雪と蘇芳
零
第1話
いつの世も、人は飽かず争い、世を乱す
諸行無常、盛者必衰、その理を、繰り返し、時は流れる
それをじっと見ている
ただ、じっと
その長い時間を、瞬き一つのこととも思い
ただ、じっと
その中で
繰り返される不毛とも思える人の世の営みの中で
生まれ出、数多の煌きを見ている
幾度時流が繰り返しても、消えず、弛まず、輝き続けるその光彩を
いつまでも
いつまでも
今は時の彼方
その時空より解き放たれていずれか
もはや人の口にも上らぬ、それは小さな小さな物語
どうぞ、時の許す限り、私の話に耳をお貸しくだされば幸い
それは、ずっと昔の話
日ノ本の主が在るようで無かった折のお話
私が姫様と出会ったのは、あれは、私が小さな子猫の時でありました。時の頃は人の暦でいうところの天正年間。細かい年など知りませぬ。私は猫であります故、人の暦は知らぬこと。ただ、周りの者の話にて、少しばかり覚えがあるに過ぎませぬ。
場所は、人の口にて京、と呼ばれるところ。私が生まれたのはその郊外のようでござりますなぁ。何せ、生まれてしばらくして、母猫や兄弟たちとははぐれました故、分かりませぬ。最初の記憶は母親の温もり、そして兄弟の温もり。それがあったことは確かに覚えておりますのに、気づけば、一匹、草むらで鳴いておりました。置いて行かれたのか、はたまた私がはぐれてしまったのか。それすら覚えてはおりませぬ。
それからのことは、記憶も曖昧にござりまするが、どこをどうして生き延びたものか、とにかく必死であったことだけは覚えておりまする。
小さい身体でありましたから、鳥や鼠は捉えるのが難しく、専ら虫ばかりをどうにかこうにか捕まえて、食べていたように思います。それでも、事足りるということは無く、毎日腹を空かせておりました。
また、弱い身のこと、鳥にも怯え、人にも怯え、犬にも怯え、この世のすべてが敵と思うておりました。時折、人の残した残飯なども漁りましたが、恐ろしくてとても何度もとは思えませなんだ。
そうして、どうにか夏は過ごしていたものの、秋が来て深まるにつれ、当然ではありますが、虫の数も減り、食べるものに事欠くようになったのです。ある日とうとう腹が空いて目の前のものすらよく見えなくなりました。ふらふらとふらつく足でどうにか歩き、降り出した雪を避けようと、低い気の下に潜り込みました。
そして、そのままそこから一歩も動けなくなってしまったのです。
寒い寒い、冬の朝のことにござりました。
さく、さく、さく、と、雪を踏む音が聞こえました。一瞬、恐怖が私の身体を走りました。人か、犬か。私に危害を加えようとするものが近づいてきたと思ったのです。弱っている時は、それが一番警戒すべきものであることを、私は幼いながら本能的に知っていましたから。
しかし、私にはもう、何をする力も残っておりません。とにかくもう、腹が空いて、腹が空いて、どうしようもなかったのです。その足音が鳥のものであれ、犬のものであれ、もう逃げる気力もありませんでした。
一度、烏が同じように親からはぐれた子猫の死骸を餌にしていたのを見た事がありました。それを見て、私はぞっとして逃げ出したものです。それが、明日の自分の姿のように思えたのです。
その時、その光景が脳裏に浮かびました。私は、他の何かの餌になるのかもしれないと思ったのです。私が今までそうしてきたように、今その足音の主が、私を明日生きる糧にするのかもしれないと思いました。もう少し私が大人であったなら、それでもいいと思えたのかもしれません。自分の生を生き抜き、今にも生を終わるという年になったのなら、素直に身を差し出す気になったのかもしれません。しかし、その時の私は、ただ、哀しくて、恐ろしくて、小さく声をあげるしかできなかったのです。それは、自分に対する、何とも愚かな憐みの言葉でした。
「ああ、」
しかし、その私の声を聴いて、その足音の主は、安堵したように嘆息しました。そうして、次の瞬間、私は優しい手で抱き上げられ、温かい懐へと入れられたのです。
「よかった。生きているわね。お前、頑張りなさい。死んでは駄目」
美しい、声でした。それは、私を抱き上げた、その人が発した声でした。あまりに美しく、私はそれがこの世のものだと思えませんでした。神様がいるとしたらきっとこんな声なのだろうと思うほど。そのため、それが、人間の女の発する声だということを信じるまで、私はずいぶんと時間がかかりました。
その時の私は神様が助けてくれたのに違いないと思っていたのだから。
「まぁまぁ姫様、そんな汚い猫を」
その次に聞こえたのはそんな、少し不愉快そうな、他の女の人の声でありました。
体の動かない私はただぼんやりと二人のやり取りをきいているしかなかったのですが、どうやら私を抱いてくれているのは神様ではなく人であり、それでもどうやら私を助けようとしてくれているということは分かりました。
姫様、と、呼ばれた私の命の恩人は、怯むことなく相手の女に問いかけました。
「死にかけているの。助けたいのよ。どうすればいいか、教えて」
私は涙が出そうなくらい嬉しかった。ずっと一匹で生きて来て、誰かに助けてもらうなど、初めてのことだったのでございます。
