第2話


「やぁ、君が蘇芳か」

翌日、私が廊下を歩いていると、そう声をかけられました。顔を上げると、そこには姫の夫君がおりました。その少し後ろに菊姫様もおりました。

 夫君のお名前は景勝様というのだということを後で知りました。しかし、知ったところでそのお名前を口にするわけにも、できるわけもないので。私はすっと足をそろえて座り、小さく猫の言葉でお返事をいたしました。

 仮にも姫様の夫君に失礼があってはいけませぬ故、丁寧に、丁寧に、心を込めて居、お行儀よくしておりました。

 しかし、殿様はそんなことはお構いなしに私を抱き上げ、まじまじとご覧になりました。その時、私が内心、とても照れて困っていたことなど、お殿様も、姫様も知らぬことでござりましょう。暴れ出したいのを堪えるのに必死でございました。

「ふむ。確かにな」

そういって、殿様は私をお抱きになり、私の首のあたりの毛を撫でていました。何のお話でしょうと、私が首をかしげますと、姫様がくすくすとお笑いになりました。やはり、いつもの姫様よりも嬉しそうであられると、私もうれしくなりましたが、謎は解けぬままでした。強いて言えば、私の首の周りの毛は、他の場所よりもほんの少し、長くありました。それが、人様の手には心地よく感じられたのかもしれません。実際、そう言って撫でてくれる人も居りましたから。

 しばらく殿様の腕の中に居りますと、ふわりと、良い香の気配を感じました。姫様も衣に香を焚き染めておられますが、いつも嗅いでいる姫様のお香とは違う香り。

 それでも、それが良い香りであることはわかりまする。私も、菊姫様の猫ですから。そして、それが、殿様が衣に焚き染めている香であることにも気付きました。それがお気にいられて使われているのか、あるいは、姫様にお会いすることを考えて、お選びになったのか。定かではございませんが、それが、菊姫様の殿様の香りであると、私はしっかりと覚えました。

 これで、姫様も、殿様も、どこにおいでになっても私にはわかることができる、と、飼い猫としての矜持と申しましょうか。そんなことを思っておりました。そのようなことを思えるようになった自分を少し誇らしいと思っていました。


 その、夜のことでした。

 私はせっかくの短い逢瀬、お二人きりにして差し上げるつもりだったのですが、何故か姫様は私をお呼びになられたのです。

 お二人は縁に出て、月を見上げてお話をされておりました。

 春の霞の、美しい月夜にござりました。


「幼い頃に、其方と出会えていれば良かった。まだ、世の中のことなど何も知らぬうちに其方と話がしたかった」

殿様は、月を見上げたままでそう仰いました。姫様の方は見ずに。どこか切なげに、月だけを瞳に映していらっしゃいました。

「何故にございまする?」

姫様もまた、殿様の方は見ずに、膝の上の私の背中を撫でながらそう問われました。私は黙って姫様のお膝に体を委ね、半分寝ているふりをしてお話を聞いておりました。

「お互いに、名のある武将の子であろう。子供の時分にお互いの親について語り合ってみたかった」

「無邪気に」

「うむ」

「なんの策謀も無く、また、それを意識することも無く」

「うむ」

「民草の子らが、己らの親を自慢するように」

「そうだ」

そう言って、お二人は小さくお笑いになりました。それは、もう、まるで幼い童のように。無邪気に。

「今からでもできましょう」

「その気になれば、な」

そのお言葉に、姫様は暫し、私の背を撫でながら月を見上げていらっしゃいました。何かに、お心を添わせていたように見えました。私には見えぬ、何かに。そっと、穏やかに。優しく。

 そうして、静かに口をお開きになったのです。

「……やはり、男子としては、父親の背中は大きゅうござりまするか」

「……うむ」

殿様も、少しお考えになってお答えになりました。そのご様子を姫様は少し驚いたようなお顔で見ておりました。男子と言うものは、弱みを女子に見せたがらないものと、私も思っておりました。姫様もまた、そういった気持ちがあったのやもしれません。

 そんな女子たちの心中を他所に、殿様は姫様に向き直り、姫様の様子を見て、微笑まれました。穏やかに、優しく。そして、どこか切なく。

「大きい。とても……大きくてならぬ」

その時、お殿様の目じりに、光るものがあったように見えたのは、私の気のせいでしょうか。

 殿様のお義父君。先代の上杉の大殿様が世に名を馳せた武将であることは、お供の方のお話にて、私も存じておりました。そのお義父君は、既に四十九歳でこの世を去られたといいます。それは、猫である私どもの寿命から申せば、当然、長くは思うのですが、どうも、殿様にとっては、お早い別離とお思いになっておいでになるようでした。

