橋の下

かいとおる

        橋の下



                       かい とおる



 少年は耳を澄ませた。薄暗い橋の下を覗いている。少年の家の前を車一台がやっと通れるような埃っぽいでこぼこ道が干からびて伸びていた。交差して道幅と同じくらいの川が流れている。家の裏口を出て道を渡るとすぐに川へと降りる石の階段がある。少年の家ができるずっと以前からそこにあって、石は自らの重みに耐えかねたようになげやりに、おもいおもいに傾いて湿った暗い隙間をみせている。人の気配がするとなにかが慌てて逃げ込むのだ。でこぼこした石の表面は苔が貼りついていて滑りやすい。石段が沈む先は道路沿いを流れてきた川との合流地点でもあり少し拓けた淵になっていた。ゆらりと複雑に渦を巻く流れに濃緑色の水草がうねっている。

 あの中に割れた竹を突っ込んでかき回しながら引き上げると長々と水草が巻き付いてきて、タイコウチやらヤゴやら何種類もの昆虫の幼生やら大小様々な水に生きる蟲がくっついてくる。大慌てで蠢きながらプチプチしゅうしゅうと哀れに呟く。小さな世界の混乱。だが少年にはその阿鼻叫喚がパノラマ映画のようにありありとみえる。いつも痩せた胸の奥がちくちくと痛みお腹が重くなった。だけど何故かやめられない、気分は最悪なのに・・・

 長い夏休みのあいだにそうやって引き上げられた水草が、ぺらぺらに乾いたまま埃っぽい道端で熱い風に吹かれている。

 少年は今、流れに洗われる石段まで降りて、慎重に足を踏ん張りながら身をかがめ、橋の下の暗渠を見つめている。ひんやりした空気に混じって反響するまるい音がぬらりと流れ出てきた。両側の粗く削られた石垣がアーチ型の天井を支えている。水の流れ込む奥の入り口がぼんやりとしているのは密生したホテイアオイがそこでせき止められ、緑色の壁を作っているからだ。暗渠の上は厚い土の層で、川に面した両端には日に焼かれ疲れ切った草花が水面に向かって力なく身を垂れている。川の水は素知らぬ涼しい顔で次から次へと流れ出てきて、まあるい淵の舞踏会にくるりと参加してゆくのだ。

 橋の下には囁き声が満ちている。それは絡み合う旋律となって湿った石の肌を撫でるように消えてゆく。目を凝らす少年の耳には角のとれた心地いい響きがころころと転がり込んできた。聞き慣れた音だが待っているのは別のものだ。もっとこの世界に微妙にひびを入れるもの、繰り返される輪が一巡して新しいものが生まれて来るときの、湿っぽい眠りに沈んだ石垣を軋ませるほどの異質な声なのだ。

 湾曲した石の梁が並ぶ天井の隙間から草の根が縺れたまま揺れている。それらは水と共に吹き込む細い風がすり抜けるたびにわざとらしく震えてみせる。泥と苔と水草とさざめく生き物の匂い。身体じゅうの毛穴から侵入して頭のてっぺんへ抜けていくような匂い。指先に微かに残る匂い。

 少年は暗がりのなかほどの滑らかな水面を見つめた。

『あそこにぼくのワニが沈んでる、ぼくの一番好きな鉄のワニ軍曹が・・・』

 

 少年は軍隊を持っていた。ちびたえんぴつ、ひび割れた消しゴム、歪んだコンパス、ハエ釣り用の浮き、台所からくすねたこげ茶色の缶切り、すり減った落書き用のろう石、道で拾った眼鏡のレンズ、蝉の抜け殻、死んだカブトムシ、ガラスの目薬瓶、壊れたプラモデルのバラバラになった部品、牛乳瓶の蓋、曲がった釘が大小多数、そして錆びたペンチ。

 模型好きの叔父からもらった木製の軍艦ミズーリに乗せられて、大人のひざ下に広がる妄想で入り組んだ世界を航海した。かつて共に戦った三つ上の兄がどこか別のリアルを見つけて行ってしまったので、今は少年一人が戦いを続けている。戦う相手は家中のどこにでも潜みその気配は蜘蛛の巣のように隅々まで蔓延っていた。兵隊を満載した戦艦を慎重に巡回させながら敵を誘い出すのだ。

