第四章 血を欲しがる女 ~第四節~

「襲われた?」

「はい。ここへ来る道中で説明したでしょう? その時に月瑛さんが秋琴さんを助けた縁で、私たちはここで厄介になっているんです」

「ああ、その話か。……いや、ちょっと待てよ? 旦那の手紙で呼び出されて出かけたら、ガラの悪い男たちに襲われたって、まさか――」

「わたしはそうなんじゃないかと思ってる」

 月瑛がぶっきらぼうにうなずく。どうやら月瑛は、秋琴の夫――つまり志載が秋琴を手紙でおびき出したところを、その男たちに襲わせたのではないかと疑っているようだった。

「……あんたも相変わらずだな」

 獅伯が見るところ、月瑛の剣の腕は自分と甲乙つけがたい。もちろん負けるつもりはないが、本気で戦って無傷で勝てるような相手とも思っていない。だが、それほどの剣士であるにもかかわらず、月瑛にはかなり甘い部分がある。獅伯からすれば、自分よりよほど月瑛のほうがお人好しで、情を捨てきれていない。特にそれは、相手が弱い立場の女である時に顕著だった。いつかそのことが彼女の命取りになるのではないかという予感があったが、たがいにひとかどの剣士である以上、余計な差し出口ははさむまいと思って、獅伯は何もいわなかった。

「……なあにいさん。あんたはその旦那と実際に顔を合わせてるんだろ? 何か思い当たるようなことはないのかい?」

 わずかに身を乗り出し、月瑛はあらためて獅伯に尋ねた。

「っていわれても、出会ってまだ……二日? くらいだぞ? おとといの夜、街はずれの廟で夜を明かそうとしてた時に、そいつが面相の悪い三人組に引きずられてきて、そのつもりはなかったのに何かなりゆきで助けたってだけだからなあ」

「面相の悪い三人組?」

「ああ」

 獅伯は志載と出会った夜のことをざっと説明した。

「おれはてっきり、あの若旦那が美人局にでも引っかかったか、さもなきゃ浮気がばれるかして強請られてるのかと思ったんだけどさ」

「その三人組……ひょっとして、秋琴さんを襲った連中じゃないのかい?」

「は?」

「わたしが運河に叩き落としたのもたちの悪そうな三人組だったんだよ。……これってただの偶然かい?」

「あ! それじゃ、そいつらを捜し出して締め上げましょうよ! そうすれば誰の差し金か判るんじゃないですかぁ?」

 甘いものを食べながら平気で物騒なことをいう少女を横目に見やり、獅伯は手酌で酒をついだ。

「そりゃあ無理だな。そいつらならもう死んでる」

「え?」

「どこで嗅ぎつけたんだか知らないが、ゆうべ若旦那たちの屋敷に踏み込んできたんでな。後腐れがないようにおれが返り討ちにした」

「そんな……獅伯さまの腕だったら、殺さずに捕らえることだってできたんじゃないですかあ?」

 白蓉の言葉に自分に対する非難の色がにじんでいたのを察し、獅伯はかすかな苛立ちを覚えた。

 あの三人組が何者だったのかは知らないが、獅伯としては、温情をかけるのは一度で充分だと思っている。同じ相手に二度も情けをかけ、また寝込みを襲われても面白くなかったし、何より、あの場では香君が人質同然となって剣を突きつけられていた。彼女を無傷で救うためには、不意を突いて瞬時に三人組を沈黙させるのが最善だったと思う。その判断を、その場にいなかった、しかも獅伯から見れば素人同然の腕前しかない白蓉にあれこれいわれたくはない。

 獅伯はひと息に干した碗を投げるように卓に置き、椅子を立った。

「面倒くさいな、ほんと」

「獅伯さん?」

「おれはたまたまその男を助けて、その礼だっていわれて屋敷でもてなしを受けてただけだ。最初から長居をする気はないし、また面倒なことに巻き込まれるようなら出ていくだけなんだから、あとはあんたたちで好きなようにやってくれ。――文先生だって、もうあの屋敷に正面から出入りできるだろ?」

「それはまあ……いや、でもですねえ、陶大人に知られるのはとにかくまずいわけで、できればこっそりと、その志載さんから事情を聞き出していただければな、と」

「だから、どうしてそこでおれを頼る?」

「月瑛さんが秋琴さんを連れてこっそり夜中に忍び込むってことも考えたんですが、今、陶大人の屋敷には江先生がお連れになった護衛がたくさんいるでしょう? もし彼らに見とがめられたりしたら、かえってややこしいことになりかねませんし――」

「ま、そりゃそうだろうな」

「いったい何があったのか、志載さんの口からきちんと説明してもらいたいというのが秋琴さんの望みです。それを聞いたあとどうするかは――」

「そこは……まだわたくしにもよく判りません。どうするのが正しいのか……」

 秋琴が弱々しく首を振る。

「――ですけど、義母の墓や位牌のこともございますし、このままにしておくわけにはまいりませんので……」

「…………」

 おそらく志載は、香君や舅に対して、自分が妻帯者だということは告げていない。そこを馬鹿正直に打ち明けていたら、そもそも婿入りの話はなかっただろう。もしかすると、少しばかり脚色して、妻に先立たれたくらいのことはいったかもしれない。ただ、いずれにしてもすでに志載は、この街に秋琴がいるということを知っている。知った上で、やはり香君たちにはその事実を伏せているようだった。

「……仕方ない。そういうことなら、本人がどう答えるかは判らないけど、一応は聞いてみるよ。空気が悪くなって、おれが屋敷から追い出されるはめになるかもしれねぇけどさ」

 志載の言葉の軽さを思い出し、獅伯は力なく笑った

 すでにもう日は暮れつつある。きょうの夕食の席では陶大人に紹介されることになるだろう。そこで泉州の通詞を紹介してもらえると言質のひとつも取れれば、そのあとで志載との関係がぎくしゃくしようともはやどうでもいい。そもそも獅伯は、志載に貸しはあっても借りはないのである。

「お手数をおかけして申し訳ございませんが、どうぞよしなに……」

 ただ酒を飲んで帰っていくだけの獅伯にふかぶかと頭を下げる秋琴が何とも哀れに見えて、さすがに獅伯も、礼をいわれるほどいい人間じゃないとはうそぶけなかった。

「――途中までごいっしょしますよう」

「は?」

 探花楼をあとにする獅伯の後ろから、ちょこちょこと白蓉がついてきた。

「別に見送りなんかいらないんだが」

「見送りじゃないですよう。せっかくこんな大きな街に来てるんですから、いろいろ見て回りたいじゃないですかぁ」

「そういうもんか?」

 子供の頃の獅伯が師匠に拾われ、ついこの間まで暮らしていたのは、樵も滅多に踏み込んでこないような奥深い山奥だった。谷川のせせらぎと鳥の声だけの静けさの中で、顔を合わせるのは師匠だけという日々をすごしてきた獅伯にとって、ここはあまりに人が多すぎる。確かにふだん目にすることのないさまざまなものであふれてはいるが、ここでの暮らしが本当に素晴らしいものかどうか、獅伯には判らない。

「――――」

 たたんだ借り物の傘をかつぎ、宵の口の人出をぼんやり眺めていた獅伯は、白蓉が足を止めたことに気づいて振り返った。

「おい」

 それまで気にも留めていなかったが、この界隈に並ぶ店の多くは、帯や帯飾り、簪に耳環といった、つまりは若い女たちが欲しがりそうなものばかりを取りあつかっている。白蓉の歩みが止まったのも当然かもしれない。

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