第3話――一件目

 葉室長治はむろちょうじは、いつも通りに夕食を済ませた後、居間の畳の上でリクライニングシートに凭れテレビを見ながら、いつの間にか、うたた寝をしていた。


 浅い眠りの向こうで六歳と七歳の孫娘二人が追いかけっこをしている笑い声が、聞こえてくる。


 定年になってもう、今年で十年目だ。

 八王子市役所の地域課を、四十年近く勤め上げ平和で穏やかな人生を送ってきた。


 うつらうつらした意識の中で、ふと昔の記憶を辿ってみた。

 なかなか思い出せない。

 最近物忘れがひどくなってきて、妻に何度も指摘されることが多くなった。


 ふと脳裏に、ある人物の顔が、すーっと思い浮かんできた。

 見覚えのある顔だ。

 いや……見覚えというどころか……


 自分はこの人のことをよく知っている。


 しかし、名前が……思い出せない。

 はて? 何と言ったか。この人とは、かなり親しかったはずなのに……。


 また孫娘たちの声が聞こえてきた。


 よく聞くと、泣き声のように聞こえる。

 長治は瞼を震わせながら目を開けた。


 真正面に、放送終了を示すカラーバー画面が映ったテレビが見える。

 前方の壁にある時計の針を見ると、いつの間にか深夜の三時を過ぎていた。


(うっかり、こんなところで寝込んでしまった……)


 長治はゆっくりと体を起こし、辺りを見回した。

 泣き声がさっきよりも、はっきりと聞こえてくる。


 下の孫の美月みつきの声だろうか。しょっちゅう、上の子の麻綾まあやにいけずをされて泣かされている。


 こんな時間に……。

 妹のぬいぐるみを、また隠しでもしたのか。

 いい加減、小学一年生なのだから少しはしつけなければ。いつも母親に注意されても、なかなか素直に聞かない。


(滅多に怒らないおじいちゃんの言うことなら……)


 長治は溜息をつき、縁側の廊下をゆっくり歩きながら、泣き声が聞こえる食卓の方に足を運んだ。


 突然、家全体が揺れた。

 地震だろうか。


 長治は一瞬足を止め、左の壁に手をついた。そして天井を見上げた。

 そこまで強い揺れではない。


 しばらくすると地震はおさまり、長治は起きたばかりの体を怠そうにしながら、再び前に足を歩ませた。近づけば、近づくほど美月の泣き声が大きくなり悲痛にも感じる。


 長治は、ふと、何かいつもと違うことに、ようやく気づいた。

 廊下をつたい、左にある食卓へ続くガラス戸の仕切りをまたぐ。


美月みつき……? どうしたんだ……!」


 部屋の入口付近で、白いパジャマを着たおかっぱ頭の美月が、床にしゃがみ込み、大声で泣き叫んでいた。

 長治は屈んで孫の両肩を掴み、自分の方に引き寄せた。


「その顔、どうしたんだ!」


 美月の目元や、頬に赤いあざが見えた。


「誰に、やられたんだ!」


 長治がそう聞くと、美月は涙を流し、しゃくりあげをしながら食卓の方を指差した。


「うん?」


 長治は、それを追うように、ゆっくりとそちらに目を向けた。

 思わず息を吞む。


 目に飛び込んできたのは、壁、机、床一面に広がった


 


 見ると、長方形の食卓のお誕生日席に、誰かがうつ伏せで倒れ込んでいる。


(まさか……)


 長治は、その事実を到底受け入れられないように首を小さく横に震わせながらそちらに歩み寄って行く。

 うつ伏せで顔だけをこちらに向けたその人物を見て、長治は堪らず声を上げた。


絵里えり!」


 二人の孫の母親でもあり、自分の娘でもある絵里が寝衣のままテーブルに倒れ込んでいた。

 机には大量の血がこぼれている。


 慌てて長治は、うつ伏せになった彼女の両肩を持ち、抱き起こした。娘の表情を見て言葉が出ない。


 首がだらんとし、目は開いたままで、血に濡れた顔は青白く全く動いていない……。


「そ……そ……そんな」


 長治は全身を震わせた後、気づいたように右を向き、慌てて電話のある居間の方向へと足を早めようとした。しかし、何かにつまづいて、勢いよく前向きに倒れた。

 床に強く顔を打ち付け、鼻にツーンと痺れるような痛みが走り、目が眩む。


 ふと、顔が濡れていることに気づく。

 この臭いは……。


 震える両手の甲で顔を拭い、恐る恐るそれに目を向ける。


 血だ。


 長治は呻きながら、自分の体の下敷きになっているものに気づき、飛び上がるように起き上がった。


 人が倒れていた。


 絵里の交際相手である芳樹よしきが目を開けて、こちらを向いている。仰向けのまま全身血まみれで、動いていない。


「ひっ……!」


 長治は、のけぞるように後ろに身を引いた。


(何が? ……どういうことだ? これは、……これは……現実なのか?)


