第3話
電柱の上で、烏が嫌な声で鳴いている。かと思えば、道路の隅で丸い形の猫が、のんきにあくびをしている。
近所の小学生たちが、無垢な笑顔で遊んでいる。それを見守る親たちが、穏やかな表情で目を細めている。
西日が差して、辺りは薄く赤色に染まっている。
いつから、変わってしまったのだろう。
いつから、こんな当たり前な風景を、愛せなくなってしまったのだろう。視界に入る現実の全てに嫌気が差すようになったのは、一体いつからだろう。
家の玄関が見えた。そこに立つ姉の後ろ姿を、目が捉えた。
私は胸が潰されたような気持ちになった。
私は、姉が好きだ。
私には失いたくないものがある。でもその一方で、全てが終わってしまえばいいとも思っている。考えれば考える程、私の中では矛盾が増殖していく。
結局私は何がしたいのだろう。
「……怜香?」
姉がこちら側を振り向いた。例によって、私を見ると笑おうとする。
―ねえ、どうしてそんなに笑っていられるの? 私はこんなに苦しいのに。
「怜香、帰ったんだね。おかえり」
「……家、入らないの?」
私の声は掠れていた。
姉は口角を上げたまま、静かに首を振る。「今、入ろうとしてたとこ」。
そう言って私に背を向け、鞄の中に手を入れて、鍵を引っ張り出す。ドアに差し込まれようとしたそれを見て、私は目を見張った。
ちゃらん、とそれが揺れて音を立てる。
息が止まるかと思った。
姉の鍵に結びつけられたキーホルダー。
それは、かつて妹が使っていた物だった。
「何で、そんなに優しいの」
ぽつりと、口から漏れた。
言ってしまってから、はっとしたけれど、もう抑えられなかった。
私は大声で叫ぶ。
「何で、そんなに私に優しいの、何でそんなに強い振りができるんだ、本当は、本当は、怖いくせに!」
人に向かって叫ぶのは、初めてだった。一度だって、こんなことはなかったし、私はしてこなかった。
その代償だろうか、自分でも制御ができない。
「私は怖いよ、受け入れたくないよ、大丈夫じゃないよ、みんな傷つけばいいって思うよ、なのに、」
なのに、何で。
「何でそんなに、人に優しくなれるんだよ、割り切れるんだよ、強がってるだけだろ!!」
―言ってしまった。
私はすぐに後悔する。
何言ってんだ、私は……。
ほら、姉だって泣いて……。
「怜香」
姉は、泣いてなかった。
それどころか、すごく強い顔をしていて。
私は驚いて、そして彼女に見惚れた。
よく分からないけれど、よく分からないぐらい、その時の姉は、凛々しい顔をしていて。その様子は、どこか私が自分の胸の内を吐露するのを、ずっと待っていたように見えた。
「怜香、あなたはそれでいい」
雑音は全て掻き消されて、姉の声しか聞こえない。
「いい? これはわたしがあの時から思ってきたこと。ずっと思ってきたこと。わたしが、怜香を支える」
「……何で」
私は震える声を、必死に絞り出す。
「何で、そんなことするの。何で、そんなに強いの。私は、私なんかは、ずっと、あの時からずっと……」
「怜香」
「私は、あなたのように生きられない。立ち上がれないんだよ、私なんて、ものすごく弱い……」
「怜香」
「私には、何もできなかった!」
キーン、と頭の中で音がつんざめいた。
全ての記憶が、溢れ出す。
もう、これは虚構だと言えないくらいに、それは溢れ出して、私を飲み込んでいく。
あの日の記憶が、私を飲み込む。
だらだらと、口から言葉が流れ出した。
「あなたは知らない、私はあの子を見殺しにしたんだよ」
姉が歯を食いしばったのが、分かった。
「誰も知らない、私の後悔なんて、私の愚かさなんて! 私は、何もできなかった、目の前で子供が死んでいくんだよ、私はそれを黙って見るだけ、誰も私を責めない、哀れむだけ、いっそのこと殴られた方がマシだ」
ああ、そうだ。
私はあの子を、見殺しにした。
トラックが妹に近づいてきた時、妹が衝突される少し前に、私はそれに気づいていた。もし、あの時すぐに妹の元に行っていれば。
「あの時、私は」
迫るトラックを見た時、私は驚きで硬直して、そのまま歩道で棒立ちになった。妹はその間に死んだ。私が間抜けな面して、突っ立っていた間に。私はきちんと安全地帯にいて、境界線の向こうで撥ねられる妹を、ただただ呆けて見ているだけだった。
「私には、何もない」
「そんなことない、怜香は悪くない、誰も悪くない。あなたは怒りのやり場が見つからなくて、仕方なく自分を責めようとしているだけなんだよ。そうすれば、ただ悲しむより楽になれると思ってる。だけどね、それは自暴自棄ってことなんだよ」
間髪入れずに言われ、はっとして姉の顔を見る。
姉は続ける。
