5-2
つらいことも悲しいこともない、ひどく平坦でつまらない人生だった。
両親とも健在で仲も良く、それなりに金銭的にも余裕のある中流家庭に生まれた。
僕自身も大きな病気や怪我をすることもなく、いたって健康に育った。幼い頃に階段から転げ落ちて、頭のてっぺんにぱっくりと割れるような傷ができたことがあったくらいだ。今も少しだけ傷跡が残っているが、時折頭を洗っているときに思い出す程度のものでしかない。
明るい性格ではなかったので社交的とは言えなかったが、それなりに友人はできた。ちょっとした悪ふざけの対象になることはあっても、いじめというほどの行為に遭った覚えはない。逆に誰かをいじめたり、誰かに向けられた悪意を見て見ぬふりをしたりといったこともなかった。
スポーツは得意ではなかったが、絵を描くのが少しだけ得意だった。中学までは美術部に所属していて、たまにコンテストで小さな賞を獲る程度の可もなく不可もない実力だったが、「絵を描いている」という実績は社会生活を送る上で十分に役立った。
順風満帆とはいかないまでも、及第点と言えるような人生を送っていたと思う。少なくとも『西村景』という人間に与えられたスペックは最大限活用していたはずだ。
それなのに、僕はずっと漠然とした生きづらさのようなものを感じていた。
何故生きているのかよくわからなかった。確かに大きな苦しみはなかったけれど、同時に大きな幸福も得られなかった。過ぎ去っていく毎日に押し流されているだけで、生きている実感がまるでない。
一方で、積極的に死にたいという気持ちがあるわけでもなかった。それはそうだ。死ぬほどの何かも起こらないのだから。生きる理由がないということは、死ぬ理由もないということだった。
だから、僕の人生には常に頼りないほど小さな希死念慮が付きまとっていた。
自ら死を選ぶほどのものではない。けれど、確実に生への疑問と死への渇望がそこに存在していた。
そうやって日々を過ごしていくことで、じわじわと息が詰まっていく感覚があった。辛うじて空気が吸える程度の真綿を口に詰め込まれ、ずっと生殺しに遭っている。そんな人生だったように思う。
僕は文演部で自分のシナリオを求められたとき、自然と自分が加害者となるものを書いていた。白坂先輩が自分を殺すシナリオを書いたように、僕は他人を殺すシナリオを書いた。
「どうしてそんなに加害者になろうとするんだい?」
白坂先輩にそう聞かれたことがあった。
「どうしてでしょうね」
そのときははぐらかしてしまったけれど、自分ではわかっていた。
僕は苦しみを求めていた。死ぬほどの苦しみを背負いかった。あるいは、死をもって償わなければならないほどの罪によって、論理的に自分の死を肯定したかった。そうすれば、自ら死を選ぶことができるかもしれないと思ったから。
そのためにまず他者の苦しみを理解しなければならない。人が死にたくなるほどの苦しみはどこにあるのか。『本作り』の中でなら、それを見つけることができる気がした。
【梗概】
佐伯秋人は恋人の芦田紗希を殺害した。
紗希はひどい家庭環境の中に生まれた子だった。父は酒癖が悪く、ろくに家に帰ってこない男だった。たまに帰ってくると母や紗希を殴り、満足すると再びどこかへ去っていく。母はそんな父から逃げることもできず、自分の心を守るために怪しい新興宗教へと嵌っていった。
そんな苦しさを誤魔化すように、学校では明るく振る舞う彼女だったが、その心の乖離が少しずつ破綻に向かっていた。そして、小さないざこざがきっかけで大村巧に怪我をさせてしまった彼女は、ついに限界を迎え、秋人に自分を殺すように懇願し、それに応じた彼は紗希を校舎の屋上から突き落とした。
紗希の死後、自分を責める巧を見かねた浦野優妃は、彼女の死の理由が別にあると証明するために、彼女のことを調べ始める。そんな優妃に協力しながら、秋人は紗希を殺したのが正しかったのかを考え始める。
【登場人物】
・芦田紗希(役なし) ……死を決意し、恋人である秋人に殺される。
・佐伯秋人(西村景) ……紗希の恋人。望みに応えて彼女を殺す。
・浦野優妃(白坂奈衣)……紗希の親友。失意に沈む巧を救うため、紗希のことを調べる。
・大村巧 (桜川和希)……優妃の恋人。彼女に怪我を負わされ、部活の大会出場を辞退する。
・荻原祐樹(友利成弥)……刑事。紗希の死に疑問を抱く。
【人物設定】
役名:佐伯秋人
感情の起伏が少なく、自発的に行動ができない。他人に対して優しく接しているように見えるが、自分にも他人にも興味がない結果そうなっている。
紗希とは幼馴染で、彼女からの強い押しがあり、高校に入ってから恋人同士になる。
自分が捕まることに関してはどうでもいいと思っているが、彼女を忘れて幸せになるようにという言葉に従って、自分の罪は隠している。
彼女を殺したことについて後悔はしていないが、本当に彼女が死を望んでいたのかを疑問に思う。
「君はいつか人を殺しそうだと思っていた」
初めて僕が書いたシナリオの中で、白坂先輩が演じる浦野優妃に言われた言葉。『本作り』の中でのセリフだというのに、それを僕自身に向けられた言葉のように錯覚してしまった。たぶんそれは、僕がコンプレックスを感じていた部分を的確に捉えたものだったからだろう。
他人の苦しみが理解できないからか、僕は時折無意識に人を傷つけることがあった。
あれは中学二年生くらいのときのことだ。地域の美術コンクールに向けて、僕を含めた美術部の人間は必死になって絵を描いていた。
締め切りが迫る仲、何となく描きたいものが思いつかずにいると、ふと先輩の製作途中の絵が目に入った。それは校庭の隅にある大木を描いたもので、お世辞にも上手いとは言い難かったが、そのモチーフのチョイスがいいなと思った。
僕は先輩と同じ大木をモチーフに選び、佳作に入選することができた。元々僕は風景を描くのが得意で、正面からではなく校舎の窓から覗いたその木を描いたことで、構図のユニークさが評価されたようだった。
「お前のこの絵、明らかに盗作だろ」
先輩の絵は全く賞に絡むこともなく、その腹いせなのか、僕の絵を見て怒り狂った。単にモチーフが同じというだけだったし、それ自体も学校の中にあるものだったので、構図も描き方も全く違う二つの絵を盗作というには無理がある。顧問の教師もその主張を頭ごなしに否定することはなかったものの、明らかに呆れた様子で彼をなだめていた。
そのときも、どうして彼が怒っているのかがあまりよくわからなかった。確かに僕は彼の絵を見てあの大木を描くことに決めたが、絵自体を真似たわけではない。それを盗作だというのなら、彼が描く絵は他の絵を見た経験が全く反映されていなければならないだろう。
今になって思えば、僕は彼の苦しみが理解できていなかったのだ。自分と同じモチーフの絵を後輩に描かれて、しかもそれが自分より評価される。そのことは彼に耐え難い苦しみを与えたが、僕はそんな彼の感情を想像することすらできなかった。せめて一言断っておけば、彼もあんな風に抗議してくることもなかったはずだ。
結局絵を描くのはやめてしまった。元々暇を潰すためにやっていたことで、強い思い入れがあったわけではない。何となく面倒になって、気付けば自然と筆を置いていた。
僕はいつか自分がもし人を殺してしまったとしても、その罪に気付けないのではないかという恐怖があった。
佐伯秋人のように、ただ空虚な罪を背負っていくことになるのではないか、と。
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