第四章 血を欲しがる女 ~第六節~

「あなたのように激しい復讐心に囚われる人間は多いのかもしれませんが、その本懐が遂げられることは思った以上に少ないと思いますよ。――なぜだか判りますか?」

 史春は杖を掴み、軽くいきおいをつけて立ち上がった。

「……自分に酔いすぎるからですよ。あなたもそうだ」

「黙れ!」

 木の枝が大きくしなって風を打つ音がする。その直後、史春の頭上から、黒い外套をはおった男の影が襲いかかってきた。たがいに相手の死角に位置している状態から、右や左から回り込んでくるのではなく、大きく虚空を飛んで上から急襲してきた形になったが、史春は慌てなかった。

「そういうところですよ。それが酔いすぎだというんです。無駄に恰好をつけるからしくじる」

 大上段から剣を振りかぶって降ってくる男に対し、史春は左手一本で立て続けに三本の鉄針を投じた。

「おまえの手の内は判っている!」

 男は剣をひらめかせて鉄針をすべてはじき返したが、史春にはそのわずかな時間だけで充分だった。

「右足が自由に動かなくなったのは事実ですが、それでもさほど腕は落ちていないと思うんですがね」

「――!?」

「私があなたの立場なら、まずこの林に火をかけますよ」

 冷笑を含んだ史春の言葉を、男はその足元に横たわったまま聞いた。

「がっ……ぅ、ぐ」

 男が鉄針を打ち返す一瞬の隙に杖を順手に握り直した史春は、眉間を狙って繰り出された男の剣をあっさりと打ち返した。一見すると何の変哲もない木の杖だが、実際にはその芯には鉄の棒が通されている。なまじの剣では断ち切ることはできないし、史春のような使い手が振るえば、人の肋骨をあっさりと打ち砕くことも可能だった。

 脇腹を押さえて呻く男を見下ろし、史春はいった。

「わざわざ私の前に姿を出すからこうなるんです。この梅林に火をかけ、私が足を引きずりながら必死に逃げようとしているところを物陰から矢で狙えば、もっと簡単に仇を討てたかもしれないのに……というか、それ以前に、寝込んでいる私に一服盛ればそれだけでよかったんですよ」

 ただ仇を討ちたいだけならそうすべきだっただろう。それをこの男は、そこにある種の儀式的な意味を持たせようとして失敗した。兄の無念を晴らすためには、兄が斬られたのと同じこの場所で、同じように剣で斬って殺すしかない――そんな思いに縛られた結果がこれである。

「……まあ、そういうことも含めて、あなたは私より弱かった。ただそれだけです」

 剣を掴んでどうにかもう一度立ち上がろうとする男の頭に、史春はためらいなく杖を振り下ろした。

「――本当にこの林に火を放っていたら、たとえ仇討ちがうまくいっても先生に殺されるぞ?」

 撲殺された男の骸を放置して歩き出した史春に、いったいいつからそこにいたのか、魁炎が声をかけてきた。

「これは……見ていたのなら止めてくださってもよかったのでは?」

 史春は足を止め、ひさびさに会った兄弟子に深く頭を下げた。

 おそらくこの年長の剣士から見れば、史春の暗器のあつかいも、兄の仇を討とうとする男の決死の覚悟も、どれもこれも子供のお遊びのように思えたかもしれない。自分がいっぱしの剣士のようにあれこれ揚言していたところまで見られていたのかと思うと、史春はただただ恥ずかしかった。

 しかし、魁炎はそのことには触れず、

「……ようやく歩けるようになったか」

「はい、おかげさまで……」

「礼なら天童にいえ。おまえをここまで運んできたのはあの男だ。……といっても、今は林獅伯を捜してここを離れているが」

「ほかにも多くの者が留守にしているようですね」

「ここは少々騒がしくなりすぎた。むしろちょうどいい。おまえもそう思っているのだろう?」

「ええ、まあ」

「……ここにいる剣士の多くはたいていが人でなしだからな」

 腕組みし、魁炎はじっと遠くを見つめている。島の周囲に広がる湖はさほど深くなく、近隣には鮒や蟹を獲って生計を立てる漁民も多いが、それでも、この梅花山荘の近くで勝手に漁をしようとする者はいない。誰がいい出したわけでもなく、このあたりで獲れるものはすべて梅花山荘のもの、ひいては雪峰先生のもの――誰もがそのように考えているからである。

