夏の狭間で迷うひと

折り鶴

風ですら夏は死ぬ

 昔から夏は嫌いだった。

 幼いころの夏の記憶は、暑さで埋め尽くされている。頬に、シャツから出た腕に、はりつく寝具の不快感。湿り気を帯びた空気は容赦なく、どこまでもからだにまとわりつく。窓の向こう、青を背にして緩慢に流れてゆく雲を、ぼんやりと眺めては、俺は途方に暮れていた。いつまで経っても日は暮れない。長い、長い長い夏休み。


 もったいないから、が母の口癖で、子どものころの俺は、ありとあらゆるものごとに対して、だったらしかたがない、と思っていた。

 夏休みは、学校がない。だから、ずっと家で過ごしていた。俺の家にはクーラーがなかった。正確にいうと、あるにはあったが使用されたことがなかった。

 三十五度を超える部屋のなかでまどろんでいると、子どもながらに、これはまずい、と思う瞬間に、ときどき出会うようになった。これは、たぶん、ちょっとあぶない。そのさきにある引き返せない場所。死ぬ、という言葉の響きを知るよりまえに、俺は、その言葉の意味するところを本能的に知っていた。朦朧とする意識のなかで、もうべつにそれでもいいか、と目を閉じてしまう日もあれば、なんとか起き上がり近所のスーパーでなにを買うでもなく涼んで帰る日もあった。

 そうやって、ぎりぎりで過ごす夏を繰り返していた。

 しかし、十歳の夏の終わりのある日、俺は、ひとつの居場所を見つける。

 図書館だった。

 真昼はここで過ごせばいい。涼しくて、適度に薄暗く、静か。子どもが長時間、ひとりでいても怒られない。お金もいらない。

 なんだ。もっとはやく気づけばよかった。

 夕立ちのあと、家よりも外のほうがいくぶん涼しく、どこへ行くでもないけれど、街を歩いていたときに偶然見つけた場所だった。

 それから、夏は、図書館で過ごすようになった。

 あいつに出会ったのも、夏で、図書館だった。


 そもそも、俺とあいつは同級生で、しかも、同じクラスだった。

 中学に上がって、俺はサッカー部に入った。小学生のころからサッカークラブに入っているやつが多く、はじめはどうも居心地が悪かったが、俺は暑さにつよく体力だけはあったため、練習についていけないということはなく、すぐ馴染んだ。ひとりが多かった小学生時代と比べて、友達も増えた。夏休みのあいだも、部活はほぼ毎日あったけど、それでも一日中あるわけではないので、だからやっぱり、俺の夏の図書館通いは変わらなかった。運動終わりの汗くさいガキでどう考えてもあまり歓迎されない利用者だったはずだが、職員のひとたちに嫌な顔をされたことは一度もなかった。むしろ、通い続けたおかげでみんな顔見知りになっていて、ウォータークーラーで水をがぶ飲みしている俺に塩味の飴をくれたりといろいろと気にかけてもらっていた。

 そうだ、脱線しかけたが、あいつの話に戻ろう。

 あいつを認識したのは、ある日の部活終わり、図書館についた直後。カウンターに座るいつもの司書さんに軽く頭を下げて、返却本のコーナーをなんとなく眺めていたときのことだった。

 す、と白い指が見えて、それから、かたちのいい手が伸びてきて、俺の眺めていた本のうちの一冊を抜き取る。思わず隣を向くと、あいつも俺のほうを向いて、それで、視線が合った。

「ごめん、これ、借りるつもりやった?」

 正直にいうとちょっと気になっていた本だった。だけど、別のことに気をとられていた俺は、首を横に振った。

 なんで、こいついきなりタメ語で、微妙に親しげなんやろ?

 知り合いだっけ、と記憶を探って、あ、クラスメイトか、と思い当たる。しかし俺はサッカー部の連中以外とほぼ交流がなくそして記憶力が壊滅的なので、どうにも名前が思い出せない。いやでもちょっと待て、たしか、こいつ、体育のバレーんとき同じチームなったことあるな、名前、思い出せそう、えっとたしかそう!