 目の前で起きている事を、受け止められない。

 視線を泳がせる。

 すると、絵里の右手の上座を下った床にも、誰かが倒れていることに気づいた。

 

 長治は息を震わせながら、恐る恐る、そちらに近づいた。

 呼吸がさらに激しくなる。

 屈み、震える両手で向こうへ横向きに倒れている体をこちらに向けるように仰向けにした。


「……!」


 長治は思わず手を離し、それを口に当てて膝から崩れ落ちた。

 ショックと恐怖と悲しみが入り混じり、まともに泣くこともできない。


 瞳孔が開いたまま、ぴくりとも動かないつまの表情――。


「ああ……あああ」


 体の震えがさらに激しくなる。

 妻が、幼い孫娘を硬直した腕の中で抱きしめていたからだ。


 長治の目から、ようやく涙がこぼれ始めた。


「嘘だ……」


 麻綾まあやの顔は、全く動いてない。

 泣くのをこらえようとしながら、震えた手で、ピンクのパジャマ姿の孫の額にそーっと手を当てた。


 驚くほどの冷たさに、長治は、びっくりしたように手を引っ込め、よろめきながら右の壁に手をつき、必死に起き上がろうとする。


「はああ……! はあ……!」


 呼吸の仕方を忘れたように息ができなくなりそうになり、左胸を抑えた。


 次の瞬間、屋根の上でギギッと、音が聞えた。


 長治は咄嗟によろめいて、すぐそばのキッチンに近づき、そこにあった鍋を手にとった。

 慌てて、食卓の入口に座り込んでいた美月の前に立ち、彼女を背後に隠すようにそれを構える。


 耳を澄ませる。

 足音は聞こえてこない。


 長治は気づいたように鍋をテーブルに置き、美月を抱きかかえ、床に血まみれになっている芳樹の体につまづかないよう震えながらまたぎ、食卓奥にある畳の居間へと踏み込んだ。

 そして、その中の押入れを開け、二段目に美月を乗せた後、低い天井の板を押した。


 屋根裏が見えた。彼は即座に美月を持ち上げ、そこに隠すように乗せた。そして、人指し指を口の前に立てて言った。


「ここで隠れてるんだ。決して声を出してはいけない」


 寂しげに鼻をすすりながら涙を流す美月の頭を撫で、長治はいたを元通りに戻した。

 後ろを振り返り、居間の中にある電話が目に入るや否や、そちらに飛びつくように受話器を上げ一一〇番にかけた。


「……もしもし! かっ……かっか! 家族が大変なことに! 早く来てくれ!」


 その時だった。


 屋根の上からドンという激しい物音が響いた。


 思わず長治は天井を見上げ耳を澄ませた。受話器の向こうで対応している警察官が問いかける。


「大丈夫ですか! 何があったんですか? もしもし――」


 長治は受話器を切らずに傍に置き、息を殺しながら食卓へ戻り、テーブルに置いた鍋をまた手にとった。

 すると、音が、廊下の突き当たりの方から聞こえてきた。


 彼は必死に呼吸を整えながら、手に持っているものを両手で持ち直す。

 きしむ足音が、こちらに近づいてきているのがわかる。


 ゆっくりと。ゆっくりと。

 

 すると、食卓と廊下を隔てる半開きのスライドガラスにが映し出され、それはピタリと立ち止まった。


「だ……誰なんだ? か……和也かずやか? お前なのか?」


 長治は、顔見知りであって欲しいという淡い期待を振り絞るように声を震わせた。


 反応はない。

 顔がわからない相手との睨み合いが続く。


 ふと、左側を見ると、玄関に続く廊下が目に入った。


(ここから…………逃げられる)


 一瞬、その考えがよぎったが、すぐにそれを搔き消すかのように長治は首を横に振る。


(孫を置き去りにするつもりか!)


 その思いがすぐに湧き上がり、再び、彼は今自分が立っている床に縛り付けられた。


(どうすれば?……どう……!)


 彼が恐怖と動揺を抑え切れないながらも、必死に考えを巡らそうとした、その時だった。


 影はゆっくりと動き出し、怯える長治の前に、ようやく、姿を露わにした。


「…………そんな……」


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