 裏庭に面した小部屋の窓から庇代わりに葡萄棚が伸びていて、その下のアジサイと楓に囲まれた砂場が主戦場になった。夏でもひんやりと湿った空気が低く漂う砂場には多くの魂が眠っている。物心がついた時からそこには二つの鉄兜が転がっていた。昭和30年代のその頃まで、本当の戦争も寝物語に聞く妖怪話のようにやんわりとどこにでも漂っていたように思う。赤茶けて穴の開いた兜は少年の軍隊の恰好の基地になった。砂場全体に羽を広げて展開する兵隊たちを動かすために少年は四つん這いになって視線を低くする。波打つ砂丘にはたくさんの影がある。 

 なかでも一番お気に入りの兵士がいた。使い古された鉄製のペンチで、道具棚の隅から錆びた鉄くずや木片をかき分けて見つけた。黒光りするがっしりした新しい道具にとって代わられた今は、もうすっかり忘れられて赤さびに塗れている。だけどしなやかなその肢体にある種ヒーローのなまめかしさを少年は感じたのだった。引っ張り出された古参兵は優雅でほっそりしたくちばしを固く噤んで沈黙する。それでも手に取ればずっしりと確かに生き物の重みが伝わってきた。少年は、水辺に長々と潜んで余裕を見せるおどけもの、そして強靭な捕食者であるワニを連想したのだ。

 ワニ軍曹は最前線で小隊を率いてよく戦った。後方の陣地には大きな白いビー玉の王が沢山の小粒のガラス玉たちに取り囲まれながら戦況を眺めている。とくに最近は少なからず心を痛めながら。さらにその後方、玉虫の翅一対に守られて、真鍮で出来た古い旅行用の石鹸箱がある。その中で硝子の小さな女鹿が怯えて座っているのだ。少年は度々彼らの目を通してワニ軍曹の活躍を見守った。なぜ戦うのかなど考えなかった。いや、戦う理由はいくらでもあるはずだ。王女を脅かすものはみんな敵なのだ。王女の怯えはつまり少年の怯えなのだった。

 

 朝、目覚めた瞬間から柔らかい布団の外にはざらざらした違和感がある。少年にとって世間は窮屈で悪意のあるトラップに満ちていた。彼は自分のひ弱さとそれゆえの卑怯な性格をよく自覚していた。戦う理由は何かを守るためでなくてはならない。何かとはなんだろう、自分や誰かの命を守るため?少年は幽霊や化け物が怖くて仕方なかったが、死ぬことが怖いわけではないと思っていた。そのことで一度兄と口論になって言い負かされたことがある。結局のところ何かに出会って死にたくないんだろうって言うのだ。納得のいかないまま黙ってしまった。死がなんであるかなどわかるわけがなかった。襲われること、苦痛への恐怖、未知のものに対する不安、それは死への恐怖と同義なのか?どちらかというと目覚めているときの困難さと似たようなものではないか。小さな頭に浮かぶ死とは『いなくなる』というイメージだけだった。消えてなくなるのではない。なにか別のものになるのだ。それは怖いことなのだろうか?その恐怖に打ち勝つためにさらに恐怖を抱えて抵抗するなんて・・・。

 そんなことを考える少年の戦争はやはり悲惨なものになっていくのだろう。


 ある日の雨上がりの午後、風もぴたりと止まって砂場で動いているものは楓の幹を登る蟻の行列と無数に飛び交うイトトンボたちだけだった。アジサイの葉に留まる水滴は何かを凝視するかのように動かない。幾何学模様を描いて飛ぶイトトンボたちも、その翅を掲げてせわしく走る蟻たちも静止しているかのように生気を感じさせない。地表に浮き出た楓の太い根に腰掛けた少年は、そういった死者の時間の濃密さに呼吸をとめて見入っていた。

 砂場の一角に二本の足が突き出ている。昨日、容赦のない戦いについに力尽きたワニがそこに半身を埋めているのだ。味方の残骸の多くもそのあたりの砂の中にバラバラになって埋もれている。敵の攻撃は凄まじかった。何処からともなく集まってくる敵方に対してこちらの準備は万全ではなかった。少年の軍隊は内部から崩壊して散り散りに敗走し、勇敢なワニ軍曹が身を挺して時間を稼いだにも拘らずほとんど全滅に近かった。彼は本当に死んだのだろうか?見えない敵と戦って死ぬことをどう思っただろうか?自分が誰と戦っているのか知っていたのだろうか?