嶋津しまづ!」

「どうも嶋津です。おまえ、ひょっとして俺のこと忘れとった?」

 うんごめん、と言ってへらへら笑うと、べつにええけど、とちょっとそっけなく返される。

「俺の名前、知ってる?」

「知ってるよ、鴨居かもいやろ」

 お見事正解!

 四月から何ヶ月経った思うてんねん、と続けられたので、俺は指を折って数える。よん、ご、ろく、なな、はち、やから「五ヶ月?」「……せやな」そこで嶋津は少し笑った。俺も笑った。

「……出て、ロビーで喋る?」

「うん」

 嶋津に促されて、俺は頷いた。当たり前だが、図書館内でお喋りは推奨されない。待っててこれ借りてくる、とカウンターに向かう嶋津を見送って、俺はさきにロビーに出る。玄関ロビーは数席だが椅子とテーブル、それに自販機とウォータークーラーがあって、ここでは大騒ぎしなければ、話をしてもいい。

「鴨居は、なんも借りんでよかったん?」

「うん。まだ、読みかけのやつあるし」

 無事に貸出手続きを終えた嶋津が、俺のもとへきて、隣へ座る。

「鴨居、ほとんど毎日来てるよな」

「え、うん、なんで知ってんの?」

「……俺もほとんど毎日来てるから」

 まじでぜんぜん気づかんかった、と言えば、せやろな今日の反応でわかったわ、と嶋津はまた笑った。気づいてて無視されてんのか思っとった。ごめんて俺ほんまにひとの顔ぜんぜん憶えられへんねん、あ、名前も憶えられへんけど。でももう忘れへんと思う。そりゃよかった光栄なことで。それよりさ、最近、なんかおもろい本あった?

 嶋津との会話は、たのしかった。それまで、学校で一度も話したことがないのが嘘のように、俺たちはよく喋った。話題はいくらでもあった。本のこと、担任の悪口、膨大な宿題への愚痴。

「宿題どこまでやってる?」

「いっこもやってない」

 俺のこの答えに嶋津は若干おののいたようだった。まじで? いっこも? うん。やっていっこもわからんもん。

「俺、教えたろか? どうせ宿題ここでやるつもりやったし、てかやってるし」

「え、ほんまに? やった、じゃあ俺も明日からここでやる!」

 次の日、さっそく宿題を持って行き、ロビーの机に広げた。終業式の日に持ち帰るなり放り出していたため、まずプリントのシワを伸ばすところからはじめなければいけなかった。嶋津は勉強を教えるのがうまかった。

「おまえ、ほんま教えんのうまいな。見てや俺これ反比例のグラフ書けるようなったで」

「鴨居が理解するんはやいだけやと思う」

 嶋津はひとを褒めるのもうまかった。それで俺は調子に乗った。ご機嫌になって、すると勉強をちょっとたのしいと思えるようになった。無事に高校に合格できたのは間違いなく嶋津のおかげだった。

 夏休みが終わり、宿題を提出すると担任は驚いた顔をした。俺が宿題をすべてやってきたことが想定外だったらしい。嶋津のほうを見ると、ちいさく笑っていて、つられて俺も、少し笑った。教室で俺たちが話をすることはほとんどなかった。それでも、休日に図書館で会うと、俺たちは夏休みの続きのように、話をして、一緒に宿題をした。ただ隣に座って、それぞれ本を読んで過ごすだけの日もあった。

 次の年、中学二年生になると、俺たちは違うクラスになった。

 学校で会うことは極端に減った。でも、春が過ぎ、梅雨があけて、そして、夏休みになると、俺たちはまた図書館で毎日のように会うようになり、ふたりで、並んで本を読んで、宿題をして、とりとめのない話に興じた。夏は、暑くて、相変わらず俺の家のクーラーは使用されることはなくて、保冷剤を首にあてながらじっとうずくまって眠りをつかもうとする合間なんかにときどき死にたくなるくらい憂鬱になる瞬間があって、だからやっぱり夏は嫌いだったけど、でも、嶋津と過ごす時間だけはたのしくて好きだった。

