第2話
「じゃあ、テスト返すぞー」
その一言だけで、教室の空気が一瞬で重苦しくなった。
先生がクラス全員の答案用紙が入った分厚い封筒を取り出すと、ざわざわと教室が騒がしくなる。私は重い瞼を擦った。音楽なんか聴いたりしてないで、姉の言う通りちゃんと眠っておくべきだったな、と今更後悔する。
「平均、70点だってさー。高くない?」
あくびをなんとか堪えていると、隣の席の
「私、今回自信ないんだよねー。ほら、最後の問題とかさ、めっちゃ難しくなかった?」
「……? あー、そうだね、難しかった」
最後の問題とか言われても、正直あまり覚えていなくて、誤魔化すような相槌になってしまう。言われてみれば、確かに苦戦した覚えがあるような……。記憶を手繰り寄せようとしていると、杉野さんは、ああ、そっかー、と一人で納得したようで、
「
と愛想良く笑った。あはは、と私も何となく合わせて笑いを返す。
そうは言っても、私だって大して自信があるわけでもなかった。
安見ー、と先生が私を呼んだ。私は席を立って答案をもらいに行く。
受け取って、裏返しにして点数を見る。ほっ、と私は安堵して溜息をついた。
「あー、良い点数だったんだー」
杉野さんが羨ましそうに笑った。私は苦笑する。
「そこまで良くもないよ」
否定しても、いや、流石だよー、と感心される。
別に謙遜でもなんでもなく、本当の気持ちだったのだけれど。
自分の中では、いいどころか悪いくらいだった。安心したのは、最低限の点が取れていたからだけであって、別に嬉しくもない。
思い返してみれば最近、勉強にあまり集中できてなかった気がする。溜息が出た。
私は三回くらいかけて、答案用紙を小さく折りたたんだ。
「でね、その後、主人公はテストを返されるの。隣の席の子に、『私の点数とトレードしない?』って言われるんだけど、実はそう点数もよくなかったの」
学校から帰ると、私はすぐに姉の部屋に向かった。受験生の姉は放課後も学校で補講を受けたり自習をしたりしているので、私が帰った時にはまだ家にいなかった。仕方ないので私は部屋で音楽を聴きながら何度もイヤフォンを外して外を確認して、何度目かに確認した時、ちょうど姉が帰ってきた。姉は少し疲れた顔をしていたけれど、私を見るなり笑って部屋に入れてくれた。
私は、「今日読んだ小説の話なんだけど」と前置きして話し始めた。
「主人公はね、そのテストに割とショックを受けたんだよ。確かに最悪な結果は免れたけど、それまでの主人公の成績に比べれば悪かったんだ」
姉はよく聞いてくれて、うんうん、と頷いた。それで? と私に先を促す。
「それでね、主人公は落ち込んじゃうの。でも、ずっと落ち込んでるわけにもいかないでしょ? 結果は散々でも、ちゃんと次に生かさなきゃ」
「そうだねえ」
そこで姉は、少し考えるように腕を組んだ。
「でも、わたしはその主人公には、勉強よりも体調を気にかけて欲しいかな、今は」
「……健康だよ、その子は」
「不安定だよ、主人公は」
私は口をつぐむ。姉は『主人公』という言葉を使い、絶対に私のことだとは言わなかった。それは、姉が私のことを全て見透かしているのと同義だった。そして私は、そこに安心感を抱いて、また甘えてしまう。
「不安定が悪いとは言わないけどね。人に頼ればいいだけの事なんだから。……でも、このままだと、いつか破裂してしまいそう」
破裂。私はその言葉を反芻する。
私は、姉もきっとそうだけれど、いつも崖っぷちにいる。少しでもそこから動いたら、取り返しのつかない場所に落ちてしまうのだ。そして落ちた先は、きっともう何も残らない所なのだろう。
でも、それを自覚しているからといって、どうすれば良いのだろう。
私は途方に暮れてしまう。続ける言葉が見つからなくて、私は姉に頭を下げる。
「勉強、忙しいのにごめん」
「そんなこと気にしなくていいんだよ。また来るんだよ」
姉の言葉は、どこまでも私を傷つけない。不自然に思えてしまうくらい、姉の口は私にとって都合のいいことしか発しない。
私は部屋を出ようとする。すると、背中側から声がかかった。
「今日は、ちゃんと寝るんだよ」
私は振り返ることが出来なかった。
扉を閉めて、その場に座り込む。
―どうして姉は、あんなに優しいのだろう。
自室に戻り、私は机に放り出したままのイヤフォンを手に取る。絡まったそれを解こうとしたけれど、手が震えて上手くできなかった。
私には、おかしな癖がある。現実逃避の癖だ。
嫌なことがあった時、私はその現実から逃げ出したくなる。音楽を聴くのもそうだ。好きな音楽を聴いてる時、私は忘れたい現実から、自分を解放できる。