「猫なら魚がよろしいでしょうけれど……弱っているようですし、魚をすりつぶしたものなど如何でしょうか」
「そうね、用意してもらえる?」
「承知いたしました」
数名の女の人が私を見て、姫様とそんな話をしておりました。そうしている間、姫様はずっと私を懐で温めていてくださりました。
そうして、その温もりに少しうとうととしておりましたら、ふいに良い匂いがしてきました。食べ物の匂いです。もし、そのまま眠ってしまっていたら、死んでいたかもしれません。姫様の温もりと、その匂いが、私をこの世につなぎとめてくれたのでしょう。
生きるということは、食べること。そして、誰かの温もりを感じるということ。
おいしい食べ物もそうでしょうけれど、誰かの温もりもまた、生きるために頂くもの。その気配が、存在が、私を辛うじて生かしていた瞬間でした。
程なくして、まずはわずかに温まった水が、そして、柔らかい食べ物が私の口に運ばれました。
私はそれを食み、飲み下し、眠り、また食べて、眠るをしばらく繰り返していたと思われます。自分だけの力では、食べ物を取ることも難しかったでしょう。助けてくれる手があればこそ、生きて居られたのです。そして、それはすべて、姫様と、そのお付きの女性がしてくれていたことでした。
私が生きられるように、元気になるように。
そうして、やっと目が開けられるようになって、私は初めて姫様のお顔を見ることができました。
「目が開いたわ。鳴いているわ」
声だけで姫様がとても喜んでいるのが分かりました。私のぼんやりとした視界が、少しずつ鮮明になって、やがてはっきりと、涙を浮かべた姫様のお顔を拝見することが出来ました。
それは正に天女のような、美しい方でした。
私の恩人の姫様が菊姫様という名前であることに気づいたのは私がもう駆け回れるほど元気になった頃でしょうか。
あの日、姫様に拾われてから私はぐんぐんと元気になり、姫様を喜ばせたものです。自分が元気になることでこんなにも笑顔になってもらえるということが私には最初信じられず、そして、後々には非常に幸いなことであると感じたのです。私はそれだけで姫様のことが大好きになりました。姫様は人間ですが、私にとっては女神さまのように思えたのです。
私にとって姫様は最も大切な人であり、私の世界の全てでした。
私がずいぶん元気になった時、姫様は私の首に金色の鈴のついた紅い組みひもを
着けてくれました。最初のうち、煩わしがって取ろうとする私を、困ったように微笑みながら見ていたのを覚えています。その顔があまりに可愛らしく、私は取る振りをしてはやめる、ということを繰り返してしまいました。
もちろん、本気で煩わしいと思ったのは最初だけでしたよ。それからは、組み紐の肌触りも、ちりん、ちりんと鳴る鈴の音も、どこか心地よく感じておりましたから。
私がどこへ行っても、その鈴の音で居場所が分かってしまうのは、少し困りものでしたけれど。その音を聞き、姫様はあなたはすぐにどこかへ行ってしまうからと、言っておられました。
嫌ですよ。私はあなたを置いてどこへも行きませんと、伝えられたらどんなに良かったでしょう。
それでも私は人間の言葉は話せませんから、ただ、猫の言葉で、仕方がないわね、と、鳴いて見せるしかないのです。
同じころ、私は蘇芳という名前をいただきました。それが、組みひもの色と同じであることは後々知ったのだけれど。でも、姫様の本当のお心は分かりませぬ。そもそも、姫様が組み紐の色に、どうしてその色をお選びになったのかも。
人であれば、もう少しなりと、姫様のお心を知ることができたのでしょうか。そう思えば、ただの猫である我が身を、恨めしくも思うのです。
ともあれ、そうして私は「菊姫様の猫」になったのです。
姫様は私にとても優しくしてくれました。それは、姫様の周りの人達も同じでありました。
私が汚い野良猫だった時は渋い顔をしていた人たちも、姫様に洗って頂き、また、私も常日頃から汚れることはせぬように心がけておりました故、態度を和らげてくださいました。私の毛色は全身真っ白でありましたから、汚れぬようにするのには大変気を遣いました。
そのうち、私が甘えた声を出すと頭を撫でてくれるようになっていきました。
そうして、私はお屋敷の人たち皆と仲良くなっていったのです。
そうしているうちに、私は聞くともなく、様々な話を耳にすることになりました。
人間が私に話すこと。それは、大半が他愛の無い話であったり、時に、私などではどうしようもない話です。それを、人間である話し手でもどうしようもないと、私に話すのです。人間でもどうしようもないのに、猫の私が聞いたところでどうなるものでもないことは、明白でありましょうに。
私も内心そう思ってしまう、そんな話でした。
それでも話す意味が、私にはわからなかったけれど、何度か聞いているうちに話し終わった後の人間の、なんだかすっきりしたような顔を見て、分かるようになったのです。
話すだけでも、たとえそのことで何ら解決などしないのだとしても、気持ちだけは楽になるのだということ。