 しかし、亡くなった方との別離というものは、それがいくつであっても、共に過ごした時間がどれほどであっても、まだ早い、まだ早いと、思うものなのやもしれませぬ。それは、それだけ、故人に対して思い入れが強いということなのでしょう。

「義父の威光を背負うには、私の背中は小さすぎるのだ。義父は、義に生き、戦場では軍神と言われた。宿敵と言われた其方の父君からも、その義を買われ、死後の信頼を得たと聞く。それは、そなたも存じておろう。義父は、人としても、武将としても、大きく思える。その後継として、果たして自分は相応しいのか」

「そのような……」

姫様は、殿様の肩に手を伸ばしかけて、引っ込めておられました。そして、何かを考えた後、触れる代わりに口を開きました。

「私も、」

姫様は、そういって、一度言葉を切りました。そして、殿様が姫様の方を向くのを確かめてから、再び静かに口を開きました。

「甲斐の虎、武田信玄の娘にござりまする」

そしてすぐに姫様はにっこりと笑うと、

「虎の子に見えまするか?」

と、言って、両手を虎の手に見立てて顔の両側へ置き、唸るような声を出して牙をむきだしました。それは、私たち獣から見れば、なんともかわいらしく、役に立たない牙ではありましたが。

 それを見て、殿様は噴き出して大きくお笑いになりました。

「まぁ、」

それを見て、姫様は怒ったふりを致しましたが、すぐに着物の袖で口を隠し、お笑いになりました。

「虎の子か」

「はい」

「わしも龍の子には見えまい」

そう言って、殿様はじっと己の手の平を眺めておられました。そして、知れず、小さいな、と、零されました。

 その、殿様が小さいと言う手のひらに、姫様の、殿様よりももっとずっと小さな手のひらが乗せられました。

「私がおりまする」

殿様は姫様に視線をお向けになりました。。

姫様も、殿様を見ております。私はそっと伏せて、眠ったふりを致しました。その場から立ち去った方が良いのではないかという気持ちが強くありましたが、動いてしまえば、却って邪魔になると思ったのです。せめても、目を閉じて、何も見ない振りをするのが精一杯でございました。

 そのせいで、あとは、お二人の声が聞こえてくるのみとなりました。

「一人では龍にも虎にもなれずとも、二人なれば、届くやもしれませぬ。あるいは、超えることも」

「超えることも?」

「はい。それに、景勝様には、景勝様を慕う、良き家臣がおりますれば」

「それも、わしを義父のことを思うてついてきてくれておるのやもしれぬ」

「されば、それは、御義父上からの何よりも気高き、価値ある遺産と言えましょう」

「……かの、信玄公は、人は城、と、言うたそうな」

「人は城、人は石垣、人は堀」

姫様の美しい声が、呪文のようにそう話されるのを、私はうっとりと聞いておりました。その姫様はいつもの姫様とは、少し違うように思われました。姫様の亡きお父上の御霊が、お力をお貸しになったのやもしれませぬ。

「情けは味方。仇は敵、に、ござりまする。どうぞ、お心強く持たれませ。仇となるは、己の心にござりましょうほどに。御身も、また、御身に従う者達も、その全てを信じる心をお持ちくださりませ」

「なるほど」

何故か、お二人は私の首筋のにそっと触れているようでした。それでも、目線はお互いに向けられているのでしょう。それが気配で分かります。

 私の方へは向けられていないことが、却って嬉しく思われました。この美しい絆を、どうして祝福せずに居れましょう。

「わしは、何よりも得難い室を得たようじゃ」

「まぁ」

「そなたこそ、義父と、義父の盟友が我に残した遺産であろう」

「もったいない」

そういう姫様のお声は、今までにないほど、嬉しそうにござりました。

 そうして、夜は静かに更けていったのでござりまする。


 それが、私がお二人がご一緒に居られるのを見た、最初で最後の夜にございました。


 それから、日々は穏やかに過ぎました。

 時折届く、景勝様からのお文を、姫様はとても大切にしておられました。それを私もとても温かい気持ちで見守っておりました。

 とても穏やかで、優しい日々でありました。

 その静けさに激震が走ったのは、とある秋のことにございました。

「戦?徳川様と、石田様が?」

知らせを受けた姫様のお顔の色が、みるみる蒼白になっていきました。周りの人たちも悲鳴を上げたり、震えだすものもおりました。

 後々知ったことですが、徳川様と石田様と申しますのは、この時、人の世を取り仕切っていた太閤豊臣秀吉様のご家臣であったということです。その、秀吉様が数年前に身罷られ、お二人の対立が激化していたのだとか。

 その時の時代は、人の世の長き戦乱の時代が終わりつつあり、漸く大きな戦の数が減ってきたという時だということです。

 そのような時に訪れたのは、皮肉にも、正に人間の世界を二分するような大きな戦であると聞きました。それでは、確かに、皆が恐ろしく感じるもの無理はありません。やっと平和な時代が来ると、誰もが思っていた矢先でしょうから。

