第3話
それから、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて、お屋敷は落ち着いて行きました。幾人かの人が去り、幾人かの新しい人が入ってきました。
お屋敷という器は、それらの変化を抱きとめて、いびつな形を少しずつ直していっているようでした。
それは、元の形に戻すというよりは、ゆっくり、ゆっくりと、終わりに近づいているような、そんなことを私に思わせておりました。
私も、そのころにはずいぶん年を取ったように感じておりました。実際はそれほどでもなかったのかもしれません。番も持たず、子もなさず、過ごした日々はあまりに遠く、時間の流れを麻痺させるものにござりました。
私はいつまでも、子猫のような心持でいたのかもしれません。けれど、体は確実に、以前よりもうまく動かなくなっているように思えました。
時折、命、ということを考えるようになりました。人間の世界では、猫には九つの命があるといわれているようですが、私に九つも命などあるはずもありません。
どんな生き物でも、命は一つ。猫にも一つ。人にも人つ。数多の生き物に一つずつ。それは、永久普遍に尊いものです。失われてもよい命などあるはずもないでしょう。
それでも、人は殺し合い、傷つけあう。何のために?それほどまでの犠牲を払って、その手にするものは何なのでしょうか。そうして手に入れたものは、奪った命の重さよりも価値のあるものなのでしょうか。
私は今もって理解できないのです。
私は静かになっていくお屋敷の中で、人の世の流れが、非常に激しく、大きな移り変わりが来ているのを感じておりました。それに伴って、空が、ごうごうと音を立てていることに、人間は気づいているのでしょうか。少なくとも私の耳には、天が咆哮しているのが聞こえました。それが、何を意味するのかなど、私にはうかがい知れませんが、時流が変わるというのは、そういうことなのかと、思っておりました。
このところ、私の耳や目は、現のことを捉え難くなっているようでした。現の景色に透けて見える、現ならざるものも、見えておりました。そこにあるはずのない人の影。冬に飛ぶ蝶。襖を通り抜ける馬。数々の光が、天に昇っていくさまも。それが何なのかは私にはわかりません。それらは、ただ、そこに在るだけのように見えました。
今のお屋敷の静けさは、平和というものではなく、その時流の流れから振り落とされた静けさなのかもしれません。
それでも、動きます。動かねばならぬのです。
時流の流れに乗り、大きく飛び立つものがあれば、その流れから振り落とされたものも、また、そこであがいていかねばならぬのです。
生きるために。
生きるために。
そんなある日、一人の使者がお屋敷を訪れました。
その者のお話を、私は聞くことはできませんでしたが、姫様がひどく動揺しておられたのを覚えております。
それからほどなくして、姫様は病を得て、床に就かれてしまいました。
「鬼じゃ」
姫様は薄暗い部屋で天井を見つめたまま、小さくそう、零されました。
そして、ぽつり、ぽつりと、お言葉を漏らし始めたのです。それは、姫様が隠した、本当の心のように思えました。
「私の中に鬼が居る」
「ああ、」
私は、そっと姫様の傍へ行きました。
ちりん、と、首の鈴が鳴ると、姫様はそれを聞いて、私の方に手を伸ばされました。元々白い姫様のお手は、いつもよりもっと白く、どこか青ざめて見えました。指も細くなられ、それが、私にはとても哀しいのです。美しいという細さでは、最早なくなってしまっておりましたから。
「父様」
姫様は、私の首の毛を撫でながら、そう、お呼びになりました。
その頃の私はもう、知っていたのです。姫様が私に、たくさん、たくさんの面影を重ねていたことを。姫様の御父君は、猫がお好きであったこと。白く長い毛は、姫様の御父君の兜を思わせること。赤い組みひもも、また、然り。そうして、姫様は、私に故郷の片鱗を見ていたのだと。
「助けて下され、私の心に鬼がおりまする。世継ぎが生まれて良かったと、安堵する想いと、何故私に授からなかったのかという悲しみが、そして、何故側室に子ができたのかという……ああ、恐ろしい。口にするのも恐ろしい。父様、どうか、助けて下さいませ。この哀れな娘をお救い下さりませ」
そう言って、泣き崩れてしまう姫様を、私はどうしようも無かった。
悔しい。悔しくてたまらない。この身が猫であることを、これほどまでに悔しいと思ったことはありませぬ。
この身が人であれば、姫様を抱きしめることができるのに。姫様の御父上ほど、私は頼りがいはないけれど、少しは姫様を安堵させられるのに。
けれども、私が猫の身であればこそ、姫様は私の前で、お心を露わにすることができる。他の屋敷の人々がそうであったように。人でない私は、そうして人の心を少しなりとお救い出来るのではと、思う。
姫様、姫様。
大好きな姫様。
泣かないで。
姫様が鬼になると申されるのならば、私も鬼になりましょう。
鬼にも蛇にもなりて、姫様のおそばにありましょう。
だからどうぞ泣かないで。
私に出来るのは、そう、心に思いながら、そっと姫様のお手に、身体を摺り寄せることだけでした。
それはもう、いつのことなのか、私には分からないのです
私ももう、そのころには、ぼんやり、ぼんやりと、しておりましたから。
ただ、寒さがゆっくり、ゆっくりと遠のいて、空気にほんの少しばかり、花の香りが混ざるようになっていたと思います。
それを現のこととも、幻とも分からず、私はおりました。
私は、姫様のお床に入らせて頂いておりました。もう、ずっと長いこと、そこで過ごしていたようにも、ほんの数刻前にお許しいただいたように思えておりました。
ただ、姫様の命の気配が、次第に薄れていくのが分かります。
多分、私の命も。
私の身体ももう、そこから動くことが出来なくなっていたのです。
「……」
姫様が、乾いた唇を動かして、声にならない声で、私をお呼びになります。
私も、乾いた喉から小さく、声を絞り出してお答えしました。
姫様の、もう冷たくなり始めたお手が、私の、冷たくなっていく体に乗せられたままになっています。
ああ、私たちは、いつからこうしているのでしょう。
それすらも分からないまま。私はゆっくりと、姫様のお手の感触も、その、重みも、感じられなくなっているのです。
姫様、姫様。大好きな姫様。私の、この世で一番、大切な姫様。その姫様のお目から、涙が一筋、零れて落ちました。私はそれを、とても美しいと思って見ておりました。
あの、初めて姫様を見た、冬の日のように。
ねぇ、姫様。
私は幸せでありましたよ。
姫様と一緒で、とてもとても幸せでした。
私は、精一杯生きましたよ。
姫様も、懸命に生きておられましたよね。
私は知っています。
ずっと、姫様を見ておりましたから。
だから、もう、いいですよね。
一緒に、還りましょう。
あの、温かな場所へ。
優しい光の下へ。
愛にあふれた、懐へ。
ともに参りましょう。
きっと、それが……
私は、そうして、最期の息をしたのでございます。
……そうですね。
あれからどれほどの時がながれたのでしょうか。
今、は、どんな時代でしょうか。
人は人を傷つけておりますか。
命を奪っておりますか。
まだ、下らぬことに心を奪われておりますか。
人は、その生の中に、何を得んとしておりますか。
生の先に、その手に出来るものの価値を、どう思われておりますか。
人を愛しておりますか。
愛の中でいきておられますか。
あなたの、大切なものは何ですか。
人は……
否、
あなたは
今、懸命に生きておられますか。
同じ問いを、あなたの魂が生のくびきを離れた後に、また、致しましょう。
ああ、あの懐かしい香りがしてまいりました。
私もゆかねばなりませぬ。
それでは、また、いずれ……
……ちりん……
雪と蘇芳 零 @reimitsuki
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