第四章 血を欲しがる女 ~第五節~

 たくさんの簪が並ぶ店先を白蓉の頭越しに見やり、獅伯はぼそりともらした。

「……いざって時に金に換えられそうだな。それとか、あっちのも」

「こういうものに興味のない獅伯さまらしいですねえ」

 獅伯の言葉に苦笑し、白蓉は若者の腰で揺れている瓢箪を一瞥した。

「――いざという時にお酒を買うお金に換えられるかどうか、獅伯さまは何を見てもそういうことを考えそうですよねえ」

「そりゃまあ、袖がほつれてようが膝のところに穴が開いていようが、生きてくぶんには何の問題もないからな」

「とかいってるわりには……獅伯さまはまたいいものを着てますねえ。どこかの女性に仕立ててもらったとかですかあ?」

「別にそんなんじゃないぞ。さっきもいったけど、ゆうべ押し入ってきた連中を斬った時に返り血で汚れたから、若旦那が代わりに用意してくれたんだよ」

 服が破れていようと靴に穴が開いていようと獅伯がさほど気にしないのは本当だった。ただ、そういうことを気にする人間が多いのも判るし、それを否定はしない。

 獅伯は小粒の翡翠をあしらった簪を一本手に取り、白蓉の髪に差した。

「え?」

「おまえもいざって時に金に換えられるもんくらい持ってたほうがいいぞ? 姉弟子みたいに腕っ節で稼げるわけじゃないんだし」

「あ……はい……」

 屋台の主人に代金を支払うと、獅伯は呆然とその場に立ち尽くす白蓉をその場に残して歩き出した。

 獅伯がさほど金にこだわらないのは、自分ひとりが生きていくぐらいであれば、それこそ剣一本でどうにか稼げると判っているからだった。逆にいえばそれ以外の稼ぎ方は知らないし、どこかに腰を落ち着けてまっとうな職に就くというのも、おそらくは無理だろう。

 意図せず志載たちと知り合いになり、その屋敷で世話になることにはなったが、もう貸し借りなしということにして、今すぐ旅に戻ったほうがいいのかもしれない。このままあの屋敷にいると、また面倒なことに巻き込まれるのではないのかと、根拠もなくそんな気がしてきたからである。

「獅伯さま!」

 雑踏の向こうから白蓉の声が追いかけてきた。

「――さっきのお願い、忘れないでくださいねえ!」

「……それを念押ししたかっただけかよ」

 肩越しに白蓉をかえりみ、獅伯は溜息交じりに苦笑した。


          ☆


 ばいさんそうにはつねに一〇〇人を超える剣士たちが籍を置いていたが、このところはその数もずいぶん減っていた。その多くは林獅伯の首を獲るために旅立っていったという話だが、そうした血気に逸る連中がいなくなったのは、今のしゅんにとっては喜ぶべきことかもしれない。

「ああいう連中は、泳げない人間を面白半分に湖に突き落としかねないからな。静かになって何よりだ」

 真新しい杖をついて梅の林の中を歩きながら、史春は大きく息をついた。その拍子に右腿に鈍い痛みが走り、史春の表情が強張る。

「――っ」

 春に死にかけ、ほぼ寝たきりのまま夏をすごし、そろそろ秋の声を聞こうかという今になって、ようやく杖をついて歩けるようになった。剣士として日々の鍛錬を欠かすことのなかった史春の手足は、その間にかなり細くなってしまっている。この手足をもとのようにたくましくするのには、さらにまだ半年ほどはかかるかもしれない。

 だが、剣を持つ両手がかつてのたくましさを取り戻せたとしても、深手を負う前の強さを取り戻せるとはかぎらない。それ以前に、史春の右足がもとのように動くようになるかどうかすら判らないのである。

 思えば史春は、足が不自由なふりをして獅伯を油断させ、一度は不意をつくことに成功したが、その獅伯の逆襲に遭って本当に足を引きずることになってしまったのは、はなはだ皮肉というほかはない。しかし、命があっただけましとはいえ、こうして生き延びた以上は、剣士として再起を目指したいのが史春の本心だった。

「…………」

 この島に植えられている梅の木は、雪峰先生の指示で雪梅会の人間が手入れをしている。この時期はもう実は収穫されているが、剪定作業がおこなわれるのはまだ先で、梅林に人気はない。

 が、史春はどこからか自分にそそがれる視線をはっきりと感じ取っていた。

「やれやれ……」

 史春は太い梅の木の根元に難儀しながら腰を下ろし、溜息をもらした。

 このせつばいかい――というより、牙門に加わった剣士たちの多くは、同門の寝首をかくことにも躊躇しない虎狼のごとき男ばかりだった。史春自身は、自分の剣の腕を磨くこと、雪峰先生の下知を忠実に守ることを優先しているため、仲間同士の足の引っ張り合いには興味がない。が、そういう連中を返り討ちにしてきたことは少なからずあり、誰かの恨みを買ってきている自覚はある。そして、史春を敵視する人間にとっては、今の史春がこうして人目につかないところへ出てきたことは、千載一遇の好機に思えるのかもしれない。

「……俺の兄貴のことを覚えているか?」

 出し抜けにそんな声が聞こえてきた。

「私に尋ねているのですか?」

 動揺することなく、史春は聞き返した。飛んできた男の声に聞き覚えはないが、自分に激しい敵意を持っているだろうことは、怒りを押し殺したような、かすかに震えるその声色で察することができる。

「三年前、ここでおまえに斬られた」

「ああ……確かにそんな人がいたかもしれませんね」

 そこまでいわれれば、おぼろげながらに思い出す顔もあった。いわくつきの剣を捜している雪峰先生の命を受けて旅立つ前、理由も判らずこの梅林で闇討ちされたことがあったのを覚えている。あの時に返り討ちにした男の名前はいまだに知らないし、その男に弟がいたというのも今初めて知ったが、だからといって申し訳ないと思う気持ちは湧いてこない。史春からすれば、それは単に降りかかる火の粉を振り払っただけだからである。

 近くに生えていた車前草を意味もなくむしって投げ捨て、史春は笑った。

「今にして思えば、襲われる心当たりがなくもない……先生のお役目で旅立つ者には相応の路銀が渡されますしね。おおかたあなたの兄という人は、私の懐を狙ったのでしょう。違いますか?」

「黙れ」

「尋ねてきたのはあなたじゃありませんか。――にしても、まさかとは思いますが、わざわざ私がここにひとりでやってくる機会を窺っていたんですか? あなたの兄がここで斬られたから? 仇討ちがしたければ、もっと早く、それこそ私が身動き取れずに生死の縁をさまよっている時にすべきだったのでは?」

「……おまえは王師兄のお気に入りだからな」

「そうでもありませんよ」

 まるで史春が魁炎に気に入られているから、これまで手を出すに出せなかったとでもいいたげだが、それを史春は苦笑とともに否定した。

「私が半死半生でここへ運び込まれて以来、師兄は見舞いにも来てくださいませんでした。存外に薄情なんですよ、あの人は。……いや、雪峰先生以外の相手にはあまり興味がないというべきかもしれませんが」

「もはやどうでもいい。今、おまえがここにひとりでのこのこ出てきた以上はな」

 徐々に殺気がふくれ上がっていく。ここまでの会話とその殺気で、史春はすでに、相手の男が自分の後方、三本ほどへだてた梅の木の陰にいるのだと悟っていた。

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