そして私は、嫌だったことを、小説のように、物語にしてしまうのだ。現実を、虚構の世界に放り込んでしまいたいから。全部を作り話だったことにしてしまえば、そのまま受け止めてしまうよりも、ずっと楽になれる。
そうやって作った、虚構に投げ捨てられた話は、今日のように姉に話すこともあれば、話さないこともある。話し相手は決まって姉で、他の人に話したことはない。
私は、自分がそうやって現実から逃げようとするのが、大嫌いだった。そして、姉という存在に頼りきりなのも。
姉だって、そんなに強いわけじゃない。それは、私がよく知っている。私は、自分で立ち直らなくちゃいけない。
ふーっ、と私は息を吐く。イヤフォンは絡まったまま、もう聴けない。目を瞑る。
チカチカと点滅する青信号。
迫る赤色の車。
ふわりと宙を舞うワンピース。
―飛ばされていく、体。
もう何度も何度も思い出しては仕舞い続けている物語。
私は目をさらに強く瞑る。
これは、何もできなかった、私の物語。
妹を見殺しにした、情けない私の物語。
何度も何度も、私は自分に言い聞かせる。これは物語で、現実じゃない。だから、考えるな、忘れろ。そうしなきゃ私はもう生きていけない。
私は明日を生きるために、ここから逃げなくちゃいけない。
自嘲的な笑いが、口から漏れた。
心配してくれる姉には悪いけど、今日もきっと眠れない。
◇
「……怜香。怜香!」
遠くで自分を呼んでいる声がする。
はっ、と私は目覚めた。
目を上げると、私は椅子に座っていて、机にもたれかかっていた。ぐちゃぐちゃに絡まったイヤフォンが、まだ目の前に置かれていた。
私、何してたんだっけ、と思い出す前に、母の鋭い声が飛んできた。
「遅いと思ったら、こんな所で寝て……! 今、何時だと思ってるの?!」
「……何時……?」
まだ頭がぼんやりとして、全く働かない。
まさか、今って。
私は窓に目をやる。明るい日射しが、眩しく差し込んでいた。
「もう八時よ! 早く起きなさい!」
ぐいと腕を引っ張られて、私は母に引き上げられるようにして立った。ぐらあん、と視界が急速に回り、めまいだと気づいた。
よろけながらも、母に引き摺られるようにして私はリビングに向かう。もちろん姉は、もういない。自分の目で時計を確認する。普段家を出るのは八時十分だった。徐々に頭が状況を理解していく。
まずい。
私は突かれたように走って、まず顔を洗う。髪を梳かして、テーブルに置かれていた冷たくなったパンを口に詰め込むようにして食べ、慌てて制服に着替える。
八時十五分。普段の時間でも、学校に着くのは授業が始まるギリギリなのだ。それでもまだ、全力で走れば間に合う。
玄関まで走り、靴を履いてドアを開けようとすると、「怜香!」と呼び止められた。
早くしないと間に合わないのに。それでも私は振り返る。
「何?」
聞いても、母はすぐに答えない。無言で、真っすぐに私を見つめるばかりだ。
「何?」
私はドアノブに手をかけたままもう一度聞くけれど、母は何も言わない。早くしてよ、と思わず叫びたくなる。本当に間に合わない。今すぐにでも家を飛び出したかった。
数秒の沈黙が落ちる。その数秒が、ものすごく長い間に思えた。痺れを切らした私がドアを開けようとすると、聞き取れないほど小さな声が聞こえた。
「……何でもないよ。いってらっしゃい」
弱々しい声だった。
私はバタンとドアを閉める。転びそうになるくらい、めいっぱい腕と足を振り動かして走った。
私だって、知ってるよ。
走りながら、ふと頬を触ると、まだ強張っていた。昨夜、自分は泣いていたのだと思い出す。
歯を食いしばって私は走った。
私だって、知ってる。
あの日から、母が変わってしまったこと。母の表情はいつだって、どこか固い。それでも私たちを育てるのに必死だということ。毎日の生活をなんとか守ろうと一生懸命なこと。
毎日仏壇の前で手を合わせては、肩を震わせていることも。私だって、そのくらい、ずっと前から気づいてる。
だけど、と私は思う。
だけど、それは、母のせいじゃない。きっと私のせいでも、姉のせいでもない。私たちは、ただ生きてるだけ。
―じゃあ、一体誰のせいなのか。
ガッ、と音がしたかと思うと、私は石に躓いてよろけた。どこかの家の塀に、体ごとぶつかりそうになる。
走らなきゃ。
走らなきゃ、走らなきゃ、走らなきゃ……。
前しか見られない。私はただ、走り続けた。
息を切らしながら、校門をくぐる。
チャイムと同時に教室に滑り込む。杉野さんが、「すごーい、ギリギリセーフ!」と拍手した。席に着くと息を整える間もなく、ガラガラと音を立てて扉が開き、先生が入ってくる。きりーつ、という号令に合わせて椅子を蹴った。
◇
終始、頭がぐらぐらするような感覚だった。