私は人間の言葉は話せませぬから、私に何を言っても、誰にもばれないのがいいのだろうとも、思うのです。少しばかり、意地悪な気持ちで。
餌をもらいながら、遊んでもらいながら、撫でてもらいながら、私はそんな話をひたすら聞いて、話の合間に、そして、最後に分かった、と、言葉にならない声で鳴くだけです。それだけで、可愛がってもらえるのは、大変得なお話でありました。
それが、ひどく歯がゆいと感じるのはもう少し先の話。
そうして、色んな人の話を聞くうちに、私はお屋敷にことや、姫様のことが分かってきました。
姫様は、何年か前に、昔は敵だった家からお嫁に来たのだということ。姫様の元の御家の名前は武田。今の姫様の御家、姫様の夫君の御家の名前は上杉というのだということ。そして、その姫様の夫君は今、遠いところにいるのだということ。
夫婦が離れて暮らしているのはどうしてなのか、その時はよくわからなかったのだけれど、人間の世界ではそういうこともあるのかもしれないくらいに思っておりました。
もし、私だったら、好きな相手とはずっと一緒にいたいと思うのだけれど、残念ながら、私にはそんな相手はついぞ現れなかった。その時も、それからも。お屋敷の近くをうろうろしている野良猫はいたのだけれど、すっかりお屋敷の、姫様の猫になった私にはどうしても軽々しくそういう相手に靡いたりはできなかったのです。とはいえ、私も女の端くれ、少しはそういうのに憧れたりもしました。しかし、それ以上に姫様が大好きで、大切だったということなのです。
それから、季節がいくつか巡って、冬が終わり、花の咲く季節に、姫様がそわそわし始めたことに気づきました。
姫様は、時々、文箱から文を取り出して、何度も何度も眺めていました。
文は冬の間、何度も届いていて、そのたびに姫様は頬を桃色にして喜んでいました。あまり嬉しそうなので、私は手紙を眺める姫様の膝に手を置いて、どうしたの?と鳴きました。すると、姫様は私を抱いて何度も頭を撫でると、
「ねぇ、蘇芳。もうすぐ殿様がいらっしゃるのよ」
そう言って、小さい女の子みたいに笑っていました。
殿様。
それが、姫様の夫君であることは、なんとなくわかりました。あまりにも姫様が嬉しそうにするからです。今までに見たことがないほど、嬉しそうにするのは、大好きな人が来るからなのでしょう。
姫様が、離れて暮らす、大好きな人。
私のように、大好きな姫様が毎日いて下さるのも、とても幸せなことです。けれど、離れて暮らす大好きな人に会えるという幸せは、私のそれとは少し違っていて、きっと、同じくらい幸せなのだろうと、思うのです。
そうして、その日はやってきたのです。
その日、姫様は、いつものようにお部屋で座っていたけれど、どこかそわそわしているように見えました。私が近づくと、いつも気付いてくれるのですが、その日は片足を膝にかけて、やっと気づいてくださるくらいでした。そして、それでもその目はずっとお部屋の入り口に向けられておりました。
私が小さく鳴いたら、やっと私に目を向けてくれて、頭を撫でてくれました。
でも、私を気にかけて下さったのはそこまで。
いつもは膝に乗せてくれるのに、その日は乗せてくれません。その時の私はどうしてかしらと思いました。
私もまだ、その後起こることに気付いていなかったのです。
しかし、ほどなくして、私の耳は遠くから近づいてくる足音を捉えました。私の耳は人間の物よりも優れているようで、他の誰も気が付かない、遠くの音や小さな音も聞こえます。
姫様にはその音が聞こえていないようなので、私はぴくりと耳を動かして、部屋の入り口の方へ敢えて大きく視線を動かしました。
「あ、来たのね?蘇芳。聞こえるのね?」
私は小さく鳴いて返事をしました。
すると、姫様はぱあっと花が咲いたような顔をしてそれでも正しく座り直し、小さく咳をしました。
その時、私はやっと気づいたのです。私が聞いた音が、姫様の夫君の足音であるのだと。
私はずっと姫様と一緒にいたので、姫様が夫君をとても大切に思っているのがわかります。私はそっと姫様の傍から離れ、部屋の隅に座りました。もちろん、姫様の邪魔をしないためです。姫様にお伝えすべきことはお伝えいたしました。あとは私のお役目はないでしょう。そう思ってのことです。
男の人がやってきたのはそれからすぐのことでした。
若草色の狩衣を身に着けた、姫様の、お殿様。姫様の大事な方、というだけで、私にもまるで、周りに光をちりばめたように美しく見えました。
「菊、息災か」
男の人が姫様を見つめると、姫様もぱっと顔を輝かせて小さく、はい、と、返事をして頭を下げていました。
私はその時、もう姫様の目にはその人しか映っていない事に気が付きましたよ。
きっと、このお二人は仲が良いのだろうと思いました。どんなに遠く離れていても、どれだけ長く会えずに居ても心がつながることがあるのだと、私は不思議にも、羨ましくもお二人を見ていたのです。
きらきら、きらきらと、何とも春の気配の美しい時間でございました。
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