 楓の古木のやっと手が届くところ、枝分かれした幹の深い割れ目の奥に王女と王は隠れている。彼らをそこに追いやったのは他ならぬ少年なのだ。


 台所から一段降りた狭い土間に風呂の焚口があり、薪が勢いよく燃えている。影が長く伸びて家の壁が薄赤く染まる夕方、炎を見るのが好きな少年の密かな楽しみがあった。軒先に積み上げられた薪を引っ張り出してきてどんどん放り込む。石ころや瓦のかけら、割れたビー玉、ペケの多い答案用紙、破れたノート、死んだ蝉や蝶、蛇の抜け殻、自分で切った髪の毛や爪、とにかくなんでも火に焚べた。たぶんワニ軍曹にもふさわしいのではないかと思った。それは戦場の再現でもあり弔いでもあるような気がしたから。

 砂の中からそっと掘り出した鉄のワニは、湿っていて冷たくいつもよりさらに引き締まった重さだった。丁寧に砂を掃い、勢いよく燃える薪の上に火ばさみを使って置いた。薄赤い炎は半透明で、じっと動かないワニの姿がよく見えた。ところどころ星のように錆びの浮いた黒い躰のまわりにちかちかとオレンジ色の火花が散る。焚口の前に座り込んだ少年の顔は熱に煽られて上気していたが、手足は冷たい汗に濡れていた。


 崩れ落ちた薪の中でワニはわずかに口をあけて眠っているようだ。躰の節々が赤く瞬きを繰り返し、その光は輪郭に沿って伸びたり縮んだりしている。少年は魅せられたようにその様子をじっと見つめていたが、やがて火ばさみを使って慎重に取り上げた。これから何をするかは決めていた。しっかり挟み込んだ鉄のワニをできるだけ体から離して裏の川に向かった。石段を下りて目の前の滑らかな水面にそろりとすべらせた。川は「じゅう・・」と一言呻いて白い煙を吐出しそれきり何事も無かったように流れている。川底の小石の上にだらしなく足を投げ出したワニが今にも動き出しそうで怖かった。その時だ、ワニの口からぷくりと一粒の泡が湧いて少年の顔をめがけて昇ってきたのだ。 

 思わず見開いた目の前で泡は小さく弾けた。


 気がつけば周りに音が溢れていた。橋の下から押し出されてくる水が岸辺の草や石垣を撫でるまろやかでころころした音は、うねる水草に合わせて慌しく変化している。川の上を行きかうギンヤンマの力強い羽音、柳にとまった蝉の眠たそうな鳴き声、近所の家で犬が吠えて子供の泣き声がする。夕焼け空が蓋をかぶせたように大気が降りてきて世界が迫ってくる。


 何が少年を突き動かしているのか解らなかったが、繰り返しワニは火と水のあいだを行き来することになった。ワニ軍曹はすました顔で少年を横目でみてくる。『あんたなにがしたいんだい?』

 川はいつもの通り何事にも動じない。手首に戯れて忘れ去る。のたうつ川藻だけが眉をひそめ、少年を避けるように身を捩っている。


 三日後、何度目かに流れに沈んだワニがついに壊れた。「ジャグッ・・」っと濁った音がして関節が緩み顎がはずれた。投げ出した足には生気がなく、いつのまにか全身が赤茶けて脆く痩せてしまっていた。

壊れたものは勇敢な兵士だけではなかった。少年のなかの何かが崩れた。


 今、少年は橋の下を覗いている。密生したホテイアオイの細胞壁を通してわずかな光が差し込んでくる。暗がりに目が慣れてくると、なめらかな水面が緑色の濃淡に染まって揺れているのがわかる。ちょうど真ん中あたり、底に石でもあるのか少し波立つあたりにワニ軍曹は沈んでいる。ばらけたワニを少年がわしづかみにして投げ込んだのだ。なにも起こらないのだろうか?あれから何度もこうやって覗き込んで耳を澄まして目を凝らして恐れて震えて期待して待っているのに。永遠という言葉の輪郭さえ掴めなかったあの頃、暗渠から押し寄せる水の抵抗できない豊かさや妖しさ猥雑さは、時間というものの圧倒的な存在そのものだった。


 少年の夏はもう終わりを迎えようとしている。



                          

                         了


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橋の下 かいとおる @kaitorupan

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