昼休み、もそもそと弁当を食べていると、後ろの方から、数人の女子たちの会話が聞こえた。
「……ねえねえ、―さんってさ、もう学校来ないのかなあ?」
周りの目を気にしているのか声は小さかったけれど、聞こえないほどでもなかった。含みはないように感じられたが、少し気になって、つい聞き耳を立ててしまう。
「ええー、何で?」
「だってさ、もうずっと登校してないじゃん?」
「まあ確かに、今月に入ってから見てないかも」
「単位とかどうするんだろうね」
心配だねー、と大して気にしてないような声だったけれど、そう言い合っている。
私は学校に来ていないというその子の顔を思い浮かべようとするけれど、すぐに思い出せなかった。あまり親しくなかったし、彼女は確か新学期が始まって間もなく来なくなってしまったから、話す機会もなかった。もしかすると、このまま一度も会わないで、来年のクラス替えを迎えるのかもしれない。
私はお弁当箱の蓋を閉めて片付け始める。食欲はなくて、箱の底に敷き詰められた白米を見た瞬間吐き気がしてそのまま仕舞おうとしたけれど、母の顔が頭をよぎったので時間をかけて完食した。
自販機で何か買ってこようかと席を立とうとした時、再び後方から声がした。
「でもあの子ってさ、女子なの? 男子なの?」
私は足を止める。
クスクスと笑い声が聞こえてくる。
「名前からして、一応女子だよね? でもあの子ってさ、持ち物も見た目も、女子っぽくなかったよねー」
「そうそう。てか私、あの子が女子トイレ使ってるとこ見たことなかったんだけど」
「ね、本人がここにいないから言うけどさ。ボーイッシュのキャラ通り越して、もう男だったよね。話しかけても暗いし、関わりづらかった」
「正直、あの子と同じ更衣室で着替えるの、めっちゃ嫌だったんだけど」
分かるー! と、そこで彼女たちの声が大きくなる。
「てかさ、それでも制服はスカート履いててさ、うちの学校ズボンも選べんだから、そっちにしなよって心の中でずっと思ってた」
「変に女子と男子の中間みたいなスタンスでさ、気持ち悪かったよねえ」
本人がここにいないから言えるけど! ともう一度前置きして言い放つ。
「男になりたいんなら、さっさと女辞めて男になりなよって思ってた。この子決断できないんだなって、ちょっと可哀そうだったかな」
……お前らには関係ねえだろ。
私は今度こそ席を立つ。教室を見渡すと、みんな弁当箱に顔を貼り付けるようにして下を向いて、もぞもぞと口を動かしていた。何人かの強気な女子たちが、睨むような鋭い目で後ろを向いているけれど、彼女たちと目が合いそうになると、静かに溜息を吐いて体を前に向ける。
私は空気の悪い教室を出る。とんでもなく胸糞が悪かった。
廊下のくすんだ地面に立つ。瞬間、真っ黒な感情が、突然押し寄せてきた。
―どうして妹が死んで、こいつらが生きてんだ。
考え始めてしまえば、終わりがなかった。ずっと抑え込んできた心の中の何かが、ブツンと切れた。私は爪が皮膚に深く食い込むほど、強く拳を握り締める。
お前も、お前も、お前も、お前も、お前も……。
私だって。
こんな体、もう壊れてしまえ。ここにいる資格なんて無い。
みんな死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ……。
死んじまえよ!!
チカチカと点滅する青信号。
迫る赤い車。
ふわりと宙を舞うワンピース。
全ての光景が、網膜に焼き付いてる。絶対に、忘れやしない。
未だに信じられないし、これが現実だと認めたくない。
全部、全部が、嘘だったって、早く私に教えてよ。
これが嘘だって、私に教えて。
授業を受けていても、言葉は全て右から左へと流れてゆくだけだった。集中しなくちゃいけないと分かっていても、頭が働こうとしない。とにかく無心で、機械的にノートに計算式を並べ立てていく。余計なことを考えそうになるたび、シャープペンを強く握り直した。
先生が板書をする間、周りの生徒は退屈そうに頬杖をついたり、窓の外をぼーっと眺めたりしている。そんな些細なことが、今日の私にとっては、神経を逆撫ですることだった。
何度も何度も、手に力を込める。指の骨がへし折れるんじゃないかと思うくらい、湧き上がってくる感情に任せて力を入れる。いっそのこと折れてしまえ。指が痛い。もう、どうとでもなれ。
やがてチャイムが鳴り、先生が教室を出て行く。1日が終わった。生徒たちは、ばらばらに教室を去り始める。
私はリュックを背負い、教室を飛び出した。校門まで歩き、学校から出た瞬間、走り出した。
夕日が差している。周りに構わず、ひたすら走り続けた。
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