「自分を責めないで。怒りで体を殺さないで。誰も悪くないという理不尽さを、わたしたちは認めなくてはならない」
理不尽さ。程度は違えど、それでも平等に、きっと誰もが背負っている不幸。
けれどそれに真正面から立ち向かい、もしくは割り切って、立ち直れる人間がどれ程いるだろうか。
姉は、無表情だった。いつも私に向ける柔らかい笑みは、もう浮かべていない。そんな姉を見るのは初めてだった。
「わたしだって、悩むよ。だけど、あなたより数年長く生きてるからね、もう少し冷静になれるんだよ」
怜香、と私の名前を呼ぶ。強く、私に訴えるように言葉を紡ぐ。
「わたしたちは、生きなきゃならない」
「そんなこと、知ってる」
「じゃあ、そうすればいいんだよ」
「でも、苦しいの。何も分からない。私はこれから、どうやって生きていけばいいの」
分からなくていいんだよ、と姉は言う。
ふっ、と静かに笑った。
「―どうせ誰にも、正しいことなんて分からないんだよ」
ずっと私たちは、自分たちの妹のことを話してこなかった。私は、話したくないと思っていた。現実と向き合うことは、自分の心を自分の手で殺すことになるのだと、直観的に感じていたから。だから今まで逃げてきた。逃げるしかないと思っていた。それが自分が生き続けられる、唯一の手段だと思っていた。
でも、現状から背中を向け続けて、楽になったことはあったか。結局私は、ずっと何も変わっていない。だったら、もうどうすればいいのだろう。私に残された道なんて、どこにも無いのか。
先なんて何も見えない。けれど不思議なことに、気づいたら私は泣き止んでいた。姉は、私よりもっと、強い顔をしている。その強さは、一体どこから来るんだろう。私もいつか、姉のようになれるのだろうか。いつか、楽になれる日が、全てから解放される日が、前を向く強さを手に入れられる日が来るのだろうか。
「わたしは、怜香とは違って、あの子が亡くなる瞬間を見ていなかった。お母さんだって、そこにはいなかった。怜香、あなたはずっと、一人で背負ってきたんでしょう。でも、もう人に頼っていいんだよ。わたしだって、お母さんだって、そう思ってる」
背負ってきた? 私が過去をずっと背負ってる? そんなの、当然の報いだ。
けれど姉の言葉は、私の心に驚くくらい深く刻まれていく。自分でも訳が分からないうちに、私の心は確実に向かう方向を変えていく。
「結局、わたしにだって、どうすればいいか分からない。だけど、これだけは確か」
あなたは、これを乗り越えれば。
「あなたが乗り越えられた時。あなたは絶対に、他の誰よりも、強い人になれる」
―じゃあ私は、どうやって乗り越えて、その強さを手に入れればいいんだよ。
答えなんて、姉の言葉の中にはなかった。まあ、当然だ。これは私の人生なのだから、きっと姉には分からない。誰かの言葉に救われたって、そんなのはきっと一瞬だけで、私たちはこれからも悩み続けるのだから。
でも、それでいいのかもしれない。
私は顔を上げる。姉の顔を見て、母のいる家を見て、空を見る。
誰にも分からないと言うのなら、私がやるべきことはひとつだけだ。
答えは、私が見つけに行く。
両方の腕を、真っすぐに上げる。指の隙間から日が差し込む。
その明るさから目を逸らさずに、私は誓う。
私が何かを見つけるまで。私があの子のことを、笑って思い出せるその日まで。
何があっても、どんなに苦しくてもいい。
それまで絶対に、生き抜いてやる。
◇
わたしは、妹が両手を天に掲げるのを、すぐそばで見ていた。決意したような彼女の表情を見て、この子の姉でよかったなあ、と心から思う。
わたしが夜、ひとりで部屋で泣いていた時、背中をさすってくれたのは母だった。母はわたしに厳しいけれど、同じくらい優しくもあった。それが、わたしの心を救ってくれた。だから、怜香が苦しんだ時には、今度はわたしがこの子を支えるのだと決めていた。それがわたしの役目だと、思っていた。
上手く出来たかどうかは分からないけれど。
わたしは妹の背中を見る。心の中で、その背中に向かって言う。あなたなら、絶対に大丈夫だよ。数歩先でわたしが待っているし、そのさらに数歩先にはお母さんがいるし、他にもたくさん、道中であなたを見てくれている人はいる。逃げたって良いけど、あなたならきっと向き合う勇気を手に入れて、その一歩先まで行ける。だってあなたは。
あなたこそが、わたしを強くしてくれたんだもの。
二人は、今度こそ一緒に、家族が待つ家へ帰る。
夜明けを掴めるのは、私たち自身だけなのだから。
途切れぬ願いを、今此処に。 各務あやめ @ao1tsuki
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