 しかし、私どもにとっての一番の問題は。

「それで、殿は、」

「石田様にお付きなられると。本陣には参じませぬが、ご領地の会津にて、陣を張られ、徳川様にお付きになられた伊達方、最上方と交戦の可能性ありと」

お使者のその言葉を聞くと、姫様は、唇をかみしめておられました。震える手元を袖に隠し、きっ、と強い視線を皆に向けられたのでござります。怒っているわけでは無いのです。そこに在るのは意志の強さと、皆を思いやるお心でした。

「皆で祈りましょう。この戦の勝利と、殿の、皆の大切な方のご武運を」

姫様のそのお言葉で、それまで、恐怖に慄いていた、屋敷の人たちが、姫様に促されて強い意志を持ち始めたのがわかります。

 姫様は間違いなく、姫様が敬愛される御父上のお子。そして、愛する景勝様の妻。そして、このお屋敷の女主人なのでした。


 しかし、その祈りも虚しく、その戦が石田方、つまり、殿様がお味方した方の敗北であったことを知ったのは、それからさほどの時も流れていない頃でありました。


 それから、しばらくはお屋敷の中がざわついておりました。悲しみに暮れる者、これから先のことを思い、嘆く者。それぞれにこの大きな波を感じておりました。

 外からは知らない男の人が頻繁に出入りして、何故か見張りのような人もたっておりました。

 なぜ、それがわかるのかといえば、雰囲気、と、申しましょうか。明らかに、いつもお屋敷にいる人とは違う、目つきの鋭い男達。その目は、誰かを監視していると、私にはわかります。少なくとも、元々お屋敷に居た人たちに、少なからぬ警戒心を持っていると、私には思えました。

 そんな、不協和音に満ちた空気の中、お屋敷の中では、時に誰かと誰かが言い合いになり、時に誰もいないが如く静かになったりも致しました。

 私はそれを、物陰から見ておりました。それは、以前のように、お屋敷を自由に歩き回れなくなったからです。

 何を禁忌とされたわけではありませぬが、知らぬものが入り込めば、私の方でも警戒心が働きます。これでも猫ですから。そうなれば、自ずと隠れて過ごすことが多くなります。そうして、私はお屋敷の片隅で静かに息をしておりました。

 それにしても私にはよくわかりませぬ。人間の世界は複雑でどうしても誰かが偉いとか、誰かが誰かの下だとかそういうことにこだわるようでござります。そんなことにこだわってもおなかは膨れないというのに。

 今でもそうやって、そういうことにこだわる人達が、何かを騒いでいる。今の状況は猫の目からそのように見えました。まぁ、私もそういう人達からご飯をもらっているわけですから、大きな口は叩けないのですが。

 そんな不安定な中でも、女の人達は、どうにかして日常を取り戻そうとしているように見えました。

 男の人の仕事は、世界を支えているのかもしれないけれど、日常を支えはしない。日常を支えているのは、女の人の仕事なのだと私は思うのです。そうして、そういう日常を壊すのは、いつだって、男の仕事の結果なのだとも。

 私は女ですから。どうしても女の味方に付いてしまうところがあります。それを承知で思っているのです。それに、此度のことの発端は戦。戦はいつでも男が起こすものにございましょう。そのせいで、私の大切な、穏やかな日常が壊されてしまったことを、少なからず不快に思っていたのです。

「蘇芳」

ある日、姫様が私をお呼びになりました。姫様は泣き腫らした目をしておられました。そのころは、そういう日が多かったように思います。それを、化粧でお隠しになっているようでした。

 姫様は涙や、己の悲しみ、苦しみを他の人間の前ではお見せになりません。それをしてしまえば、下の者がもっと不安に思うことを知っておられるのです。私は、姫様を泣かせる男達が、そのように姫様にお辛い思いをさせる原因を作った男達がどんどん嫌いになっていったのです。

 私がお傍へ寄りますと、姫様は優しく私を抱きしめるて、小さくつぶやくのです。

「ああ、温かいね。お前」

姫様は、多分、私に日常を見ているのだろうと思います。あの、穏やかだった日常を。お国を治めるのが誰であれ、覇権を取るのがどこのどなたであれ、どこのお家が滅びたのであれ、私はいつでも変わりませぬ。そのようなこと、猫の世にはかかわりのないことでございます。

 どんな時も変わらず、温かく、柔らかく、姫様の白いお手を受け止める。そして、同じ声で鳴き、同じように喉を鳴らす。私はいつでも変わらず、姫様が好き。そのことを、全身で、声なき声で姫様にお伝えする。

 それが、私の大切な仕事でございました。

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