第五章 西村景

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 ずいぶん長く居座っていた夏の残り香もいつの間にか霧散し、柔らかな秋草の香りに塗り潰されてしまっていた。乾いた風に吹かれる肌寒さが寂寥感を刺激し、つい感傷に浸りたくなるような気分にさせる。

 閑散とした姿が目立つようになったこの文演部の部室に、今日も僕は一人で訪れていた。あの日以来、ノブを持つ手にかかる重さが日に日に増している気がしていた。埃と黴が混じった暗澹とした匂いを一層強く感じるのは、きっと単なる気のせいなのだと思う。

 白坂先輩が死んでから、僕は色々なことを考えていた。彼女は何故死んだのか。彼女の死を僕たちはどう受け止めるべきなのか。僕たちの役割は何なのか。彼女は何を遺したかったのか。そして、この物語は誰に向けられたものだったのか。

 そんな問いに一つの答えを見出すため、僕はこの物語に終止符を打つ。彼女の信奉者であり、このシナリオにおける語り部として。

「……やあ」

 閉め切ってあった扉が開き、籠り切った空気が押し出されて、水面から息継ぎをしたように一瞬だけ息苦しさが消える。しかし、和希が中に入って再び扉を閉めると、束の間の幻想はすぐに現実へと切り替わった。

 僕はこの物語を語るにあたって、聞き手として和希を選んだ。彼はもちろん登場人物の一人であり、僕と同じ白坂奈衣の信奉者であり、何より僕の友人でもあった。だから聞いてほしかったのだ。最後まで残ってまだ語られていなかった、僕と白坂先輩の物語を。

「ようやく終わらせられると思う」

 僕がそう言うと、彼は静かに頷いた。

「ちょうど僕もそう思っていたところだったよ」


 そうしてラストシーンが始まる。


「白坂先輩はどうして死んだのか。それがこのシナリオに隠された一番の謎だった」

 ――何故彼女が死を選んだのか、その理由を誰も知らない。

 梗概に付け加えられていた不自然な一文。それこそが彼女の遺した唯一のヒントだった。ここを解き明かせ、という、挑戦状のようにも感じられる。だから僕はそれを調べることにした。

「僕たち登場人物はみんな彼女の死を自分事にしたがっていた」

 彼女によって、そうなるように仕組まれていたのだ。僕たちは彼女の死を彩るための舞台装置だった。彼女の死が僕たちの心を動かし、個々の物語を生み出していく。それが集約し、儚く散っていった先に、彼女自身の物語が誕生する。それが彼女の遺したシナリオだった。

「白坂先輩は、姉である玲衣さんの死に憧れていたんだと思う」

 才能ある若き小説家の非業の死。自己中心的な感情の昂りによって、恋人を傷つけ、妹を置き去りにし、創作に絶望して死んだ。そんなドラマチックで人間的な美しい死に、彼女は憧れたのではないだろうか。

 それ以来、彼女はそんな美しい死を自分にもたらすため、自分に合った死の物語を探していた。

 きっと文演部での『本作り』はそのための実験的な意味合いがあったのだろう。死がどんな風に人の心を動かすのか。自分はどういう死に方をするべきなのか。その死に必要なものは何なのか。疑似的な死を繰り返すことで、それを探し続けていたのだ。

「彼女の物語には、僕たちの存在がちょうどよかった」

 自分に嫉妬する人間。

 自分に羨望を向ける人間。

 自分を忌避する人間。

 そして、自分に好奇心を抱く人間。

 それぞれの中に、彼女の死によって動き出す物語が出来上がっていた。

「だから彼女は、できる限り僕たちの感情を刺激するための下準備をした」

 住野詩織を挑発し、

 桜川和希を誘惑し、

 友利成弥を軽蔑し、

 西村景に期待した。

「全部彼女のシナリオ通りだったんだ。住野さんも、和希も、友利先輩も、彼女の死を盗もうとして、それがあっけなく崩れていく。探偵役に選ばれた僕は、その一つ一つを崩していく度に、自分が彼女の死に何の関係もなく、ただの語り部として選ばれた一登場人物でしかないことを思い知らされる。最終的にすべての短編が完結して、ようやくそれらを包括する彼女の死という大きな物語が完成するんだ」

 そこまで語ってやっと重たい肩の荷が下りた気分になる。

これで『西村景』という役から降りることができる。僕には根本的に向いていない役だった。他人の心に踏み込んでいって、暴かなくてもいい部分を暴く。相手のことを理解するのが苦手な僕に、そんな役が務まるわけがなかった。いや、あるいはそんな人間だからこそ、この残酷で無慈悲な役を当てられたのかもしれない。

 とにかく気持ちのいいものではなかった。かと言って、途中でこの役を降りるわけにもいかなかったし、彼女の遺した物語を見届けたいという思いの方が強かった。

 だからこうして了の字がつけられた物語を目の当たりにして、一種の感動や達成感に近いものを感じていた。僕はずっとこの瞬間のために、文演部で彼女の物語を見続けてきたのだ。

「それがあの人の用意したシナリオなんだね」

 すべてを語り終えた僕の顔を、和希はただ真っ直ぐ見つめる。

「そこに君は何を書き足したの?」

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