途切れぬ願いを、今此処に。

各務あやめ

第1話

 突き抜けるような眩しい青空が広がっている。どこまで見渡しても雲はひとつも見当たらない。

 その空の下で、ひとりの少女が笑っている。その笑顔は今日の天気にぴったりだ。風に揺れる、水玉模様のワンピース。着ていたそれは、私のお下がりだった。

 お姉ちゃん、と彼女の口が動いた。私は妹の元へ駆け寄る。真っすぐにこちらを見つめて、妹もパタパタと私より幾分か小さな歩幅で走ってくる。ああ、可愛いな。すごく可愛い。

 チカチカと点滅する青信号。

 迫る赤色の車。

 ふわりと宙を舞うワンピース。

 どこかの物語のように時は止まらない。当然私が英雄になることもない。私は何もできない。

 突っ切る車と、耳につんざめいて離れない鈍い音。

 軽いあの子の体は、あっけなく飛ばされた。

 情けない姉を、ひとり残して。


 

 現実はいつだって、容赦がない。



 ―なんて嫌な物語だろう。

 気づけば私の眉間には皺が寄っていた。はあ、と溜息を吐く。私はその物語を追うのを止めた。

 人が死ぬ話は嫌いだ。理由は単純で、「死」について考えさせられるのが嫌だからだ。人が死ぬところを想像するのも、将来必ず訪れる自分の死について思いを巡らせるのも、嫌い。

 命は一度落としてしまえば、二度と取り戻すことはできないと言う。だから命は大切にしなきゃならない。だけど、落とすって何だ。まるで簡単に消えてしまうかのようだ。でも、きっとそれは「まるで」ではないのだろう。物語の中で失われていくように、現実でだって、容易くそれは奪われていく―。

 そんなことを考えると、心が怯えてしまう。本来ならなんてことないはずの日常まで、不安の波に襲われてしまう。だからきっと、考えない方が良いのだ。何度も思い悩んで、年月が経て、ようやく私が得た結論がそうだった。本当は現実を受け入れた上で割り切れるのが一番いいのだろうけど、臆病な自分にはそれができない。だから、気にしないべきなのだ。

 それでも「死」にはどこか吸引力があるようだった。人の意識も、人の運命も、自然とそこに引き込まれていく。どう足掻いたって、死を現実から、自分の頭から切り離すことはできない。

 だからせめて、この瞬間でだけは、忘れていたい。

 私はイヤフォンを耳に差し込んで再生ボタンを押す。ジャーン、と歯切れのいいギターの音が、振動と共に聞こえてくる。目を閉じて、私は音楽に集中する。


 音楽は好きだ。音楽に身を任せている間は、何も考えないでいられる。

 けれどイヤフォンを外した途端、雑音が耳に入り込んで、頭の中が逃げられない現実に覆い隠される。

 現実の世界は嫌いだ。考えたくない、逃げたいことばかりで、とてもじゃないけど楽しめない。―もしかしたら私は音楽が好きなんじゃなくて、現実逃避のきっかけを欲しているだけなのかもしれない。

 私はイヤフォンを外して部屋を出る。

 部屋を出た先の廊下には、窓から差し込んだ日の光が、薄く地面に伸びていた。その明るさに目を細めながら、私は歩いて、扉を開く。

 あー、おはよー、と私に気づいた姉が、食パンにジャムを塗りながら言った。姉と一緒に食パンを齧っていたエプロン姿の母が、こちらを振り向いて目を見開く。

 「珍しいじゃない、怜香れいかがこんな早くに起きてくるなんて。普段はもっと遅いのに……」

 あなたの分のパン、まだ焼いてないわよ、と食事を中断して席を立とうとするので、私は「自分でやるよ」と母を止めた。

 トースターに食パン一枚を放り込むように入れる。このトースターを使う時はパンが焦げていないかこまめに見るんだよ、と昔母に教わった。覚えてはいたけれど、何だか面倒だったのでタイマーだけ設定して後は放っておく。待っている間、壁にかかった時計を見ると、ちょうど七時を指していた。まあ、私にとっては十分に早い時間だ。

 姉と母の会話と、トースターがパンを焼くチリチリという音が重なる。大学はどこに決めるの、と少し苛ついた声で母が姉に尋ねている。受験が迫るにつれて姉の表情が強張っているのに母は気づいていないのだろうか。数秒の沈黙の後、ぼそぼそと姉は何か言ったが、それは聞こえなかった。

 やがて姉が空になった皿を持ってやってくる。それを流しに置くと、私の横に並んで、そっと耳元で話しかけてきた。

 「怜香、昨日はちゃんと眠れた?」

 彼女の心配そうな声を聞くと、申し訳ない気持ちになった。こっちこそ、姉に大丈夫なのか聞きたいくらいなのに。

 ちゃんと頷いても、本当? と姉は訝し気な顔をする。

 「そもそも眠ったの、怜香」

 「……うん、まあ」

 本当はほとんど眠らなかったけれど、素直にそう言えず、歯切れの悪い返事になる。すると姉はさらに表情を曇らせた。私に優しく、諭すように言う。

 「睡眠は大事だよ、寝なきゃだめだよ」

 「―分かった」

 私は小さく頷く。それを確認すると、「お弁当、もらっていくよ」とテーブルに置いてあったお弁当袋を片手に行ってしまう。市外の高校に通う姉は、もう家を出る時間なのだ。

 母と私と、パンの焦げる匂いだけが後には残された。食べ終えた母は、ちらりとトースターを見て、「焦げちゃってるじゃない」と顔をしかめたけれど、別にそれを止めようとはしなかった。私もそれをぼんやりと見つめるだけだ。タイマーの設定まで、もうほとんど時間がない。

 やがて、チーン、という音が、二重になって部屋に響いた。時間切れをトースターが私に知らせ、部屋の奥からは金属音が、振動して伝わった。

 空虚な音だ。

 とっくに焼けてるパンが焦げきるのと、母が正座で両手を合わせるのは、同時だったようだった。

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