 中学三年生も、俺たちは別のクラスだった。桜は気がつくと散っていて、長く降り続いていた雨は驟雨にかわり、そして、いつのまにか、立ちのぼる雲の形が夏になる。

 嶋津と過ごした最後の夏だ。


「なあ、どっか行かへん?」

「どっかって?」

「どこでもええけど」

 殺されそうに暑く気怠いある八月の午後、俺は嶋津にそうもちかけた。どうしようもなく、どこか、遠いところに行きたくなったのだ。ほかでもない嶋津と。

「いいよ」

 嶋津は笑って頷いた。俺たちはさまざまな話をしたけれど、家と将来の話だけは意図的に避けていた。暗黙の了解だった。お互い、あまり裕福でないことはなんとなく察していた。海とか行きたいなあ、と嶋津がぼそりと言った。嶋津が要望を口にすることは滅多にないことだったので、俺はなんとしてでも海に行かなくてはならないという使命感におそわれた。幸いここは図書館で地図を閲覧することができた。海を臨める公園まで、自転車を三時間ほど漕げば辿り着けるのではないか、という計算になった。当然のように計算は嶋津がしてくれた。

 サッカー部は七月の終わりに引退していて、俺は図書館へ通う以外にやることがなかった。嶋津もまた、ここ以外に行く場所はないようだった。

 じゃあ、さっそく明日にでも行こか。

 うん。

 午後七時、図書館の閉館時間になっても、まだ陽の名残りはつよく街は明るかった。ここから一気に駆け抜けるように暗くなる。俺と嶋津は、手を振って別れた。ばいばい。うん。また明日。


 あんたの学校の子死んだらしいで事故やって。

 蒸し風呂のような部屋のなかでまどろみながら聞いた言葉が、まったくもって意味不明だった。母は、たんたんと続ける。さっき亡くなったって、嶋津くんって子。

 は? と返しながらも、ああそっかやから嶋津今日いつまで経っても来んかったんかそりゃしかたないよな無理なわけやと変に納得している自分もいた。

 一年生のとき同じクラスやってんてね。告別式あさってらしいけどいくの?

 いく、と俺は返して、それから、事故ってどんな? と訊いた。無免許で親の車勝手に借りてあげくガードレールに突っ込んだアホの運転に巻き込まれたらしかった。俺と図書館で別れてからわずか十五分後の出来事だった。

 翌々日、制服を着た俺に向かって、母は「ちゃんとしてきてよ恥かかんせんといてや」との言葉を投げてきた。うっさいねんボケ死ねと思ったが、いま『死ね』という言葉を口にするのはあまりにも不謹慎だと思い直し「うっさいねんボケ」とだけ言うにとどめるもそれは母をブチ切れさせるにはじゅうぶんな台詞であったためノータイムで投げつけられた味噌汁入りのお椀をもろに喰らい俺は右腕に火傷シャツに染みという最悪の状態で告別式に出席する羽目になった。

 同級生たちは、特に俺のよくつるんでいた連中は嶋津の死にまったく関心などなく、式のあいだもクラスの可愛い子に久しぶりに会えたことを喜んでいるようなやつばっかりで、俺はずっと苛々していて、そのせいなのか、嶋津の両親がどんな顔をしていたのかまるで思い出せない。

 

 ようやく泣けたのは、帰り道、図書館に寄ってからだった。

 馴染みの司書さんたちに、こたえたでしょう、と言われ、こたえた、の意味がよくわからなくて、でもそう言われたそのとたん喉のあたりになにかずっと重たいものを押しつけられているような感覚を自覚して、それで俺は派手に泣いた。そうとううるさかったはずだが、誰も、俺を咎めることはしなかった。


 あれから俺はおとなになって、水を枯らした水槽のようだった息苦しい街を出て、静かに、ひとりで暮らしている。

 嶋津のことは、日々のいろいろな隙間で思い出す。とくに、こんな、あたりがぼやけて揺らぎそうな、うだるような夏の日に。

 俺は毎年、夏が終わりに近づくと、嶋津とあの日訪れる予定だった海へ行く。

 そこにはとうぜん嶋津の姿はなくて、ただ、俺はひとりきりで、迷子のような気持ちで、波が寄せては返す音を、本のページがめくれる音を思い返しながら聞いている。たとえ気まぐれでも、波にあしを浸してみることは、けっしてしない。

 

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夏の狭間で迷うひと 折り鶴 @mizuuminoue

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