 そんな静かな湖面を眺めていた魁炎に、史春は尋ねた。

「先生は何をお考えなのでしょう?」

「どういう意味だ?」

「林獅伯の首と剣を持ち帰った者に雪梅会をゆずるという、例のお話です。……先生はどこまで本気でおられるのかと、ふとそう思いまして」

「どこまでも何も、すべて本気なのだろう」

「本当に……本気でそうお考えだと? ですが、私には――」

 獅伯に敗れて死にかけた以上、史春は大きな口を叩ける立場にはない。が、それでもあえていわせてもらえるなら、林獅伯のごとき剣士に、雪峰がそこまでこだわる理由が判らなかった。雪峰が出向くまでもなく、それこそ魁炎でも、あるいは天童のような男が数人がかりで襲いかかれば、獅伯を討ち取ることは決して難しくはないだろう。少なくとも雪峰が気に懸けるような相手とは思えない。

 それに、獅伯がたずさえている剣にしてもそうだった。確かにかなり古そうなものだったし、そういう意味での価値は多少なりともあるのかもしれないが、わざわざ人手を使って行方を捜させるほどの莫大な価値があるのかと問われれば、少なくとも史春はないと答えるだろう。それとも、そうしたものとはまったく別のたぐいの特別な価値が、あの剣にはあるということなのか。

「ここで我々があれこれ考えたところで始まらん。師父が何もおっしゃらぬではな」

 魁炎の視線が断琴亭のほうに向く。いつしか遠くから、雪峰がかなでる琴の音が流れ始めていた。

「――いずれにせよ、もしおまえが林獅伯への意趣返しを考えているのなら、一日も早くその足をどうにかすることだな。私はその男の腕前を知らないが、牙門の剣士たちに昼夜狙われて、それでもなお長く生き延びられるかどうかは判らん」

「……ええ」

 史春は小さくうなずき、歩み去る魁炎の背中を見送った。

 もし史春の足が以前のように動くようになったとして――そしてふたたび獅伯にまみえたとして、史春はその時、どうするのか。あの時の屈辱を晴らすために正々堂々と正面から再戦を挑むのか、それとも獅伯を倒すことを優先して自分に酔うことなく、使える手段を躊躇なく何でも使って淡々と彼を仕留めようとするのか。

 不思議なことに――さっきあの男を笑ったはずの史春は、なぜか自分もまた、馬鹿正直に獅伯の前に立ってしまいそうな予感がして、今度は自分自身に冷ややかな笑みを投げかけた。


          ☆


 前に世話になった金持ちが、金持ちの皮をかぶった悪党だったおかげで、獅伯にもやや身構えてしまうところがあったものの、実際に対面した陶大人は――こうした表現は少し奇妙だが――ふつうに真っ当な、鷹揚な善人だった。なるほど、このような父親のもとでなら、香君のような娘が育つのもうなずける。

 もちろん、海千山千の商人としての顔も持つ陶大人は、娘夫婦のように世間知らずではなかった。だが、ふだんから用心深くあれと、世間知らずの娘をきつく叱責することができないところが、おそらくこの男の甘さなのだろう。

「――ま、もらうもんもらっちまえばこっちのもんだからな。あとは……あん?」

 臨安にいる通詞への紹介状を懐にしまい込み、陶大人の部屋を出た獅伯は、離れのほうから青い顔をした志載がやってくるのに気づいて首をかしげた。まるで一日中はたらき詰めだったかのように疲れ果てた様子で、肩を落としてとぼとぼと重い足取りを見せている。

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