の肩を押さえてその場にしゃがみ込ませた。小間使いにでも見とがめられ、ふたりの話を立ち聞きでもされたら、獅伯はともかく志載にとっては困ったことになるだろう。
「……あんた、何を考えてるんだ?」
「な、何を……とは?」
「は? いわれなきゃ判んないか? 何を考えてそんな不義理な真似をしてんだって聞いてんだよ。……あんたさ、奥さんの実家の援助でずっと勉強してきたんだよな? 一応いっとくけど、この場合の奥さんてのは、あんたが桂州に残してきたほうの奥さんのことだからな? あの苦労知らずのお嬢さまじゃないからな?」
「そっ、それは……いえ、ですが」
「何だよ、はっきりいえよ」
「つっ、妻の実家は私に援助をして、その見返りに、私は科挙に合格して一族を盛り立てる、という、その……一種の契約だったといいますか――」
一気にそう口走り、志載はそこでまた口ごもった。
「秋琴さんが自分の妻だってことは認めるんだな。……うん、まあいいや、で、契約な。うん、そういう契約があったとしてだ、あんたその契約守ってないよな? あんたは科挙に受かってないし、奥さんの一族を盛り立ててもいない。今のとこ、あんたが一方的に世話になっただけだろ?」
「そ、それは……結果としてそういう形にはなりましたが、しかし、合格する前に、妻の一族は、その――」
志載は額の汗をぬぐい、上目遣いに獅伯を見やった。たどたどしく言葉をつなぎながら、その間にどうにかうまいいいわけを考えているのかもしれない。彼の表情からは、志載のそんな焦りが透けて見える気がした。
「何だよ、その情けない顔は……もごもごいってないで、はっきりいいなっていってるじゃん、さっきから」
「獅伯どのが、ど、どこまでお聞きになっているか判りませんが、妻の一族は、桂州に侵入した蒙古軍の残党によって――」
「みんな死んじまったってか?」
獅伯がそう聞き返すと、志載は即座にこくこくとうなずいた。獅伯は聞こえよがしな溜息をもらし、
「……なあ、おれはあんたの奥さんから話をじかに聞いたんだぜ? つまり、みんな死んだわけじゃない、少なくとも奥さんは生きてるってことだろうが」
「そっ、それは――」
「そもそもあんた、桂州が蒙古の連中に荒らされる前に臨安から姿消したんだよな? 行方をくらませたまま故郷にも戻らないって時点でおかしいだろ。姿を消したあと、あんた、どこで何をしてたんだ?」
「……かっ、関係なくはありませんか?」
おどおどと視線をさまよわせながら、志載はかぼそく振り絞るような声でいった。
「わ、私の過去がどんなものであろうと、それは、獅伯どのには関係ないことなのではありませんか?」
「関係ない? おれはあんたの奥さんから頼まれてるんだけどな」
「なっ、何をですか?」
「ことの真相を聞き出してほしいってさ」
実際には、文先生たちが勝手にそういっているだけで、秋琴から頼まれているわけではない。獅伯はただ、夫の身に何があったのかを知りたいという秋琴から、その身の上を聞かされただけだった。
だが、妻の実家に何から何までお膳立てしてもらって臨安で勉強していたはずの志載が、なぜ急に姿を消したのか――そしてなぜ今ここで別の家に婿入りしているのか、そこははっきりさせておきたかった。秋琴のためというより、獅伯自身が知りたかったからこそ、あえてそういういい方をしたのであった。
「……いっそあんたの今の奥さんや舅どのにもかけ合ってみるか? これこれこういうことで、あんたのとこの婿に真実を問いただしたいんだが教えてくれない、あんたらからもいってやってくれ、とか」
「そっ、それは――」
不貞腐れたようにそっぽを向いていた志載は、はっと顔を上げ、慌てて獅伯の腕を掴んだ。
「それはやめましょう、獅伯どの! おっ、お礼なら払いますので……」
「お礼って何だよ? あんたからの礼金はもうもらった、舅どのからの紹介状も書いてもらった、それでもう貸し借りはなしだろ。――おれは今、あんたの奥さんから頼まれた話をしてんだよ」
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